03 Fresco Blue


この世は表裏一体である。太陽が沈めば月がのぼるように、非術師の裏には術師がいる。そして術師たちの裏にもまた、その月とも言うべき存在が寄り添っていた。
ミョウジ家の成り立ちは1200年代前半。菅原支流であった五条家にルーツを持ち、やがて五条家が呪術師を家業としたころにはまるで影のように成り立った。分家だったミョウジ家の初代当主は当時の五条家当主の実弟であり、弟は兄を献身的に支えた。ミョウジ家は五条家の影として汚れ仕事を請け負うようになり、中世には隠密部隊として組織化されている。元は権力争いのための粛正の色合いが濃かったが、表立った争いがなりを潜める現在では五条家の私有地における事態の収拾や高専から五条家に流れてきた呪詛師捕縛や尋問などを生業にするようになった。

「おまえはこれから呪術高専で若君様の影となり、五条家に尽くすのです」
「はい、父上」

父にそう深く言い含められる。ナマエはミョウジ家に生まれた一人娘だった。通常隠密部隊の役目というものを女が任されることはないが、ナマエが優秀だったこと、それから何より有望な男児がいないという理由で任を課されるようになった。

「粉骨砕身務めて参ります」

ナマエは父親に頭を下げると、家長の部屋とされている一番東の部屋を出た。足音も立てずに歩くのは、幼いころから仕込まれているクセのようなものである。
時代錯誤の家に生まれて、ろくに一般社会に関わることもなく自らの腕をお役目のために磨いてきた。今の五条家の当主は歴代に比べれば穏健派らしい。その証拠に、六眼の無下限呪術使いである息子に呪術高専への入学を許可していた。御三家の生まれならば呪術の勉強は家の中で行うし、義務教育も受けさせずに家庭教師に教養を付けさせる場合もある。だから子供の希望とはいえ、外界に出すということは異例中の異例だった。

「…ご当主様にご挨拶に伺わないと…」

ナマエはその足で五条宗家屋敷に挨拶に向かった。明日からはナマエも特例的に学生ではない身分で呪術高専で生活することになる。五条宗家屋敷に到着すると、一番に当主と奥方に挨拶を済ませた。
宗家屋敷は恐ろしく広い。まだ慣れていない頃はよく迷ったものだし、今でも立ち入ったことのない場所も存在する。手入れされた日本庭園を臨む渡り廊下から綺麗に剪定された松の木を眺めていると、ふと背後から呼び止められた。

「ナマエ」
「はい、若君様。いかがなさいましたか」
「…その呼び方やめろ」

呼び止めた男は心底嫌そうに顔を歪めた。ナマエを呼び止めたこの男こそ、五条家次期当主にして六眼と無下限呪術の使い手、五条悟である。

「そう仰いましても、若君様を御名をお呼びするのは憚られますので」
「いや、マジで何のための高専行くと思ってんだよ。そういうのが嫌だから出てくっつってんのに…」

彼は明日からこの五条宗家屋敷を離れ、呪術高専に入学をして寮生活を送る。いままで五条家当主になるべく生まれた人間でそんな経歴を持つものはいないんじゃないか。五条はずいっとナマエとの距離を詰めると、不躾にびしりと指をさす。

「オマエ、今日から俺のことは名前で呼べよ」
「しかし……」
「命令」

あるじの命令は絶対だ。命令と言われてしまえばナマエに抵抗できるすべはない。「さとるさま」と唇の動きだけで言ってみた。どうにも慣れない。口だけで呼ぶ練習をしていたのを見透かされ「声に出せよ」と指示された。ナマエはきゅっと唇を一度引き結んでから「悟様」と声に出してみた。音になると尚更しっくりこなかった。


一個人の意見として申し述べると、彼が一般的な価値観でいうところの豊かな学校生活を送り、宗家屋敷にいた頃よりも笑顔が増えたことは喜ばしいことだと思う。
問題は、その豊かな学生生活に自分を巻き込もうとしてくるところだった。ナマエはあくまでここに仕事で来ているだけであって、学生の疑似体験をしにきているわけではない。厚意は嬉しいとは思うが、本来自分は普通の人生を許されて良い立場ではないのだ。

