01 Sapphire Blue


呪術高専の敷地内で女が男を引っ捕まえようと背中を追う。女も決して小柄というわけではないが、男の方が長身だから身長差があるように見えてしまう。

「悟様!あれほど夜半の外出はお控えくださいと進言致しましたでしょう!?」
「うっせー!いいだろ!コンビニくらい!!」
「いけません!そもそもコンビニエンスストアに足を運ばずとも私が用意すると申し上げたでしょう!?」
「ヤダよ!俺はジャンクなのが食べてーの!」

ぴょんぴょんと建物をまるで跳び箱のように飛び越えて追いかけっこが続く。しばらく状況は拮抗していたが、女の方がギアをひとつ上げたことでグンとその距離が縮まった。首根っこに指先が届き、それを避けるために五条の方が呪力を使って弾いた。

「悟様!呪術高専で呪力の乱用は──!」
「わかってるっつーのっ!ウワッ!?」

男──五条悟がバランスを崩し、女は建物に上から突っ込んで行きそうな五条に手を伸ばしたが一歩遅く、五条は呪力の反動で勢いづいたまま建物を壊しながら屋根から見事に地面まで突っ込んだ。
ナマエはその場で足を止めると、急いであるじの所在を探す。怪我をしているなんていう心配は正直していない。何せ彼は無下限呪術の使い手であり、その気になれば何者にも触れさせないことさえ出来るのだから。

「悟様?どちらです?」
「…こっち」

女は声の方の瓦礫をどかしながら道を作り、あるじの声の方向へと近づく。すぐそばまで辿り着くと、彼が無下限呪術を使って自らと瓦礫に数センチの空間を設けながら、彼女の迎えを待っていた。


女の名前はミョウジナマエと言った。ミョウジ家は五条家の分家筋に当たる家であり、切っても切れない縁で結ばれている関係の深い家柄だ。ナマエは女だてらにしてその強さを買われたのか、五条家若君様の側御用の任を賜った。

「それにしても、ナマエさんも大変ですね、悟のお目付け役なんて」

寮の談話室で五条を待っていたら、夏油がふいに声をかけてきた。彼は非術師の家庭の出身でありながら呪霊操術という稀有な術式を有している。類まれなる才能を有した彼は五条の初めての友人になった。

「いえ、慣れたことですから」

箱入りの五条が一般社会ではないとはいえ、家の外の人間たちとどう関われるものかと不安に思う気持ちは大いにあったけれど、非術師に囲まれるわけではないというのと、波長の合う同級生に恵まれて彼は想像以上に高専という場所に馴染んでいた。表向き身の回りの世話という名目でここに来ているが、彼は自分のことを自分でしたがるから、言いつけによって五条宗家で暮らしていた時に比べれば何の世話もしていない。

「あ、良かったら飲みます?まだ封切ってないんで」
「お気遣い痛み入ります」

夏油がペットボトルの緑茶を差し出す。受け取っても受け取らなくてもどっちでも良かったが、受け取ったほうが何となくそれらしい、というのはこの呪術高専という場所で学んだ流儀である。外界のことをあまり知らないのはナマエも同じだった。

「ナマエさんって私たちとそう年齢変わりませんよね」
「ええと…変わるというか変わらないというか……私の方が三つ上ですね」
「へぇ、じゃあ今年19歳ですか」

大した差ではないけれど、この年齢の三歳というものは大きなもののような気がして濁しながら答えた。夏油は「じゃあナマエ先輩かぁ。なんかいいですね」と大して他意もないような調子でそう言った。

「先輩と呼ばれると、なんだかくすぐったいですね」
「せっかくならナマエさんも高専の学生になってしまえばいいのに、と思って」

夏油が何気ない雰囲気でそう言う。ナマエは呪術高専の寮に間借りしているが、学生ではないし、所属の呪術師でもなければ補助監督でもない。ここの寮に間借りをしながら次期当主である五条の身の回りの世話をするというのが仕事だった。もっとも、身の回りの世話というのはただの建前であり、本当は悟自身への監視と牽制の役割が大きい。五条家次期当主が高専に入学するという特例に対し、悟の父である当主が出した条件が側御用を連れて行くことだったのだ。

