05 Mint Blue


いくら高専が山の中にあるとはいえ、夏の日差しは暑い。任務のない休日の昼間、談話室で五条と夏油はだらりとソファでくたばっていた。ナマエはその隣に立つ。座ったって五条は何も言わないだろうけれど、何となく座るよりは立っている方が性に合っている。

「ナマエ、アイス取って」

五条が冷蔵庫のほうを指さしてそう言った。夏油が「悟、それくらい自分でやりな」とたしなめるも、これは充分自分の仕事の範疇である。ナマエは冷蔵庫の前まで移動して上部の冷凍庫になっているスペースのドアを開けた。冷え冷えとした空気が流れてくるだけで、中にアイスはひとつもない。昨晩食べきってしまったのだろう。あるじはアイスをご所望のようだしこれは調達してくるしかない。

「買い置きがなくなってしまっているようなので、買ってきます。少しお待ちください」

冷蔵庫の前から移動すると、何か夏油と話をしていただろう五条にナマエは言った。玄関に向かって踵を返し、家入とお揃いのスニーカーに足を滑り込ませると、麓のコンビニに急ぐ。あそこには彼の好むアイスキャンディーが売っていたはずだ。夏油と、いまは不在にしている家入の分も買ってきておこう。この暑さだと帰りは急がなければ溶けてしまうな、と考えながら寮を出てしばらくしたところで、ぬっと自分の真上に影が差す。傘だ。見上げると、五条が日傘を差して立っていた。

「俺も行く」
「え?」
「自分のやつ自分で選びてーし」

なるほど、今日はアイスキャンディーの気分ではなかったのかもしれない。それならそれで携帯に電話をくれても良かった気がするが、そんなふうに思う頃にはそれなりに寮から離れてしまって今更なことになってしまった。

「日傘、珍しいですね」
「傑が持ってけって言うから」
「なるほど、夏油さんらしいです」

いかに夏の日差しが酷いとはいえ、五条自身に日傘を持って行こうなんていう発想があるとは思えなかった。女性への気遣いに長けている夏油の進言だというのなら納得である。古い呪術師の家では男と女の立場というのも明確に違っている。その最たるものの五条家の、その分家であるミョウジ家も御多聞に漏れず男と女の立場は雲泥の差があったし、ナマエ自身も女だてらに家業をこなすことに対して理不尽な誹謗中傷をよく受けた。

「……オマエ、傑のことどう思ってんだよ」

五条が何か不安そうなものを含ませながらそう言った。何を言い出すのかと思って面食らった。どう思っている、とはまた難しい。彼のことはまだよく知らないが、頭の中で彼について知っていることを指折り数える。年齢のわりに大人びていること、常識的な面が強く、また非術師の家庭出身でありながら五条と拮抗するほどの能力を持つ術師であること、それから五条とは波長があういい友人だということ。
ナマエは頭の中にぽんぽんといくつも夏油傑という人物について思い浮かべ、そしてその中からいくつかを選んで口にする。

「そうですね…非術師の家庭ご出身ということは、呪術のお勉強は最近始められたんですよね?それなのにあれほど術式を使いこなすというのはセンスがあるのだと思います」
「は?」
「あと、私も一般社会についてほとんど座学だけのようなものですので、リアルな声が聞けるというか、悟様が一般社会のことを知るきっかけをたくさんくださってありがたいとも思ってますよ」

特筆するべき点をそうしてピックアップして口にすると、五条が目を丸くする。欲しかった言葉が今の中に混ざっていなかったのかもしれない。一番適切なものを選んだつもりだったけれど、どんな答えを望んでいたんだろうか。

「そういう意味じゃねぇんだけど」
「えっと、すみません。ではどういう意味ですか?」
「もういい」

五条がぷいっと顔をそむける。率直に尋ねたが答えてくれるつもりはないようで、不機嫌な声で言葉が切られた。気になってもこうされたらそれ以上追求しないのは側御用としての作法のひとつだ。あるじに一番近くにいることが仕事だけれど、決して理解できると驕ってはいけない。
不機嫌な声だったのに、五条の足取りは不思議と軽いようだ。日傘を持つのを代ろうとしないのは雨傘のときと同じで、彼が背丈を抜かし始めたあたりから「お前が持つと頭に当たんだよ」と、あたりもしていないのに言われ、それからというものあるじであるにも関わらず彼は率先して傘を持つ係をやりたがる。

