11 Horizon Blue


冬が終わり、春が始まった。呪術高専で過ごす二度目の春である。残念ながら在校生が少ないから学年が変わっても教室は変わらないし、もちろんクラス替えがあるわけでもない。大きく変わるものがあるとすれば、下級生が入ってくるところだろう。御三家の嫡子よろしく義務教育をろくに外で受けていない五条からすれば、殆ど初めての後輩という存在だ。

「今年の新入生は男二人だってさ」
「別に興味ねー」
「悟も先輩らしくしなよ」

四人で連れ立って高専の敷地内を歩いているとき、自然と最近の話題になって夏油が話を振るが、五条は「自分は関係ありません」とばかりの態度である。

「コーハイなんて弱ぇやつばっかだろ」
「それはわからないじゃないか」
「どうせそうに決まってるって」

やいのやいのと言い合いをする二人を後ろから眺める。強いか弱いかなんて比べる相手が悪い。六眼、無下限呪術使い、五条家次期当主のトリプルコンボとなれば、比べられるほとんどの人間は弱者に分類されてしまうだろう。


後輩二人は男子学生で、人懐っこい見た目の灰原という少年と、それに比べてクールな印象の七海という少年が呪術高専の新しい仲間に加わった。二人とも礼儀正しく、第一印象としてはごく一般的な学生といった様子だった。

「あっ!ミョウジさん!おはようございます!」
「おはようございます、灰原さん。朝の鍛錬ですか?」
「はいっ!七海と一緒に敷地の中を走ってました!」

ピンっと姿勢を正して灰原がそう言った。まだ同じ寮で生活するようになって日は浅いけれど、彼は随分と気持ちのいい男だった。呪術師というものはその性質上、疑り深く狡猾な人間が多い。しかし灰原にはそういうものが何も見当たらず、あからさまな陽の気を惜しげもなく放っている。もっとも、それが呪術師として幸いなことかどうかはわからないが。

「スポーツドリンク、飲みますか?」
「えっ!いいですよ!そんな!」
「私は仕事でお給金を頂いている身ですから」
「ごちそうさまです!」

遠慮もなく灰原がぺこりと頭を下げた。こういう甘え方も気持ちがいい。彼の天賦の才というやつなのかもしれない。ナマエは一番近くの自動販売機に立って小銭を入れるとスポーツドリンクのボタンを押し、そのあと追加でもう一本購入した。自分の分ではなく後から到着するだろう七海のためだ。
灰原にペットボトルを手渡せば、気持ちのいい笑顔で「ありがとうございます!」と礼が返ってくる。

「学生も任務でお給料もらえるんですよね!僕バイトしたことないからワクワクしてます!」

灰原が屈託のない顔でそう言った。なにか齟齬があるように感じて少し考える。ああそうか、先ほどナマエの言った「給金」というのが、学生が実技の中で請け負う任務の報酬であると解釈しているんだろう。そういえば新入生には自分が何者であるかを説明したことがなかった。

「そういえば、ミョウジさんって何年生なんですか?」
「あの、私は学生ではないんです」
「ええっ!?じゃあ補助監督?あれ、でも寮に住んでますよね?」

丁度灰原がそう尋ねてきた。自分が五条の側御用としてここに間借りしている身分なのだとついでに説明してしまったほうがいい。ナマエがなるべく簡単に説明をしようと口を開くと、ちょうどそこに遅れて走っているという七海が姿を現した。

「七海!おかえり!」
「…灰原、体力お化けすぎないか…」

ぜぇぜぇと肩で息をして、ナマエの姿を見とめるとぺこりと会釈をする。ナマエは彼のためにと先ほど購入したスポーツドリンクを差し出した。

「どうぞ。水分補給は大切ですよ」
「……ありがとうございます」

二人がペットボトルのキャップをひねり、ごくごくと中身を流し込んでいく。これほど汗を流したなら美味しいに違いない。今日まで話す機会はそれほど多くなかったけれど、彼らが非常に真面目で熱心な学生であるということは入学からの少しの時間で充分窺い知ることが出来た。