「ナマエさん、おはよーございます」
「家入さん、おはようございます」
「大変ですね、お坊ちゃまのお守り」

土曜日、指定された寮の前で待っていると、一番最初に姿を現したのは五条のもうひとりの同級生、家入硝子であった。彼女は他人に反転術式を施せるという稀有な才能をもっている。夏油にしてもそうだけれど、五条の六眼に引き寄せられるようにそういう才能の人間が集まっていると思う。

「あ、硝子ももう来てんじゃん」
「おせーよ男ども」

家入がチッと舌打ちをする。ナマエは慣れているが、五条はいつも通りの「怒るほどでもない時間」の遅刻である。どうやら夏油が引っ張ってきたらしい。この中途半端にルーズな性格はどうにかならないものか。まぁ、そんなことは自分が心配するようなことではないのだけれど。
四人で高専を出発すると、バスと電車を乗り継いで都心へと向かった。外界とはあまり関係を持つことなくいままで過ごしてきたナマエであるが、教養としてはそれなりに知識はある。それでもきっと夏油や家入に比べればまだまだ知らないことばかりなのだろうとは思うけれど。

「今日どこ行くの?」
「傑がスニーカー見てぇってさ」

家入が尋ね、五条がそれに答える。渋谷駅はいつも工事をしているから、うっかりしていると迷ってしまいそうだ。これだけの人ごみでも五条の白い髪と長身はよく目立つ。これならうっかり見失ってしまうということもないだろう。

「ナマエさんは、こういうところよく来るんですか?」
「いえ、あまり。一般常識程度には勉強しているんですが…」

横並びになるわけにもいかないし、何となく二人組で移動していて、ナマエの隣には夏油が立っていた。実際に休日の昼間、こんな繁華街に訪れるのは呪術高専に間借りするようになってからだ。

「夏油さんはよくみえるんですか?」
「どうだろ。私も中学までは普通に田舎だったんで、高専入ってからですよ」

夏油は随分大人びて見える。五条も長身で顔が整っているから実年齢よりも上に見られることが多いが、夏油も相当なんじゃないか。体格とか落ち着いた物腰がそう思わせるのかもしれない。

「ちょっと意外です」
「え?何がですか?」
「夏油さんはお洒落で都会的なので、繁華街にも慣れているのかと思っていました」
「フフ、都会的って」

ナマエの言い回しがおかしかったのか、夏油はそう言って口元に手を当てて「買いかぶり過ぎですよ」と笑った。駅前のスクランブル交差点を抜け、先を行く五条と家入の二人組の背中を追って歩いていると、人ごみを抜けたあたりでくるりと五条が振り返る。

「…ナマエ」
「はい、悟様」
「こっち」

五条は言葉少なにナマエへそばにくるようにと手の動きを添えて指示したから、何かあったかと思ってそばまで寄る。

「あの、何か御用でしたか?」
「別に」

家入と機嫌よく喋っていたのに、呼びつけた途端に不機嫌を顔に出す。用がないならそのまま家入と機嫌よく話していれば良いものを、若君様の気まぐれはよくわからない。それから数秒間気まずそうに黙り、ナマエが辛抱強く待っているとようやく声を出す。

「オマエ、傑と近すぎ」
「えっ…そうでしょうか?一般的な適正距離だと思ったのですが…」
「ダメ。近い。もっと距離取れ」

はぁ、とぼんやりした相槌を打つ。普通に隣を歩いていただけなのだけれど、何か失礼なほどの距離だったのだろうか。いや、この人ごみなのだし、あれ以上距離を取るのは難しい話だろう。
五条はそれを言うと満足したのか「行くぞ」と先を進んだ。家入とナマエが自然に入れ替わる形になって、ナマエは五条の隣を歩くことになった。


渋谷にあるスニーカーの有名ブランド店に入ると、夏油がお目当てのものを端から探し始める。こうした一般の服飾品には興味がないから、知識があっても購買意欲というものは湧かなかった。自分には家から仕事用に支給されるもので充分だ。
男二人があれこれフィッティングしながらスニーカーを吟味しているのを少し後ろから眺めていると、家入がのろのろとナマエの隣に近づいてきた。