「高専、どうだ?」

次に振ってきたのはそんな話題だった。呪術高専は良いところだと思う。任務に出ることで負傷の危険は孕んでいるが、それは呪術師であればある程度避けられないことだ。世代が良かったのか、夏油も家入も五条家次期当主という立場に忖度することなく等身大で五条に接してくれているし、五条も口にしないだけでそれこそが求めていたものなのだと思う。

「そうですね…やはり宗家屋敷の中では得られない知見があると思います。優秀な当主たるもの視野が広くなくてはならないと思いますし、そういった意味ではとても好ましいかと」

とはいえ、それはナマエの私見である。私情でそんなことを言うよりも、ここでどんなものが得られるかということを述べた方が好ましいだろう。そう思って五条の将来にいかに良い作用ともたらすかという点に絞って述べれば「俺じゃなくてオマエがどう思ってるかって聞いてんだけど」とまた不服そうに帰ってきた。
そうか、自分の私見で良かったのか。それならばと考えていた自分の感想を心の中で纏めなおし、再度口を開いた。

「これは私情ですが、悟様にご学友がいるのは良いことだと思います。宗家屋敷にいらっしゃった時よりも明るいお顔が見られますので」
「…オマエ、ほんと俺のことばっか」

ごくごく個人的なナマエの感想に対し、五条は少し呆れたような、照れたような、そんな声が降ってきた。俺のことばっか、だなんて、それはそうだろう。自分の役目は彼を支え、彼に尽くし、彼の身を立てることである。すべてをかけて仕えているあるじが楽しそうな顔を見せてくれるのは嬉しいに決まっている。

「私は、悟様の側御用ですから」

思わず少し口が緩んでしまった。ここは箱庭の中に閉じ込められるばかりだった彼を変えてくれる。自分はその手助けが出来ればいい。少しだけでも彼のためになれるのならば、それで。


ナマエは普段、就寝や入浴、自分の家業に割り振られる時間以外のすべてを五条のそばで過ごしている。彼が宗家屋敷に住んでいた時はここまでべったりというわけではなかったが、高専には他に五条家の使用人もいないし、すべてが自分に降りかかるのは当然のことであると言えた。

「あ、ナマエさんだ」
「家入さん、お疲れ様です」

高専では寮に間借りし、その他設備も学生と同じものを使わせてもらっている。だから入浴も学生と同じ大浴場で、今日も丁度風呂をいただこうかと思っていた。しかし彼女が入るのならば自分と被ってしまうのは申し訳ない。脱ぎかけていた服を粛々と元に戻していく。

「あれ、ナマエさんお風呂入んないんですか?」
「いえ、家入さんが入られるのなら私はあとからいただきますので」
「他人がいるとお風呂入れないタイプです?」
「いえ、そういうわけではないんですけれど…」

気を遣わせてしまうから、普段はもっと夜遅くに入っていたのだが、珍しく少し早い時間に来たせいで案の定家入とバッティングしてしまった。「じゃあ一緒に入りましょうよ」と家入に言われ「家入さんがよろしいのなら…」とお言葉に甘えて一緒に風呂をいただくことにした。

「あー、あるほど。だからナマエさんにお風呂で会わなかったんですね」

何故遠慮したのか、を問われて自分は学生でもない五条家の側御用だから風呂の時間が被るのが憚られた、という旨を説明すると、家入はからりと笑った。身体を洗い、年季が入っているが清潔に保たれた大きな浴槽に二人で身体を沈める。湯舟にこうして毎日浸かれるのはありがたい。寮の風呂だから勿論学生や術師が使うものだけれど、そもそも呪術高専の学生の数なんて高が知れているし、女風呂となれば本当に数えるほどしか使っていないのが現状だ。

「でもナマエさん、私の使用人じゃないし、そんなことまで気にしなくて良いですよ」
「そ、そうですか…?」
「そーです。だってお揃いでスニーカーまで買ったんですよ?」

