新雪を踏む


コツン、コツン、コツン。金属が陶器のトレーに置かれる音が小さく響く。照明はぼんやりとしていて、ベッドのそばには温かみのある間接照明が設置されている。音楽はこれといって流れていないから、空気清浄機の音だけが静かにコォーっと音を立てていた。
コツンという音が10回したあと、ベッドのスプリングが揺れた。ナマエは心臓をどきりと跳ね上がらせ、近づいてくる熱源に期待と不安をない交ぜにしながら待った。

「ナマエちゃん、緊張してる?」
「えっ!いえ!そんなことないです!」
「ほんとにぃ?その割には身体カタくない?」

後ろからゆっくりと抱きすくめられる。回された男のたくましい腕に視線を落とすと、普段はいかつい指輪に彩られている指が素のままの状態で自分のことを抱いていた。指先がゆっくりと動く。バスローブの中に忍び込んでくる。


事の発端は、三時間ほど前、行きつけのバーで飲んでいたときのことだった。サバイバーという店はスナック街に位置しているジャズバーである。マスターは強面だが優しいし、酒はうまいし、適度に閑古鳥が鳴いていて居心地が良い。

「ハン・ジュンギは良いよなぁ」
「何がです?」
「だってよぉ、それだけイケメンなら俺みたいな苦労はしたことねぇんだろ?」

そうしてカウンター席でハン・ジュンギに絡み酒を始めたのはナンバである。ピアノの側でそれを断片的に聞いていただけのナマエでも大体どんな話をしているのかは読めた。きっと女性関係の縁のなさがどうのこうのとかそういう話だろう。ハン・ジュンギは自他共に認める美形である。確かにあのビジュアルなら女たちは放っておかないだろう。もっとも、それが本人の望むところなのかどうかはわからないけれど。

「ちょっとナンちゃん飲み過ぎよ?はいお水飲んで」
「俺だって、俺だってよぉ〜」

ナンバの反対側に座っていた紗栄子がマスターの用意してくれた水を勧めた。ナンバはそれをひよひよと頼りない動きで受け取り、ゴクンと飲み干す。まぁあの一杯程度で酔いは覚めないだろう。
ちらりと視線をソファに移すと、そこでは春日とえりが仕事の話を交えながら酒を酌み交わしている。ナマエもべつに輪の中に入れていないとかそういうわけではなくて、同じくピアノの側で飲んでいた足立がお手洗いに立ったために瞬間的に一人になっているだけだった。

「ナンバ君だってさ〜、髪型とかー、服装とかー、そういうの変えたら結構イケるとおもうんだけどな〜」

やわっこい口調でそう言ったのはハン・ジュンギの向こう側に座っていた趙だ。彼の手にはウイスキーのグラスが握られている。一見親切なアドバイスをした趙に向かい、ナンバがガルルと噛みつく。

「おめーにはわかんねぇよっ!趙だってハン・ジュンギ側の人間だろぉ?」
「あはは。ま、俺の場合はー、ガキのころから経験豊富なオネーサンが周りにいたからねぇ」
「くそ、羨ましいこと言いやがる…」

流していただけの漏れ聞こえてくる会話にぴくりと耳が反応した。確かに彼ほどの容姿、立場、権力がある人間ならハン・ジュンギと同じく女が放っておかないだろう。
実のところ、ナマエは趙天佑という男が好きだった。春日たちと行動を共にするまでそれほど多くの時間を過ごしたわけじゃなかったから、彼について知っていることは少ない。一見おおらかなようだけれど底が見えない。おしゃれでアクセサリーが好きで、いつも黒いネイルをしている。知っているのはそんな上澄みばかりだ。

「おーいマスター!ビールおかわり!」

ちょうど足立がお手洗いから戻ってきた。趙の話にもう少し聞き耳を立てていたかったけれど、聞かない方が身のためかもしれない。以前飯店小路の近くで見掛けた彼はスタイルの良い美女を連れ歩いていた。どう考えても自分はそっち側の人間ではない。

「ナマエちゃん、飲んでるかー?」
「はい。めっちゃ飲んでますよ」

マスターがビールを運んできて、ナマエの飲みかけのシャンディガフと足立のビールとで無意味にもう一度乾杯をした。足立との会話の隙にカウンターの会話を盗み聞きしたけれど「雪の積もったところを足跡で汚すのが…」なんて話を趙がしていて、先ほどの話はどうやら終わったように思われた。


