愛は加熱式


昔なら、こうして自宅で仕事をする、いわゆる在宅ワークなんてものは想像も出来なかっただろう。オフィスに出勤してデスクに向かって、仕分けも億劫になる程の紙の山と戦う。三年だとか七年だとか法律に定められた期間保管しておかなければならない類いの書類などは専用の部屋で殆ど触られることもないのに一定の期間そこを占拠し、タイミングを見計らっては都度シュレッダーにかけられる。

「良い時代になったもんだなぁ」

ナマエの職業はいわゆるデザイナーというものだ。といっても、ファッションデザイナーやインテリアデザイナーのようなよく連想される華やかなデザイナー業ではなくて、企業の販促物のデザインを担当している。まぁ広告物のデザインは花形といえばそうなのかもしれないが、会社の規模や取引先から、言っちゃ悪いが、テンプレートに則ったような地味な販促物のデザインが主な仕事である。

「ん……△△物産の周年記念ボールペン終わり…で、次が〇〇興業の展示会かぁ」

今後の納品スケジュールを確認する。次の仕事である〇〇興業の展示会については、販促物の案が二つあるらしい。片方はボールペンで、もう片方はライターだった。今どきライターをノベルティにしようなんて思う企業もあるもんだなぁと思いながら、顧客の要望に応えるべくカチカチとグラフィックソフトをいじった。

「ナマエちゃん、邪魔すんでー」

玄関のほうからそう声がして、ナマエはディスプレイから顔を上げると、訪問者はすでにゴソゴソと靴を脱いで上がって来ているようだ。どうやら気まぐれな恋人のご帰宅であるらしい。

「真島さん、今日一日中缶詰って言ってませんでした?」
「おう、ちいと組の用事方が早う終わったからな」

ひょこっと玄関に続く廊下に顔を出すと、いつもと違って黒いスーツにネクタイを締めた真島がそのネクタイを緩めながらのそのそと歩いてきていた。今日は幹部会と自分の組のシノギの方で一日中忙しなくしている予定だと聞いていたが、組の方が早めに終わったらしい。もっとも、適度なサボりを得意とするこの男が、組の仕事をちょろまかして抜けてきている可能性もなくはないのだが。

「ごめんなさい、真島さん来るって思ってなかったからなんにも用意してないです」
「別に気にせんでええ」
「ビール飲みます?それともコーヒー?」
「おー、まぁ酒は夜一緒に飲もか。レイコー頼むわ」
「わかりました。ソファ座っててください」

付き合いも長いのに「真島さん」と一見他人行儀な名字呼びをしてしまうのはもはやクセのようなものである。レイコーってなんですか、と付き合い始めた当初は聞いたものだが、それが考えなくてもアイスコーヒーを意味することをもう心得ていた。
ナマエは真島のために常備している水出しのコーヒーを氷を入れたグラスに注ぐと、彼の待つソファまで持っていく。

「すまんな」
「真島さんのためのだから」
「ほう、可愛いこと言うてくれるやんけ」

真島がヒヒッと笑った。いい歳になった自分にそんなことを言ってくれるのは恋人の彼くらいなものだ。真島はグラスに注がれたアイスコーヒーをぐいっと飲むと、今度はナマエに向かって手を伸ばす。

「あっ、ちょっと、ダメですよ。私仕事中」
「ええやんちょっとくらい」
「納期が迫ってるのがあるんです。いま構うと夜にお構い出来ませんけど?」

ナマエがそう言えば、真島は渋々とばかりに手を引っ込めた。彼の扱いにもそれなりに慣れたものだと思う。自分だって仕事を放り出して彼との時間を過ごしたいところだが、生憎仕事は待ってくれない。
リビングから繋がっている仕事部屋に移動して、ワークチェアに座ると作業を再開した。しばらくの間真島は大人しくしていたものの、途中で飽きたらしくナマエの仕事部屋に足を運んでうろうろ中を見て回る。別に見られて困るものは置いてないから問題はない。

