04 Cerulean Blue
高専は居心地がよかった。同級生は二人いると聞いていたが、正直な話自分の家柄のことがあるから、媚び諂う連中なんだろうな、と思っていたが、非術師の家庭出身の夏油のみならず、家入も家柄のことは関係なく我を通すタイプのようで、家の妙なしがらみから解放された。担任である夜蛾にしてもそうだ。事情を知ってなお自分に対してまるで普通の学生と同じに接した。それが心地よかった。
「悟、もう時間だよ」
「あ?まだいいだろ」
約束の土曜日。のんきに準備をしていると夏油が自分のことを呼びに来た。時間と言ってもまだ約束の10時を少し回った程度である。家入はわからないが、ナマエは性格上もう寮の前で待っているだろう。だけど待たせるのはいつものことだった。
「はぁ、悟のそういう時間にルーズなところ直したほうが良いと思うけど」
「うるせー」
小うるさく夏油にそう言われ、渋々ジャケットに携帯電話と財布を放り込んで寮室を出る。生あくびを噛み殺しながら寮の前までたどり着くと、家入もナマエもそろって二人を待っていた。
「あ、硝子ももう来てんじゃん」
「おせーよ男ども」
家入に舌打ちをされながら早速高専を出発する。渋谷まではバスと電車をいくつか乗り継がなければならない。面倒だとは思うが、公共交通機関をいままで使うことがなかったから改札を通るのは少し楽しい。
「今日どこ行くの?」
「傑がスニーカー見てぇってさ」
家入に尋ねられてそう答えた。まぁ自分も何か買おうとは思っているけども、そもそも渋谷に行こうと言い出したのは夏油だから間違いではない。再開発のために工事の続く渋谷駅は来るたびに変わっている。さてこの工事がすべて終わるのはいつになるんだろうか。10年経っても終わっていない気がする。人が多いからなんとなく二組に分かれて歩くようなかたちになり、先を行く自分の隣を家入が歩いていた。
「休日までお守りとか、ナマエさんも大変だね」
「はぁ?」
「ま、私はナマエさん好きだからいいけど」
家入が不意にそんなことを言った。お守りとは心外だ。自分のことは自分で出来ている…はずである。というかナマエにとってはそれが仕事なんだから大変も何もないだろう。彼女の人当たりの良さに好意が集まるのは理解できるけれど。
「硝子にも人に対して好きとか思う気持ちあんだな」
「ナマエさん真面目だし、いい人だし、別に五条だけじゃないでしょ。好きって思うのは」
嫌味な言い方をしてやったつもりなのにそう返ってきて、しかも視線で後ろを指される。なにが、と思って視線を背後に向ければ、ナマエは少し後ろで夏油と睦まじげに話をしていた。なんでそんなに近いんだよ。ナマエは俺のだろ。そんな気持ちが湧き上がってナマエを呼びつける。
「…ナマエ」
「はい、悟様」
「こっち」
ナマエは手の動きで五条の意図を察知して、夏油の隣から自分の隣まで移動した。「あの、何か御用でしたか?」と聞かれたが、用も何もなかったし気の利いた言い訳も出来ずに「別に」とだけ口にする。ナマエには自分がどうして不機嫌になっているか全く身に覚えがないようで、数秒間黙ってから五条が口を開いた。
「オマエ、傑と近すぎ」
「えっ…そうでしょうか?一般的な適正距離だと思ったのですが…」
「ダメ。近い。もっと距離取れ」
「はぁ……」
いや、この人混みなんだからあれ以上距離を取るのは難しいだろう。抱き合っているわけでもなし、適正距離の範囲内であるのは承知の上だ。ナマエは納得いかずにぼんやりとした返事をするばかりだが、自分の隣に彼女がいるのならそれでいい。
「行くぞ」
それだけのことですっかり気を良くした五条はナマエにそう言い、目的の店に向かって歩き出した。
夏油が来たいと言っていたのは、スニーカー有名ブランドのフラッグショップだ。履き物にそれなりのこだわりを持つ夏油が早速目当てのシリーズの新作を端から探し始める。自分は足のサイズが大きいから、国内流通向けのブランドだとサイズが揃ってなかったりするのだと知ったのは、高専に入学してからである。家で生活をしていた時は頭のてっぺんからつま先まですべてオーダーメイドだった。
「傑、あった?」