それから三十分程度経ったところでナンバが「なぁ、足立さん!」とカウンター席から足立に声をかける。足立はジョッキを持って「なんだぁ?」とそちらの会話に参戦しに行き、ナマエは空になりかけたグラスを手に持ったまま無意味に店内を見回した。

「はいナマエちゃん、シャンディガフで良かった?」
「えっ、あ、趙さん…ありがとうございます」

気がつくと、趙が座っていた椅子に足立が腰掛けている。入れ替わるように趙が足立の座っていたナマエの隣に腰掛けて、シャンディガフの注がれたグラスをナマエの前に差し出した。

「良かったんです?カウンター盛り上がってたのに」
「いーのいーの。むしろラッキーかな。ナマエちゃんの隣足立さんに陣取られてたから」

乾杯、と言われ、彼の持つウイスキーグラスと小さく乾杯をする。内心どきどき心臓が鳴っていて、それを誤魔化すのに必死だ。何を話そうかと迷っていると、趙が率先して会話を回してくれる。先ほどまでのナンバたちとの会話とか、先日あったという少し面白い話とか、趙は話すのが上手いから話題には事欠かなかった。

「ナマエちゃんってば雪みたいだよねぇ」
「え?」
「なんか真っ白なカンジするっていうかぁ」

会話の切れ目、彼は出し抜けにそんなことを言った。一体なにを基準にそんな話をしてきたのか。自分は黒に近いグレーな世界に暮らす住人だ。もとは真っ当な薬剤師だったが、不当解雇から流れ流れてここで異人三相手に薬屋のようなものをしている。元々そのグレーな薬局を経営している店主に拾われて居着いたというのが簡単な顛末である。彼らほど深い裏社会に関わっているわけではないけれど、真っ白というわけではない。

「べつにそんなこともありませんけど…」
「そぉ?」
「だって裏社会相手に医薬品売ってるような商売ですよ。真っ白ってわけじゃないかと…」
「あー、そういう意味じゃなくてぇ」

趙がウイスキーのグラスを傾ける。琥珀色の液体が彼の口に吸い込まれ、少しグラスの中の嵩が減った。そういう意味じゃないならどういう意味なんだろう。きょとんと彼を見ていると「そういう視線とかさぁ」と情報が付け足されるが、未だ要領は得ない。

「オトコ慣れしてないウブなカンジするよねぇって話」
「えっ…」

思いも寄らない方向に話が曲がって、ナマエは思わずびくりと肩を揺らしてしまった。真っ白とはそういうことだったのか。正直な話、学生時代は勉強漬けに近かったし、就職しても仕事ばかりで、不当解雇されてここまで流れてきているわけで、自分のことに必死だったから恋愛には縁がなかった。

「……私だって異人町でこんな商売してる身なんですから、それなりにいろいろありますよ」

きっと趙は経験豊富な女性を好むのだろう。先ほどのナンバたちとの会話や今まで彼を見かけたときのことなどを継ぎ接ぎにしてそう思ってしまうと、咄嗟に事実を肯定できなくなって嘘をついた。

「へぇ。意外」
「そ、そうですか?」

趙がこちらを向いてテーブルに頬杖をつく。嘘がバレてしまいやしないかとヒヤヒヤして、シャンディガフのグラスを一気に傾ける。趙が小さく笑った。

「いい飲みっぷりだねぇ」
「せっかくの飲み会ですから」

そこから話はまた変わって、総帥を降りた後の自分の暮らしだとか、こないだ小籠包を春日に作ってやったら泣いて喜んでいただとか、また他愛もないものが積み重なる。話題が深掘りされなかったことにホッとしつつ、楽しそうに話をする趙のことを横目で見つめる。サングラスの向こうの彼の瞳は、何を考えているのかよくわからなかった。


飲み会はそこから一時間後、ナンバが完全に潰れたところでお開きになった。春日と足立がナンバを背負って二階に上がっていき、店を出たところでハン・ジュンギが女性を送ると申し出る。