「ねぇナマエさん、スニーカー見ないんですか?」
「いえ、私はこういうものはあまり…家入さんはご覧にならなくて良いんですか?」
「見たいですけど、あの男二人に混ざって見るの嫌なんですよね」

歯に衣着せぬさっぱりとした物言いで家入が吐き出した。確かに五条と夏油は目立つ。長身の白髪というシルエットのインパクトもさることながら、その顔を見れば作り物めいて整っているのだ。女性が見惚れるのはもちろん、同性であってもちょっとギョッとする程度には注目を集めてしまうと思う。

「ナマエさん一緒に選んでくださいよ」
「えっ…あの、私そういうセンス悪くて…」
「じゃ、私が選んであげます」

家入が嬉々とナマエの腕を引いて歩いていく。彼女は見た目ほど警戒心は強くない。一度懐けば存外可愛らしい顔を見せるタイプであり、寮に同年代の同性が少ないせいか、ナマエにはわりと懐いてくれていた。
ぐいぐいと引っ張られるままレディースシューズのコーナーに連れていかれて、ウォーキング、ランニング、デイユースと用途別に陳列された色とりどりのスニーカーに出迎えられる。

「家入さんは何色がお好きですか?」
「んー、モノクロが好きなんですけど、白いスニーカーって汚れ目立っちゃうんで、敬遠しちゃうんですよね」

確かに靴というものは地面と直接触れるものであり、他の服飾品に比べて汚れやすい。モノクロが好きで、だけど白を避けて、となると必然的に黒しかない。彼女ならどんなタイプのスニーカーでも履きこなしてしまいそうだ、と思いながら棚を眺める。

「ナマエさんは何色が好きですか?」
「そうですね…汚れが目立たないので黒が好きです」

理由があまりに実用的過ぎるせいか家入が少し笑った。理由は違うかもしれないが、結果的に家入とは同じ色を好んでいるようだ。何気ないところで共通点を見つけたな、と思っていたら、家入が頭の中を読んだかのようなタイミングで「好きな色おんなじですね」と言った。

「お揃いで買いましょうよ、スニーカー」
「え?」
「せっかくあいつらに付き合ってここまで来たんだし、なんか私もスニーカー欲しくなっちゃったんで」

家入が棚を眺めて中腰になりながら、ナマエを少し見上げるように上目遣いで笑う。呪術師らしく気が強く時おり口の悪さが目立つこともあるが、彼女は非常に可愛らしい子だと思う。妹がいたらこんな感じなのかな、と、このあまりにも一般人めいた空間に飲まれてのん気な思考が浮き出てしまった。
ナマエがそんなことを考えているうちに家入は商品の並ぶ棚に向かって吟味し始め、そのなかのひとつに目をつけてナマエの方を振り返った。

「ねぇ、これとかどうです?」
「えっと…あの、すみません…私本当にこういうのに疎くて…」
「ナマエさんが嫌じゃないならこれにします」

家入はナマエの曖昧な返答に自分側で結論をつけ、早速サイズを探し始めた。ナマエにとっても年の近い同性というのは非常に珍しい。主従関係もしがらみもない相手というのは家入が初めてだった。まるでいわゆる、普通の友達。そんなふうにさえ感じられるやりとりがくすぐったい。
会計を済ませてからメンズのコーナーを物色していた二人と合流する。五条も夏油も無事に目当てのものは購入できたようだった。

「珍しいな、オマエもなんか買ったのかよ」
「はい。家入さんがお揃いのを買おうって誘って下さって…」

スニーカーショップから今度はゲームセンターに行こうという話になり、また人通りの多い道を四人で歩く。次は夏油と家入が前を歩いていて、五条とナマエがその後ろをついていくようなかたちになった。
ナマエは手に握ったショップの袋をそっと見下ろす。なんだか胸の内がくすぐったい。こんなのまるで普通、普通の生活をしているみたいだ。

「お前が楽しそーにしてんの久々に見るわ」

五条がそう言って、弾かれたように顔を上げると彼がニッと笑っていた。気まずくなって視線を逸らしたけれど「いいんじゃねぇの」と彼の声が聞こえて、余計にいたたまれなくなってしまった。










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