「んー、あ、アレだ。色違いあるかな」
「色もだけどサイズもだろ」
「言えてる」
夏油と五条だと少し五条の方が身長が高いが、足のサイズは夏油の方が融通が利かない。甲の幅が少し大きいらしい。店員を呼び、目当てのものの色やサイズを確認してもらう。その流れであれこれとフィッティングしていたら、いつの間にか女子二人が背後から消えていた。家入がレディースコーナーにナマエを連れていったらしい。
「悟も何か買う?」
自分にぴったりのものを見つけてホクホクな夏油がいつもより弾んだ声で五条に声をかけ、「おー」だか「あー」だかわからない返事をして目の前の棚に視線を投げた。
結局、スニーカーに詳しい夏油の勧めで一足買い求め、ちょうど反対側のレジで会計を終えたらしい女子二人と合流する。ナマエも家入も手にショップの袋を持っていた。
「珍しいな、オマエもなんか買ったのかよ」
「はい。家入さんがお揃いのを買おうって誘って下さって…」
ナマエが少し柔らかい表情でそう言った。女子はお揃いとかそういうのが好きだと聞いたことがあるけれど、家入は興味があるように思えない。その彼女から誘ったとなると、家入は想像以上にナマエのことを好ましく思っているようだ。
「次、どこ行く?」
「ゲーセン行こうぜ」
目的地にゲームセンターを提案して、反対がなかったからそのままセンター街の中のゲームセンターを目指した。夏油と家入が先を歩き、その後ろを五条とナマエが揃って歩く。隣を見下ろせばナマエがまだ嬉しそうな顔をして手に持ったショッパーを見つめていた。
「お前が楽しそーにしてんの久々に見るわ」
別に笑ったところは見たことがあるし、何もかもに無表情を貫き通している訳ではないと知っている。だけど側御用として自分について高専に来てから、緊張しているのか堅い表情を見ることの方が多かった。ナマエはこちらを見上げて少し驚いている。きっと無意識のうちに顔が緩んでいたに違いない。
「いいんじゃねぇの」
それに気がついてばつが悪くなったのか、ナマエは咄嗟に視線を逸らした。こんな反応が見られるのなら、父親に我を通して高専までナマエを連れ出した甲斐があるというものだ。
夏になると、山深い場所に位置している高専も日中の日差しが強烈に降り注ぐ。午前中は夏油と組み手をしていたけれど、シャワーを浴びても結局汗をかいてしまって気持ち悪い。談話室のソファでだらだらと溶けながら、何か冷たいものでも食べないとこのまま原型を保てなくなると、非科学的な思考が頭をよぎる。
「ナマエ、アイス取って」
「悟、それくらい自分でやりな」
五条が冷蔵庫のほうを指さしてそう言った。もちろん嗜めたのはナマエではなく隣に座る夏油だ。反対隣に立っていたナマエは五条の言葉に従って冷蔵庫までアイスを取りに移動した。
「なんでもかんでも彼女にやらせてどうするんだい」
「いーんだよ。ナマエの仕事なんだから」
「はぁ…だからって君な…ナマエさんがいなくなったらどうするつもりだよ」
夏油が呆れ混じりにそう言った。ナマエがいなくなる?そんなのあるわけがない。彼女は自分の側御用だ。原則自分が罷免するまで彼女は一生自分のそばにいる。側御用とはそういう仕事である。
「…ナマエは一生俺の隣にいるし」
「は?」
あるじと側御用の関係をよく知らない夏油は「何を言っているんだ」と言わんばかりに間の抜けた声を出した。そんな間抜けな声を出されても事実は事実だ。ナマエが冷蔵庫から戻ってきたことで会話が途切れる。彼女の手にアイスは握られていない。
「買い置きがなくなってしまっているようなので、買ってきます。少しお待ちください」
ああ、昨日の晩に最後の一つを食べてしまったんだったか。ナマエはそれだけを言うと玄関に向かって移動した。麓のコンビニにでも行くつもりなのだろう。なんとなく一人で行かせるのは嫌で、暑い中を歩くのは気が乗らないが追いかけることにした。
「……俺も行ってくる」
「悟、ナマエさんに日傘差してあげなよ。銀色のやつ、傘立てのところにあるから」
