キスはお預け


伊勢佐木異人町のこの物騒な通りをこんなにも軽い足取りで歩く女も珍しいだろう。ナマエは鼻歌でも歌ってしまいそうなくらいの気分の弾み方で、どこからどう見ても通りの雰囲気から浮いているが、柄の悪い連中から絡まれるようなことはなかった。
イセザキロードから異人細道を通り、佑天飯店の小さな看板のかかる店の敷居をまたぐ。

「こんばんは!趙さんっ!」
「お、ナマエちゃんお疲れ」
「わぁ…今日もいい匂いですね…」

鼻をくすぐる香辛料の匂い。これは唐辛子と花椒と、それから馴染みのない香りがいくつも混ざっている。ナマエがテーブル席のひとつに腰かけると、いつものライダースを脱いで軽装になっている店主は振るっていた中華鍋の中身を皿に盛りつけていく。

「はい、麻婆豆腐」
「今日も美味しそうですね!」

ほかほかの麻婆豆腐が目の前に運ばれ、ナマエはきらきらと目を輝かせた。香辛料の匂いが鼻腔をくすぐって、思わず口元が緩む。趙の作る料理は天下一品だ。


ナマエはもともと、佑天飯店の常連だった。ガイドブックにも載っていないこの店を見つけたのはつまらない飲み会帰りの偶然で、お酒でも入ってなければ来ないようなかなり奥まったところにあった。

「あれぇ…中華料理屋さん?」

かなり遅い時間だというのに電気がまだついていて、香辛料の匂いにつられてフラフラ店に入った。飲み会は酒を飲まされるばかりでロクに食事が出来なかったのだ。シメとして美味い中華でも食べられたらつまらない飲み会も少しは楽しかったと思えるかもしれない。
ガラリと戸を開けると中には顔に傷を持っている男のグループがふたつほど食事をしていて、その瞬間に浮かれた頭がスッと冷えていくのを感じた。明らかに一般人じゃないし、ここはいわゆる中華系のマフィアの巣窟のすぐそばにある。

「し、失礼しま──」
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ〜」

引っ込んでしまおうと身体に力を入れた瞬間、入店を促すような声に自分の声が掻き消されてしまった。どうしよう、どうしよう。わずか一秒未満の間にグルグル考えが駆け巡り、結局何か引力のようなものに引き寄せられるようにして店の中へと足を踏み入れた。
店内は外観から見えた通りに年季の入った様子で、床は適度に油でぴかぴか光っている。赤くて丸い椅子に腰かけると、壁にかかったこれまた赤いメニューの札が視界に飛び込んできた。しかしこれが中国語で書いているものだから、どれがどれだかサッパリわからない。

「ご注文は?」
「えーっと……」

厨房の内側に引っ込んでいた男が客席のほうまで出て注文を取りに来た。一般的に中華料理店にあるようメニューをあてずっぽうで言ってしまえば外さないだろうか。それとも店のメニューは中国語だけれど彼は日本語を流暢に話せるようだし、ありのまま尋ねるのも手かもしれない。後者を選ぼうとして顔を上げて用意していた言葉を思わず飲み込んだ。

「ん?」
「や……あの…」

気さくな様子で声をかけてきた店員と思しき男は髪をツーブロックにして頭頂部を後ろに撫でつけ、左右の耳に金色のピアスを嵌め、そのうえ室内に不必要だろう丸いサングラスをかけている。声音は柔らかいけれど、他のテーブル席にいる顔に傷を持った男たちとそう遠くない世界で生きていることは明らかだった。

「今日の俺のおススメはぁー、チャーハンと餃子だね」

ナマエが悩んでいると解釈したのか、男がそう言った。ナマエは言われるがままにチャーハンと餃子を注文すると、男は注文を聞くと厨房に引っ込み、手際よく調理を始めた。どうやら彼は調理も担当しているようだ。

「ハイお待たせ」
「あ、ありがとうございます…」

数分のうちにホカホカ湯気の立つ皿を二つ持ってナマエの席まで持ってくる。従業員はいまのところ彼ひとりしか見当たらない。餃子は勝手に焼き餃子を想像していたけれど、届いたのは水餃子だった。そういえば中国って水餃子がメジャーなんだっけ、と半分頭で考えながら手を合わせ、分厚い水餃子の生地に箸を入れて軽く冷ましていく。その隙にレンゲを手に取ってチャーハンをひとくち食べた。