「じゃ、ナマエちゃんは俺が送るよ。方向同じだし」
「そうですか?ではナマエさんは趙にお任せしますね」

ナマエが口を挟む間もなく趙とハン・ジュンギの間でまとまる。三人が北に向かって歩き始めてしまって、ナマエと趙がぽつねんとサバイバーの前に残されてしまった。

「あの、私ひとりで大丈夫ですから」
「いいじゃない、おんなじ方向なんだし」

趙がナマエの肩を軽く誘導し、南に向かって歩き出した。ずいぶん遅い時間になっているけれど、スナック街はそれなりの賑わいをみせている。緩くカーブするその道を歩いているとき何か小石のようなものにヒールを取られ、よろけて一瞬体勢を崩した。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ちょっと躓いちゃっただけで…」

趙がナマエの身体を咄嗟に支えた。降りかかってきた声はいつもより近く感じられて、アルコールで温められている身体がもっと熱せられるような気分になる。危ないから、という理由で、そこから趙はナマエの手を引いて歩いた。鶴亀橋を渡り、街道を東に向かって歩く。当然のように車道側に趙が立っていた。
そろそろ伊勢佐木ロードにたどり着くだろうという横断歩道の前、渡る必要のないはずのそこで趙が足を止めた。

「ね、休憩していく?」

ナマエは繋がれていない方の手をきゅっと握る。いかに恋愛に縁がない生活を送っていたとはいえ、その「休憩」が文字通りの休憩でないことはもちろんわかっていた。それなりに経験があるなんて言ったからとか、なんとなくそういう気分だからとか、趙にとっては他愛のない動機だったのかもしれない。気がつくとナマエは首を縦に振ってしまっていて、そこからちょうど青信号になった横断歩道を彼と一緒に渡った。


そこからあれよあれよという間にラブホテルにたどり着き、どうにか入浴を終えてこの有様なのである。イキって経験豊富なふりをしてしまい、どうにも後に引けなくなっていた。趙とこういうことをするのは吝かではなかったし、期待しているのも事実である。それでもほとんど未知と言っても良いこの先の行為に不安のようなものがぐるぐると渦巻いていた。

「やっぱりナマエちゃんは真っ白で雪みたいだね」

趙がそう言って、耳の後ろにちゅっと小さくキスをした。甘い吐息がすぐそばで聞こえる。バスローブに忍び込んで来た手がナマエの下着の線をなぞって「あ、ちゃんとブラつけてるんだ」と言われた。こういうときにはシャワーを浴びた後下着の類いはつけないものなんだろうか。残念ながら経験不足で正解がわからない。慣れない感覚に硬直していると、不意に趙の手がピタリと止まる。

「…ナマエちゃん、震えてるけど」
「むっ…武者震いですっ!」
「イヤそんな今から合戦するんじゃないんだから」

強がってみたところを趙に突っ込まれて、気の利いた言い訳はこれ以上出てこなかった。あたふたとしていると、趙がナマエから手を離し、ナマエの前に回ると俯いたところを覗き込んでくる。

「怖い?」
「こ、こわくなんか…」
「ないって、俺の目見て言える?」

言葉が詰まった。詰まった時点で肯定しているようなものだ。経験が豊富で遊び慣れている女なら、こんなふうに怖じ気づくことはないんだろう。しょうもない嘘をついたと趙に呆れられてしまうだろうか。

「……ごめんなさい…経験豊富とか...その……嘘で…見栄張って、私…」

これ以上隠せないと悟ってそう打ち明ける。先ほどまでは確かにこれから始まるだろう行為に恐れをなしていたけれど、今は呆れられて嫌われてしまう方がよっぽど怖かった。ぐっと唇を噛むと、趙の指が伸びてきて柔らかく唇に触れた。

「そんなこと、わかってたよ?」
「えっ?」
「だってナマエちゃんってばわかりやすいから。あー強がって見栄張ってるんだなぁって」

思わず顔をあげると、にんまりとこちらに笑いかける趙と目が合った。サングラスを外しているから、素のままの彼と目が合う。その顔がゆっくりと近づいてきて、ナマエが目を離せないでいると、そのままちゅうっと小さく口づけをされた。

「…避けないんだ?」
「……だって…趙さんだったから嘘ついちゃったんです」

至近距離で見つめ合う。趙に似合う女性になりたくて経験豊富だなんて嘘をついたのだ。察しのいい趙はたぶんナマエが嘘をついていたことも、嘘をついていた理由も、キスを避けなかった理由もきっとわかっているに違いない。

「ってことはぁ、続きしてもいい?」

彼の手がナマエの肩に触れる。引き寄せられるようにもう一度キスをして、そのままベッドに押し倒される。ナマエの頬を撫でる彼の手には、ひとつの指輪もついていない。




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