夏油が五条の背中に向かって「いってらっしゃい」と言葉の続きを投げた。言うとおりにするのは少し癪だけれど、まぁ彼の言うとおりに日傘を差してやった方がいいのだろう。玄関脇の傘立てで銀色の傘を引っつかみ、すでに寮を出て少し進んでいたナマエに広げた傘で陰をつくってやる。丸い瞳が驚いたように自分を見上げる。
「俺も行く」
「え?」
面倒なことを嫌がるのになんで、と驚くナマエに「自分のやつ自分で選びてーし」と言い訳をしてふいっと顔を上げた。
「日傘、珍しいですね」
「傑が持ってけって言うから」
「なるほど、夏油さんらしいです」
ナマエの中で夏油の評価はどうなっているんだろう。彼は自分と違って女性にきちんと気を遣える。男尊女卑の坩堝のような五条宗家ではそんな男はほとんどいなかったはずだ。女は男を支えるのが仕事、血を残すために子を産むのが仕事。ナマエはそんな中でも他の女とは少し違って家業や側御用を任される女ではあったが、それでも女として気遣われるなんて機会はほとんどなかったに違いない。
「……オマエ、傑のことどう思ってんだよ」
だから、そんな女性が家の外の男に優しく気遣われたら、特別な感情を抱くんじゃないかと思った。ナマエは「え?」と、面食らい、質問の要領を得ないようで短音を漏らした。夏油は良いやつだ。温室育ちの自分と違っていろんなことを知ってるし、幼少期近所に女子が多かったとかなんとかの理由で多分ほかの同世代の男よりも女性に気を遣うことが出来ると思う。そういう男を好きになったと言われたら、悔しいが納得は出来てしまう。
「そうですね…非術師の家庭ご出身ということは、呪術のお勉強は最近始められたんですよね?それなのにあれほど術式を使いこなすというのはセンスがあるのだと思います」
「は?」
「あと、私も一般社会についてほとんど座学だけのようなものですので、生の声が聞けるというか、悟様が一般社会のことを知るきっかけをたくさんくださってありがたいとも思ってますよ」
今度はこっちが面食らう番だった。ナマエはいつも通り至極真面目で真剣で、自分が夏油傑という人物をどう思っているかをつまびらかに説明していく。いや、聞いたのは決してそういう意味ではないのだが。
「そういう意味じゃねぇんだけど」
「えっと、すみません。ではどういう意味ですか?」
「もういい」
好感を持っているのは確かだけれど、五条の思っているようなそれではないのも確かだろう。不機嫌な声で「もういい」と言ったものの、足取りはむしろ軽くなった。ナマエは自分が言葉を切ればそれ以上追求してくることはない。側御用の作法だ。
石畳の階段を下る。日傘で上からの日差しは遮ることが出来ているけれど、照り返しがすごくて足下から熱気が上がってくる。
「高専、どうだ?」
次に降ったのはそんな話題だった。道の周りに生えそろった木々からは蝉の声が洪水のように聞こえてくる。ナマエは「そうですね」と少し考えるようにして言葉を探した。
「やはり宗家屋敷の中では得られない知見があると思います。優秀な当主たるもの視野が広くなくてはならないと思いますし、そういった意味ではとても好ましいかと」
「俺じゃなくてオマエがどう思ってるかって聞いてんだけど」
またも少し外れた生真面目な答えが返ってくる。ナマエ自身がどう思っているのか聞きたいのに、返ってきた答えの中には自分しかいない。それに窮屈な家を出たくて出てきただけであって、当主として見識を深めようなんて考えは毛ほどもない。オマエの意見を聞かせろとばかりに言葉を投げて続きを待てば、ナマエがまた考えをまとめるように少し黙った。
「これは私情ですが、悟様にご学友がいるのは良いことだと思います。宗家屋敷にいらっしゃった時よりも明るいお顔が見られますので」
「…オマエ、ほんと俺のことばっか」
オマエがどう思ってるかとストレートに聞いてみてもこの始末だ。本当に骨の髄まで側御用の精神が染み付いてしまっているんだろう。ナマエが同じ傘の下で少しだけ笑った。
「私は、悟様の側御用ですから」
返ってくるその言葉が嬉しいような、なにか引っかかるような、自分でも上手く言葉に出来ない。出来ることなら彼女自身も「高専に来てよかった」と、そう思っていてほしいと思う。どうしてそんなふうに考えてしまうのかは、まだよくわからないけれど。