ゴールドリング


男運がない、なんて言い方はちょっと責任転嫁しているみたいで良くない、と思うけれども、少なくとも今のナマエにはそう八つ当たりしてしまいたいだけの投げやりな気持ちがあった。サバイバーのカウンター、ロックグラスに入った酒を呷る。

「あはは、みーんなウソだってぇ…笑えるぅ」

アルコールがすっかり頭の中に回り切っていて、いつもより饒舌だ。マスターも「飲みすぎんなよ」とは言ってくれるが、それ以上の詮索はしてこない。だからここは居心地がいい。カウンターの上にべったりと張り付き、不意に泣きそうになってきゅっと唇を噛んで堪える。

「はぁ、ばっかみたい……」

三年間付き合った男にあっさり捨てられた。他の若い女を作っていて、しかもその女が彼の子供を妊娠していて、別れてほしいと言われた。つまり彼は浮気をしていて、むしろ多分最後は自分の方が二番目で、自分はそのことにひとつも気がつかなくて、馬鹿な女のまますっぱり切られることになった。
身体を少しだけ持ち上げ、琥珀色の液体を口に含んで飲み下す。いつもお気に入りのはずのウイスキーも今は全然美味しくない。

「三年って、あはは……」

磨かれたカウンターに自分の情けない顔が映った。目が真っ赤に腫れてしまっていて、目元のファンデーションもすっかりヨレてしまっている。三年間。人生の中ではそんなに長くない時間かもしれないけれど、ナマエの消費された20代を憂うには充分な長さだった。
不意にサバイバーのドアが開く気配がして、独特のイントネーションを持つ男の軽薄な声が聞こえる。

「あっれぇ、ナマエちゃん」
「…趙さん……」

よりによってこの男とは、と思い、飛び出そうなため息をどうにか堪える。春日を伝手にするようにして知り合いになったひとのなかでも、この男はどうにも苦手意識がまだ少しだけ残っていた。話によると横浜流氓の総帥だかなにかだったらしい。まぁ、そんな話を聞かされていなくても彼が表側の人間でないだろうことは察することが出来たけれど。

「ねぇねぇ、一緒に飲んでいい?」
「…もう座ってるじゃないですか」
「いやぁ、一応聞いておくのがマナーかなぁーと思って」

趙はそのままナマエの隣に座り、マスターにウイスキーを注文する。ロックグラスの中で丸い氷が遊んだ。

「でぇ、どしたの。その顔」
「不細工は元からです」
「女の子がそんなふうに自分を卑下しちゃダメだってぇ。ナマエちゃん可愛いのに」

思ってもないことをペラペラ言うのも苦手だ。彼は綺麗な顔だちをしているし、話も上手い。マフィアのボスという危うさを除いても、この異人町じゃその道の人間というのも珍しいことじゃないし、彼が女性関係に苦労してなさそうなことは想像に難くない。

「目元真っ赤になっちゃってる。ほら、お兄さんに話してみない?」
「……いやです」
「えぇぇぇ」

まさか三年付き合った彼氏を若い女に寝取られましたなんてこの男だけには言いたくない。ナマエはきゅっと口を閉じ、誤魔化すように唇をウイスキーで濡らした。

「仕事?」

カウンターで頬杖をつく趙が探るような視線を向けてきて、ナマエは目もあわせずに沈黙を守った。

「じゃあ、男?」

これにも沈黙だ。しかし向こうはマフィアの総帥であり、沈黙を守ったはずのナマエの軽微な雰囲気の違いで気取られてしまったようで、彼は「ふぅん」と含みを持たせて相槌を打った。

「嬉し泣き…ってわけじゃないもんねぇ?」

趙がナマエの顔をわざと覗き込むようにカウンターにもたれかかる。伏せてしまって視界を遮ろうとして、その視界に割り込むようにごつい指輪をつけた自分の手をナマエのロックグラスを持つ手に重ねた。
そもそも春日を通しての知り合い、という彼と距離が近づくようなきっかけになった出来事は、およそ半年前まで遡る。


その日は残業でほとほと疲れていて、しかも週末の彼とのデートの約束がキャンセルになってしまって、重い身体を引きずって伊勢崎ロードを歩いていた。赤牛丸にでも行こうとしていたのによりによって設備点検だか何だかの理由で臨時休業らしい。がっくり肩を落としていると、背後から「あれぇ、ナマエちゃん?」と自分を呼ぶ声が聞こえた。

「趙さん?」
「どうしたのこんなところで。ああ、もしかして赤牛丸行くつもりだった?」
「はい。それがアテ外れちゃって」

もうコンビニ弁当でいいかな。POPPOに寄って帰ってしまおう。頭の中でそう算段をつけていたら、趙も赤牛丸に貼られた臨時休業の紙を覗き込んで「なるほどねぇ」と事態を理解したようだった。

「俺の店近いけど、食っていく?」
「趙さん、お店やってるんですか?」
「うん。中華の店」

彼がなんとなく裏社会との繋がりがある男であるということはこの時すでに気が付いていたが、残業の疲れとデートのキャンセルの連絡への落胆であまり深いことを考えることが出来なくなっていた。