「学生だなんて畏れ多い。私は真っ当な呪術師にはなれませんよ」

ナマエはにっこりと外向きの愛想のよい顔を浮かべて夏油に笑い返した。ナマエには役割がある。それはなにも、五条悟の側御用というだけではなかった。そこで会話が途切れ、今度は五条の声が割り込んでくる。来客があるからと呼び出されたのだが、それを終えて帰ってきたらしい。

「おい傑、なに人のモンにちょっかいかけてんだよ」
「悟、君ね、人を物扱いするの本当にやめなよ。で、何の呼び出しだったの?」
「実家。別にしょうもない話」

五条がちらりとナマエを見る。気になるか気にならないかで言えば気になる方だけれど、あるじがそれを言おうとしないのなら自分が図々しくその内容を尋ねることは出来ない。ナマエは側御用ではあるが、五条家の人間ではない。何かあればいつでもすぐに切り捨てられる。自分はそういう場所に立っている人間である。

「…お前さ、もっと俺に興味とか持てねぇわけ?」
「えっと…興味、と仰いますと…」
「マジでいつもロボットみてぇ」

何が気に入らなかったのか彼の機嫌を損ねてしまったようで、彼はつんと唇を尖らせた。昔から扱いづらい子供なのだ。彼のあまりの才能ゆえに、大人たちは仰々しく彼を崇め奉り、まるで神様かなにかのようだった。自分にはそこそこ心を許してくれているとは思うけれど、それでも彼は孤高であり孤独なのだと思う。

「ま、いーや。ナマエ、ココア作って」
「はい、かしこまりました」

ナマエはあるじの要望にぺこりと頭を垂れ、談話室のそばにある簡易キッチンに立って湯を沸かす。五条と夏油がいつも通りじゃれあってなんだかんだと話をしていたが、沸騰する湯のせいで内容までは聞こえてこなかった。
横着が過ぎることもあるけれど、五条がここでのびのびと生活していることに関しては嬉しく思っている。屋敷にいたときの五条はあまりにも人間味がなく、まるでお人形のようだった。今は年相応の少年の顔を見せてくれて、ナマエはそれが嬉しかった。

「な、ナマエも行くだろ?」

出来上がったココアと、ついでに夏油用のコーヒーを準備して談話室のソファに向かうと、五条がナマエに同意だけを求めてくる。さて、夏油と何の話をしていたのか、と思ってそのまま「何がですか?」と尋ねればココアを差し出せとばかりに手を伸ばされる。ひとまずそれに従った。

「夏油さんもどうぞ」
「え、あ、すみませんわざわざ…」
「なんで傑の分も淹れてんだよ」
「悟様の分だけご用意するわけにも参りませんでしょう」

夏油は招いた客というわけではないが、五条にだけ飲み物を出して夏油には出さないというものおかしな話だ。

「週末傑と硝子と渋谷行くんだよ。お前も一緒にあそぼーぜ」
「いえ、私はそのような身分では……」
「何だよ、どうせ俺のそば離れないように家から言われてんだから付き合えよ」

五条が立ち上がってずいっと身体を近づけ、ナマエをそう論破する。確かに「遊ぶ」という意味では同行できないが「警護」という意味ではどんな場所だろうとついて行く必要がある。

「……わかりました」
「じゃ、土曜10時に寮の前な」

五条はナマエが頷いたことを満足そうに見届け、再度ソファに腰掛けるとナマエのいれたココアに口をつけた。こちらをジッと見ている夏油と目があってしまったが、ナマエは曖昧に笑って返すことしか出来なかった。
そのとき、ナマエのポケットの中の携帯電話がぶるぶると震える。ナマエは「失礼します」と断ってから携帯電話を確認する。そこには今夜の仕事の内容のメールが届いていた。

「……家から?」
「はい」

五条がナマエに内容を問い、ナマエはそれに是の答えを返す。こうして不定期的にミョウジ家から仕事が舞い込んでくることは五条にも周知のことだった。五条が苦い顔をする。五条が「行くな」と言ったとしても、これだけは彼にもどうすることもできないことだった。


その日の夜、ナマエは愛刀を手に高専の山奥の、地下の薄暗い洞窟のような部屋を訪れた。岩をそのままくり抜いたような部屋で、中央には面布をつけて両手を後ろ手に縛られ中年の男が跪いている。そしてその四方にこれまた顔が見えないように顔を隠した四人の男たちが坐していた。