「おいひぃ…」

卵を全体にしっかり纏っているのにパラパラで、だけど風味を逃がすような乾いた感じはない。鶏がらスープとオイスターソースが絶妙に混ざりあって香りも豊かだし、具材に角煮を使っているためか脂をまとう具合も百点満点だ。
水餃子が冷めた頃合いかと思って今度は水餃子を半分に割って口の中に放り込めば、もっちりとした分厚い皮の中から香味野菜がたっぷり入った餡が覗いた。

「んっ……すごっ…」

思わず独り言を漏らしながら皮の弾力を楽しんでいると、奥にいた顔に傷を持っている男たちのグループが空になった皿を厨房の方にいそいそと持っていく。ここは食器類を自分で返却するタイプの店舗なのか。様子を伺いながら、自分もそのルールに則ろうとチラチラ男たちの方を確認していると、その奥にいたツーブロックの男と目が合ってしまって咄嗟に逸らす。

「趙さん!ごちそうさまでした!」
「んー。また食べにおいでネー」

ツーブロックの彼は「趙さん」というのか。そんなことを考えながらチャーハンと水餃子を食べ進めていると、もう片方のグループも同じようにして食器を厨房近くまで返却して「趙さん」に挨拶をして帰っていった。

「はぁ、ごちそうさまでした」

空になった皿の前で手を合わせる。運ばれてきたときは「少し量が多いかな」と思っていたチャーハンと水餃子をペロリと平らげてしまえたのは、この料理が絶品だったからに他ならない。さて、自分が食べ終えた皿を先に出て行った彼らに倣って厨房の方へ運ばなければ。

「あの、ごちそうさまでした」

厨房の中でなにやら作業をしているツーブロックの男にぺこりと会釈をしながら食器を持って行った。男のサングラスがずるっとズレて、その向こうで驚いたように目が見開かれていた。何を驚かれているのかわからなくて戸惑ったまま頭の上にはてなマークを飛ばしていると、彼の指先がナマエの手元を指さして「食器」と言った。

「えっ、あの…食器を返却するタイプのお店なのかと…」
「え…?あ、もしかしてあいつらが持ってきてたから?」
「あ、はい……」

あいつら、というのがナマエの先客であることは想像に難くなく、ナマエはこくんと頷く。

「あれはあいつらが勝手にやってることなんだよ。あいつらは何というか…子分みたいなものでね。だから俺に気を遣ってるだけ。君はお客さんなんだからそんなことしなくて良いんだよぉ」
「す、すみません。余計なことを…」
「こっちこそわざわざごめんネ」

見た目こそ怖いと思ったが、話していると気さくで話しやすい。どうやらこの店は彼の店であり、本業の傍ら趣味で切り盛りしているところのようだ。お料理すっごく美味しかったです、と率直な感想を伝えれば、サングラスの向こうでニコニコ笑いながら「嬉しいこと言ってくれるねぇ」と声を弾ませた。

「今度はエビチリも食べに来てよぉー。俺、得意なんだよね」
「そうなんですね!私、エビチリ大好きです!」

彼は作業で汚れたらしい手を水道で流して水気をしっかりふき取ると、厨房からこちら側に出てきた。

「明るい道まで送っていったげる」
「え、そ、そんな悪いですよ!」
「夜道は怖いよぉ?」

さくさくと彼は先に進んでしまって、一も二もなくその背中を追いかけることになった。酔いの覚めた視界で見ると、ふらりとひとりで入ってきたのを後悔する程度には荒んだ様子だ。細い道を抜けて明るい通りまで出たところで、ツーブロックの男が街灯の影になる位置で立ち止まってナマエにひらっと手を挙げる。

「今度はお昼においで」

ナマエはぺこりを頭を下げてから街灯に煌々と照らされた道を歩き出した。少し怖いところのように思えたけれど、あの美味い料理の味と彼のどこか人懐っこい笑顔が忘れられなくて、次の週末にはランチを食べに行くことにした。