「お二人とも朝早くから熱心でいらっしゃいますね」
「身の回りに呪術師のひとがたくさんいるなんて初めてなんでわくわくしてるんです!」
「…灰原…わくわくしている場合じゃないでしょう。実技で下手打ったらタダじゃ済まないんですよ」

灰原がキラキラと目を輝かせ、七海がそれに少し苦言を呈するようにため息をつく。はたからじゃ正反対の性質を持っているように見えるけれど、それでいて相性は悪くないように見えた。二人とも非術師の家庭出身らしいから、片方が呪術師の家系であるより理解できる部分が大きいのかもしれない。

「あ、そうだ。七海、ミョウジさんってここの学生じゃないんだって」
「は?え、そうなんですか?」

七海が到着したことで中断されてしまっていたところに会話が戻っていく。そうだ、変に不信感を与える前にその話をしておかなければと思っていたところだった。話の続きを待つ二人に説明をしなければと口を開こうとすると、不意にぐいんと後ろから肩を引かれた。誰かというのは振り返らずともわかる。自分のあるじである。

「おい、一年坊主。勝手に話しかけてんじゃねーぞ」
「あっ、五条さん!!おつかれさまです!」

ガルルルル、と威嚇まがいな高圧的な態度にも灰原は少しも臆することなくニコニコと挨拶をした。大物なのか、それとも単に鈍感なだけなのか。いずれにしても、変に萎縮してしまうような後輩よりは五条もよっぽど気に入るだろうことは想像に難くない。七海はというと、彼は彼で面倒くさそうな顔を少しも隠さなかった。二人自体の相性も良さそうだけれど、この感じだと二人と五条の相性も良さそうだ。五条がナマエの首の前を通るように腕を回して抱え込む。

「ナマエは俺のなんだよ」

何を言い出すかと思えばそんなことで、彼はあるじなのだからそれもあながち間違いではないのだけれど、威嚇してまで言うようなことではない。威嚇されている当の本人は目を丸くしたあと、頭の上に電球のピカッと光るマークを出すがごとく「あ!」とひらめいたふうを滲ませる。

「彼女さんってことですか!?」
「そーだよ」

非術師の家庭出身の灰原に側御用のような特殊なものが思いつくはずもなく。およそ一般的に「俺の」と所有権を主張するような関係を思い描いたようだった。五条も何の悪ふざけなのかそれを肯定する。これは訂正しなければきっと灰原は勘違いしたままになってしまうだろう。

「悟様、嘘はいけません」
「ア?」

抱え込まれるような姿勢から顔だけで振り返って五条を見る。ナマエの言葉に五条はムッと唇を歪めた。ナマエは顔を灰原たちの方に戻すと、自分の身分をなるべく簡潔に説明することにした。

「灰原さん、七海さん、私と悟様は決してそういった関係ではございません」

ナマエがまず五条の戯れを明確に否定する。まさか主従関係である自分があるじと恋愛関係にあるだなんて畏れ多い。ナマエの言葉で五条の拘束が緩み、自然と彼の腕の中から抜け出すかたちになる。

「ご説明が遅れてすみません。私は五条分家の人間で、側御用という悟様の専属使用人のようなものをしております。悟様のお供で寮に間借りしておりますが、そういった身分ですので学生ではないんです」

ナマエの口から飛び出てきた説明が自分の予想の範疇を越えていたのか、灰原もその後ろの七海も「専属使用人…」とナマエの言葉の一部をぽかんと復唱するばかりだ。御三家やそれに近しい家の人間であれば五条家嫡流にそういった使用人がついていることも想像できるかもしれないけれど、そうでもない限り専属の使用人だなんてものはフィクションとか別世界とかの話だろう。


汗を流しにシャワーを浴びに行くという灰原と七海を見送り、五条に付き従って談話室に足を運ぶ。いつもは誰かしらいるけれど、今日は五条とナマエの二人きりになった。
灰原と七海と別れたきり五条は口を閉ざしたままだった。良くも悪くも自分に正直なひとである。内容までは聞いてみなければわからないものの、不機嫌なのか調子が悪いのか、いずれにせよ彼にとって望ましくないことがあったのだとは察するにあまりある。