家入が少し悪戯っぽくそう言った。肩から上がゆらゆらと揺れる湯から空気に触れ、湯気がやんわりと風呂を薄く白く染める。大浴場はべつに銭湯というわけではないから、見取り図上は隣接している男風呂の音は聞こえてこない。
家入はまだ何か、例えばナマエとの関係の適切な言葉を探すように「んー」と声を漏らす。それから白い足で三角座りをして、二の腕に頬をつけるようにしてこちらを見上げた。

「新しいお姉ちゃん、みたいな」
「あ、新しいお姉ちゃんですか…」
「嫌ですか?」
「そ、そんなことないですよ!」

悪戯っぽく笑われてタジタジになる。魔性というと少し言葉が違う気がするけれど、それに類するような、同性であっても引き込まれてしまうような魅力がある。大人びた見た目や初対面のクールな感じに反し、距離が近くなってさえしまえばまるで末っ子のような甘えた様子を見せてくる。きっと将来彼女のこの性質に翻弄されてしまう男は多いだろう。

「ねぇナマエさん、ずっと聞きたかったんですけど、側御用ってなんですか?」

ちゃぷん、という湯の揺れる音にそんなことを尋ねられた。側御用は五条家にだけ存在する特殊な制度である。いかに彼女が呪術師の家系出身だとはいえ、耳慣れていなくて当然だろう。

「五条家にある制度です。ご当主様や若君様について、日頃のお世話をしたり、必要があれば仕事をお手伝いすることもあります」
「特別な執事ってことですか?」
「そうですね…鍛錬のお相手もしますし、一般の言葉で表現するなら、使用人と護衛が混ざっているみたいなイメージでしょうか…」

日常の世話から護衛まで、あるじにすべてを尽くす存在であり、分家ではひとつの栄誉である。ミョウジ家を含むいくつかの分家から選ばれ、その生涯をあるじと共にする。あるじが罷免、または側御用本人が死なない限りその関係は絶対のものだ。

「若君様のお召しがある限り、私は一生側御用のお役目をいただけます。基本的に側御用はあるじと一蓮托生で…これは一族の中でも無類の誉れなんです」

もちろん沈むときもあるじの傍らで使命を全うする。御三家というものは家の中での権力争いが絶えない。後継者が複数人いる場合にはもちろんそれぞれに側御用がいるし、後継争いの中で没落したり命を落とす者もいるが、側御用は例外なくあるじのその命運に付き従う。

「そういうの、女性が選ばれることあるんですね。ホラ、呪術師の家って男社会じゃないですか」
「そうですね、女性の側御用の例はあまり聞いたことがありません」
「じゃあ、ナマエさん超優秀なんだ」

家入がナマエの説明を聞いた後でそう言った。男系社会の呪術師の家において女が尊ばれることは皆無だ。そのなかで自分が側御用になったのはかなり稀有な例だった。しかも、現状五条家の後継者は五条悟ひとりである。彼以上の能力と才能を持つ人間をこれから探すというのは現実的じゃない。つまりナマエはいずれ五条家当主の側御用になるということである。

「そんなこと、ありませんよ。なにかの偶然です」

ナマエは曖昧に笑った。そんな大役を女に許すなんてどんな裏があるのか。想像したことがないわけじゃない。けれど自分などがそんなものを想像しても、たとえ理由を突き止めてもどうしようもないことだ。家入が手のひらでちゃぷんと水面を揺らす。

「ナマエさんに会えたのは五条のおかげかぁ」
「それはその通りですね…まさかこんなふうに呪術高専のお風呂をいただくことになるなんて想像もしてませんでした」
「友達と一緒にお風呂入るの修学旅行ぶりかも」
「ふふ、それを言ったら私は家入さんが初めてですよ」

少し重くなってしまった空気を和らげるように努めて明るい声を出してみた。家入が「同期に女子いないって聞いてたから、ナマエさんいてくれて嬉しいんです」と言って少し笑った。その言葉がくすぐったい。彼女はナマエにとって、初めて出来た同性の友達である。










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