「それ、今やっとる仕事か?」
「そうですよ。今どき珍しいでしょ?企業ノベルティでライターって」

ディスプレイを覗き込んできた真島にそう言ってやる。そういえば、彼と出会うきっかけになったのも自分のこの仕事で、しかもそのときもライターだった。

「真島建設のこと思い出しちゃいました」
「おう、ナマエちゃんに会うたんもウチのライター作ってもろたんがきっかけやったもんなァ」
「ふふ、打ち合わせに行ったら眼帯の怖いひとがいるんだもん。驚いちゃった」
「あんときはカタギやったんやで」

ナマエは「まぁ、そうですけどね」と言って笑った。一応あの時はカタギだったらしいけれども、一般人から見れば見た目も凄みも極道と変わりなかった。しかもそれから一年くらいで東城会に復帰しているらしかったし、あんなのカタギだったと言えるのか不明だ。

「真島建設のライター、私まだ持ってますよ。なんか勿体なくて使えなくて」
「ほぉ、健気なもんやのぅ」

ナマエはデスクの引き出しに大事にしまっている例の真島建設のライターを取り出した。カチッと意味もなく着火の操作部のレバーを押すと、軽い感覚で火が付いた。

「あ、すごい。そういえばまだCR対応してない頃ですよ、これ」
「そんな前やったか」

CR対応とはチャイルドレジスタンスの略であり、事故などを防ぐために子供の力では簡単につかないよう、レバーを重くするか、二段階以上の操作を必要とする仕様にしたもののことである。今では法律上、CR対応していないライターは販売することができないから、中々お目にかかれない代物だ。
真島がひらっと手のひらを差し出してきたから、その上にライターを乗せる。革の手袋に包まれた手がレバーを下ろして、それに従って火が灯る。

「かっる!こんな軽かってんな」
「もうCRついてるのに慣れちゃってるからヘンな感じですね」

彼は軽い感触に満足したのか、カチカチと何度かレバーを下ろして火を灯したあと、ライターをナマエの手に戻した。
なんかライター触ったら煙草吸いたくなっちゃったなぁ、と、ナマエはデスクの脇に置いてある加熱式たばこに手を伸ばした。

「ナマエちゃんソレ、なんや?」
「煙草ですよ、ほら、加熱式ってやつです」
「電子たばことか言うやつか?」
「いやぁ、電子たばこは煙草の葉っぱ使ってないですからね、ちょっと違いますけど…」

一生加熱式たばこにも電子たばこにも縁がなさそうな真島が興味津々でナマエの手の中の加熱式たばこの本体を見つめた。

「煙草に火を着けずに熱してニコチン発生させるんです。煙じゃなくて、水蒸気出るんですよ」

ほら、と言いながら、専用のスティックを挿入して吸ってみせる。紙巻きたばこと遜色ないとは到底言えないと個人的には思っているけれど、狭い室内がもくもくと白く煙らないのは気に入っている。

「なんや臭いも独特やなぁ」
「そうですね、紙巻きの代わりってわけじゃないですけど、別物だと思えばこれはこれで」

真島はナマエの手の中から吸いかけのそれを取り上げると、フィルターに口をつけてすうっと吸い込んだ。あ、絶対咽せるな、と予感しながらそれを見守っていると、案の定真島が盛大に咽せた。

「げほっ…けほっ…うッわっ!なんやねコレ!まっず!!」
「あはは、絶対そう言うと思いました。紙巻きの代わりってわけじゃないって言ったでしょ?」
「なんかめっちゃ咽せるし、よお吸わんわ」
「最初はみんな咽るらしいですよ。お店の店員さんも言ってました」

ナマエも初めて吸ったときは紙巻きたばこと同じように吸い込んで盛大に咽たのだ。普段あんまり見ることのないちょっと間抜けな姿に思わずくすくすと笑う。真島はスティックの刺さったままの本体をナマエに返し、ナマエはそれにまたすっと唇をつけた。