「悟様、どこかお身体でもお悪いのですか?」
「……べつに」

口を閉ざされてしまうと、もうそれ以上聞くことができない。ナマエが「さようですか」と言って普段通りに引き下がると、五条はさらに不満げに口角を下げる。ご機嫌取りに何か甘いものでも用意するか、それとも何もしないほうが返って気分の回復は早いだろうか。

「俺が彼女って言ったの、そんなに気に入らねぇのかよ」
「え?」
「さっきすぐに否定したろ。決してって、そこまで強く言うことねーじゃん」

彼がチッと大きい舌打ちをした。自分としては畏れ多いと思って言ったことだが、ひょっとして彼自身は自分が否定されたように感じてしまったのかもしれない。間違ったことは言っていないと思うけれど、五条が気にするようであればもう言葉を尽くしておかなければ。

「気に入らないと言いますか…畏れ多いことでございますから」
「なんだよそれ」

五条の機嫌がさらに一段階悪くなる。これ以上ご機嫌を損ねてしまうのは収拾がつかなくなるからなんとか避けたいのだけれど、そもそもどうして五条がここまで不機嫌になってしまっているのかがわからないから、対応のしようもない。

「私は悟様の側御用です。そういった立場にあって良いような身分にありません」

あくまで立場の問題であり、五条本人になにか原因があるわけではない。それを分かってほしくて言葉を重ねてみたけれど、五条にとってはこれも逆効果のようだ。じとりとナマエに視線を向ける。

「立場とか、身分とか、マジでくだらねぇ」
「悟様……」
「そういうの、マジでムカつく」
「…申し訳ございません」

風習やしきたりに縛られることを強く嫌っているのは知っているけれど、下の立場の自分がどうこう口を出せる問題ではない。機嫌を損ねてしまったことを謝罪すれば、彼は大きなため息をついた。

「…べつに、オマエに謝らせたいわけじゃない」

そう言ったきり視線を外してそっぽを向いてしまって、これはどうにもいよいよ打つ手がなくなった。結局不満げな表情は一日中崩れさないままで、翌日になってようやく少しずつ回復していくように見えた。


5月某日、五条と夏油に特別な任務が課されることになった。内容は極秘。同期の家入を含む他の学生にも知らされず、補助監督も一部しか詳細を知らされず、五条お抱えの側御用であるナマエもその例外ではなかった。

「……私も、同行不可、ですか……」
「ああ、五条家を含む上層部からの通達だ。悪いが今回は高専で待機してもらうことになる」

夜蛾に呼び出され、ことの仔細を聞かされた。ナマエの大元の主人と言うべき五条家は呪術界で絶大な権力を持っているが、それよりも上からの通達ということだろう。普段は任務に参加しないまでも側御用として現場に同行していて、こんなことを命じられるのは初めてだった。

「承知しました」

胸騒ぎがする。口では物わかりのいいことを言ってみたけれど、内心なにか黒いモヤモヤのようなものが広がっていた。補助監督を含む関係者にさえ極秘の任務。五条家よりも上の総意で出された自分の同行不可。極秘の任務とは何なのか。
職員詰め所のある建物を出て寮に向かうと、寮の側で五条と夏油が何やら立ち話をしていた。ナマエが歩いてくることに気がつくとそこで会話を打ち切ったから、恐らく例の極秘任務について話をしていたのだろうと伺うことが出来る。

「お話中失礼します。先ほど夜我先生から任務のお話を伺いました。私は同行不可とのことでしたので、高専で待機しております」
「おー。ま、チャチャッと終わらせて帰ってくるわ」

五条は普段通りの調子でナマエに言った。五条ほどの実力をもってすれば、大抵の任務なら難なくこなすことが出来るだろう。それは側で見守ってきた自分がよくわかっている。それに今回は夏油と一緒に任務に出るのだし、よほどのことがない限り危険は排除できると思う。だけどなんだろう。何かすごく怖い。

「悟様、お気をつけて」
「ん。行ってくる」

高専を出て行く二人の背中を見送った。ナマエはぎゅっと手を握りしめる。五条の側にいられないことを、こんなに不安に思ったのは初めてだった。










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