「ミョウジ術師、お願いします」
「はい」

四方を取り囲む男の一人に呼ばれて立ち上がる。白い小袖と白い袴がここでの正装だった。ナマエは中央で頭を垂れる男の後ろの隣に立ち、刀を振り上げる。中央に跪いているのは呪詛師であり、取り囲むのは監視の男。そしてナマエは本日の処刑人だった。

「…参ります」

振り降ろすときは、真っ直ぐに。ためらってはいけない。ためらうほど痛みは増す。処刑は拷問ではないし、何よりそのような太刀筋は隠密を生業とする一族の恥である。
ナマエが刀を一直線に下ろすと、骨と骨の間に入り込んだ刃は頭を垂れる男の首と胴をまるで予め決められていたかのように切り離した。ごとん、と切り離された頭部がゴザの上に転がる。

「仕舞いましてございます」

返り血のひとつも浴びることなく、ナマエは懐紙で刃を拭うと刀を鞘に収める。カチン、と小さくつばと鞘が音を鳴らした。彼女は五条家お抱えの隠密部隊の人間である。
呪詛師の遺体の処理はナマエの領分ではない。四人の男たちが呪詛師の遺体を奥へと運んでいくのを見送ってから地下室を出ると、出入り口の近くにひとの気配を感じた。

「悟様、このような場所にお越しになってはいけません」

木にもたれかかっていた人影がぬるりと動く。白い髪が月明かりにきらきらと照らされた。夜でも変わらずかけられているサングラスの向こうから痛いほどの視線を感じる。

「…オマエがなんでこんなことしなきゃなんねぇんだよ」

五条が不機嫌さを隠さずにそう言って、長いコンパスでナマエにずかずかと歩み寄る。長い指が頬に近づき、それが自らに到着してしまう前にナマエが口を開く。

「何を仰いますか。あの者は我が部隊が捕らえて尋問していた呪詛師です。その後始末もミョウジ家の人間の務めでしょう」
「オマエんとこのジジイ連中だってまだ現役だろ。なんで殺しだけをオマエがやんなきゃなんねぇんだよ」
「私が一番処刑場の近くにおりますので」

五条はナマエに触れる直前で手と止め、それを拳に変えて下ろした。五条の言うとおり、処刑人はナマエでなくてもいい。隠密部隊の別の人間、例えば尋問をしていた本人が処してしまうのが一番効率が良いはずである。にも関わらずナマエが殺しのみをさせられているのは、おそらく置かれた微妙な立場のせいだった。

「寮、戻るぞ」
「はい」

五条が踵を返して、ナマエもそれに倣って後ろをついて歩いた。東京高専は都内にありながら山深く、初夏になろうというこの時期でもまだ夜は幾分か涼しい。木の葉が揺れ、木々を通り抜けた涼やかな風が頬をなでる。

「オマエさ……」
「はい」
「……なんでもねぇ」

何度かそうして五条は口を開こうとしたけれど、言葉はそうしてすべて打ち消されたナマエが処刑を押しつけられることを彼がをよく思っていないということは知っている。隠密部隊なんていう汚れ仕事に対して良いイメージを持つ人間の方が少ないだろう。
結局それからこれといった会話も交わさずに寮にたどり着いてしまった。女子寮と男子寮の真ん中で五条は一度立ち止まると、ナマエに向かってびしりと指をさす。

「土曜日、10時だからな」

何を言うかと思えば昼間に話していた外出のことで、ナマエはパチパチと目を瞬かせてから少しだけ口元を緩め「はい」と返事をした。五条はそれ以上の言葉を探したようだけれど何も言わず、後頭部をガシガシとかきむしりながら男子寮の方へと身体を向ける。

「おやすみなされませ、悟様」

ナマエはその背中に声をかけて頭を下げる。傍若無人を絵に描いたような彼は、高専での生活で少しずつ変わっていると思う。それが良いことなのか悪いことなのか、ナマエ自身は判断するような立場にはいない。
それでも五条悟という人には幸せになってほしい、と、立場を弁えもせず願わずにいられなかった。彼に人並みの幸せをあげられるのは、例えばこの場所なのかもしれない。










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