「間接チューやな」
「…ちょっと、わざわざ言わないでくださいよ」

まるで中学生みたいなことを言いながら彼がヒヒッと笑い、別に意識もしてなかったのにその言葉のせいでちょっと吸いづらくなってしまった。でもまだ吸えるし勿体ないし、の貧乏根性でちゃんと唇をくっつけて吸って、それを真島が隣でニヤニヤ眺めている。

「真島さん、吸いづらい」
「なんや、間接キスくらいで恥ずかしがることないやんか。いつもはもっとごっついことしてんねんで?」
「それはそうですけどぉ…」

確かにこんなことくらい恥ずかしがるような関係でも年齢でもないけれど、改めて言われて、しかも彼の顔が間近にあると思うと意識するなという方が無理な話だ。羞恥心をなんとか押さえながら一本を吸い終わると、吸い殻入れにしている缶にころんと役目を終えてシワシワになったスティックを放り込む。真島は満足したようで、デスクの隣に置いてあるスツールにどかっと腰を下ろした。

「ナマエちゃん、なんでまたこんなけったいなもん吸ってんねん」
「けったいなもんって…ほら、私最近在宅ワーク増えたじゃないですか。紙巻よりコッチのほうが部屋白くならないし、臭いもマシかなぁと思って」

けったいなもん、とは加熱式たばこに何とも失礼な言い草だが、ナマエが理由を述べるとそれ以上に怪訝な様子で「ニオイぃ?」と言って唇を歪めた。実際、紙巻きたばこより加熱式たばこのほうが臭いも軽減されるし煙も出ない。

「そんなもん俺が吸うんやから変わらんのちゃうか?」
「…まぁ、それは…そうですね」

真島の言う通り、部屋に臭いがつく、という意味では、自分がいくらたまに吸うほうだろうが加熱式たばこにしようが、ヘビースモーカーの彼がいる限り結果的にはそう変わらないだろう。

「仕事中だけでもってことです。口が寂しい時もあるので」

完全に論破されたままというのも悔しいし、なにか言い訳だけでもしておこうとそう言えば、真島はにやぁと大きな口を歪ませてスツールから腰を上げると、ナマエの後頭部を引き寄せて唇と唇をくっつける。油断していたナマエは隙を突かれ、そのまま真島の舌が侵入してきて口内で暴れまわった。

「んっ!うぅ……ぁ、真島さっ……!」

軽く抵抗してみてもそんなことくらいで彼が深いキスをやめてくれるわけはなくて、むしろ抵抗によって侵食はどんどん深くなっていった。舌先が上あごを撫で上げ、歯列を裏側からなぞる。酸素が足りなくて身体の力が抜けて行って、もうむりだ、と思ったところでようやく解放された。

「は、ぁ…はぁ……なんですか急に…」
「ヒヒッ、口寂しいんやろ?」

じろりと軽くねめつけるような視線を投げれば、まだ至近距離にある真島の顔が悪戯っ子めいて笑った。確かに口寂しい時もあると言ったけれど、こんなキスをされたら期待してしまって仕事にならないじゃないか。

「早う仕事終わらせてや。もっと構ったる」

後頭部に回されていた真島の手がナマエの首筋を意味深になぞる。どういうこと、と聞くほど子供なわけでも彼のことを理解していないわけでもなくて、火照ってしまいそうな身体をなんとか冷静に保とうとすることだけで精一杯だ。
真島はナマエをからかって満足したのか、そのまま仕事部屋を出てリビングのソファにてくてくと戻っていった。

「…っもう!邪魔したのは真島さんのくせにっ!」

ナマエの恨み言などどこ吹く風でグラスに残ったアイスコーヒーを飲む。早く仕事を終わらせてしまおう。注意力が散漫になって仕事が滞って、本当に夜にお構い出来なくなるなんてナマエも御免なのだ。





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