それがどれくらい前のことだったか。まさか彼がこのあたりをまとめているマフィアのボスだとは想像もしていなかったけれど、それを知るより先に彼の人柄を知っていたからあまり恐ろしくは感じなかった。紗栄子経由で知り合った春日一行となし崩し的に行動を共にすることになり、その途中であろうことか趙が加わった。
一時はごたごたと佑天飯店の営業も出来ずにいたけれど、概ねの決着がつき、趙は横浜流氓という自身の組織のボスの座を降りて佑天飯店での営業を再開した。ナマエもまた日常生活に戻って、佑天飯店に通うようになった。いまは夜でも通える。

「ナマエちゃん、餃子も食べる?」
「はいっ!」

趙がまた厨房に戻り、慣れた手つきで水餃子の仕上げをしてくれた。深めの皿に分厚い皮が特徴的なお手製水餃子がみっつ。ナマエは「美味しそう!」と声を弾ませ、早速適温まで冷ますために皮に切り込みを入れる。

「ん〜!おいひぃ…」
「気に入ってくれて何よりだよ」

あのころと違って趙は料理を運び終えても厨房には戻らず、ナマエの向かいに座るようになった。一緒に食事をすることもあれば、酒だけ飲んでいるときもある。ナマエは彼の本格中華に舌鼓を打ちながら、先日サバイバーで足立に聞いた話を思い出した。

「そういえば、私、昔からここにきても誰にも絡まれたりしなかったじゃないですか。あれ、なんでだったのかなって話をね、こないだサバイバーで足立さんに聞いたんです」

趙と出会った経緯の話になって、後々思えばよく横浜流氓の縄張りで一度もトラブルに巻きこまれなかったものだと我ながら感心する、とコメントをしたところ、足立が「そりゃあ、趙が気を回してくれてたらしいぜ」と言ってきたのだ。どうやら趙と足立が似たような会話を先にしていて、趙が口を滑らせてその話をしたらしい。

「趙さんが言ってくれてたんですよね、私のこと、トラブルに巻き込むんじゃないぞって」

趙が唇をくすぐったそうに合わせ、それから大袈裟なほどわかりやすくため息をついた。足立の話によれば、趙はナマエが初めて店に行ったあの夜、表の道まで送ってくれたあとに努々妙なことに巻き込むんじゃないぞと下の人間に対して厳命してくれたらしい。そのおかげで巷では非常に治安のよろしくないことで有名な横浜流氓のシマにおいて、ナマエは一度もトラブルらしいトラブルに見舞われることはなかった。

「今さらですけど、ありがとうございます」
「ハァ〜、まったく足立さんもヤボなこと言うねぇ」

趙がまるで照れ隠しのようにそう言って、口元を手のひらで覆う。ナマエはそのしぐさを可愛いなと見つめながら、適温に冷めた水餃子をぱうくりと口に放り込んだ。香味野菜の独特な風味が今日もやっぱり美味しい。
趙の柔らかい視線をサングラス越しでもありありと感じて、今度はナマエが照れてしまう番だった。どうにか間を持たせようと先も考えずに「あの」と口を開き、趙の「ん?」という短い相槌の甘さに閉口する。

「…趙さん、なんでこんなに良くしてくれるんですか?」
「そりゃあもちろん、シタゴコロってやつだネ」
「し、したごころ……」

甘い声が今度は挑発的なものに変わって、ナマエは投げられた言葉を理解するためにぐるぐる頭を回転させる。趙はその様子を見て少しだけ口角を上げると、赤い小さい椅子から腰を上げテーブルに乗り出して、ナマエの頬をとらえる。
そっと唇が近づき、キスをされる、と覚悟した瞬間に視界の端に水餃子がカットインしたから咄嗟に手のひらで趙の唇をガードした。

「…ダメだった?」

趙が眉を下げる。違う。キスが嫌とかそんなんじゃなくて。

「だ、だって餃子食べちゃったから…!」

美味しいけどにおいが気になるので!と何とか言い訳をすると、趙が腹を抱えて笑い出した。「じゃあ、今度は餃子食べてないときに再チャレンジしよっかな」と冗談めかして言う趙に「歯磨きしますッ!」と返せばもっと大きな声で笑われた。




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