「こんな時間ですけど、よかったらお邪魔していいですか」
「もちろん。さ、こっちこっち」

彼に手招かれるまま、伊勢崎ロードから異人細道を通って裏通りに出る。こちら側は横浜流氓のアジトがある場所のはずだけど、と多少よぎったけれども、今更それを理由に帰ることもできない。雑居ビルの地下まで連れてこられて、そこにはごく小さく「佑天飯店」と看板が出ていた。

「ここですか?」
「そうそう。さ、入って」

小さなドアを潜れば、染み込んだ香辛料と油の香りが広がった。テーブル席で待つように言われて小さな居ずに座って、勝手知ったる様子で厨房に立つ彼の背中を眺める。勝手知ったるもなにも、彼の店であるらしいが。

「お待たせ」

あまり待つこともなく、彼は大皿をナマエの前まで運ぶ。ほかほかと湯気の立つエビのチリソース煮だった。ショウガとにんにくの香りが食欲をそそる。それからライスとスープまで持ってきてくれて、あっという間にエビチリ定食が完成した。

「いただきます」
「召し上がれ」

箸でエビを摘まみ上げて口に放り込む。丁寧に処理のされたエビはぷりぷりと弾力があって、チリソースもスパイシーで美味い。いつの間にか彼は向かいに腰かけていて、手には酒が入っているだろうグラスが握られている。色味からして紹興酒か何かだろうか。

「趙さん、お料理上手なんですね」
「まぁ、趣味のひとつかな」
「私、こんなに美味しいエビチリ初めて食べました」

お世辞でもなんでもない。元々高級中華料理店に通っているとか、舌が特別肥えているとかそういうわけじゃないけれど、少なくとも自分の人生の中でこれよりも美味いエビチリはご相伴に預かったことがない。チリソース単体でも旨味が凝縮されていて、これをライスにかけてそのまま食べたいくらいだ。

「ナマエちゃん、美味しそうに食べるねぇ」

頬杖をついてこちらを見ていた彼がゆっくりと笑った。
この出来事がきっかけで、エリアの治安の悪さに多少尻込みはしつつも佑天飯店に定期的に通うようになった。不思議とチンピラのような連中に絡まれることはなくて、むしろ目が合ったら向こうから避けていくような風にさえ見える。最近はいざこざがあったらしいから、一般人と揉めようなんて機会も減っているのかな、と自分だけがあからさまに避けられている理由に気が付きもせずにナマエは勝手に結論付けていた。


中華料理店の店主と客、友人の友人。まだその領域を出ないはずの彼からいきなり手を握られる理由も意味もわからなくて、ナマエは大いに動揺した。そのせいかおかげか、泣きたい気持ちが引っ込んでしまって、その名残だけを引きずった赤い目元で自分を覗き込む彼を見つめる。

「なん…ですか…」

なんとかそう絞りだした声は頼りなかった。常連の面子がいないせいで店内は酷く静かだし、いつの間にかマスターもまるで空気を読むようにそっとカウンターから外してしまっていて、小洒落たこの空間の中には趙と自分の二人きりだ。

「俺としてはぁ、ナマエちゃんが泣いてるのとか放っておけないわけ」

なんで、と口にしようとして、だけどサングラスの向こうの彼の目を見てしまうと途端になにも言えなくなってしまった。からかいとか嘘とか、そういう狡猾な感情が見えなくて。

「趙……さん」

名前を呼ぶと「ん?」と甘い声を出して小首を傾げる。口角はいつも通り不敵に笑うけど、それもこれも甘い声と視線を助長させているようにしか見えない。それから「泣いてる顔も可愛いけど」と枕詞のようにつけて言葉を続けた。

「ナマエちゃんがあんまりにもその貰った指輪大事そうにしてるからね?さすがの俺もそこにどうのこうのって割り込んで行くのはなんだなぁって思ってたんだけど…」

ナマエの視線が右の薬指に落ちる。これは二年ほど前に元彼がプレゼントしてくれた指輪だ。決して高価なものではないけれど、ナマエに似合うと思って、と自分の誕生日に用意してくれた。別れを告げられたときにも櫻川に捨ててしまおうかと思って、結局その踏ん切りもつかずに嵌めたまま。

「もうその指輪いらなくなっちゃったなら、話は変わるよねぇ?」

趙の指がするする伸びて、ナマエの右の薬指に嵌っていた指輪を抜き取る。あっ、と声にならないつぶやきが漏れて、ナマエのシルバーリングは趙の黒いエナメルの塗られた指先で弄ばれている。

「代わりにコレ付けてあげる」

そう言って、趙は自分の小指に嵌められている金色の指輪を抜き取り、ナマエの薬指に嵌めた。彼の小指に収まっていたものでもナマエの薬指には大きすぎて、気を抜けば落ちてしまいそうなほどだった。

「…サイズ…全然合わないですけど」
「そりゃあ困ったなぁ。今から一緒に買いに行こうよ」

なんとか言い返してみても趙からは余裕をたっぷり含んだ言葉だけが返ってくるから何も言えなくなってしまった。本気かどうか、なんていうのは図れるものじゃないけれど、今はとにかく彼に抵抗するすべを持たない。

「ようやく俺にもツキが回ってきたんだ。このチャンス逃すわけにはいかないよね」

趙の手がナマエの顎先に触れて、誘導するように攫われたから当然のように視線がかちあう。彼のきれいな顔がゆっくりと近づき、キスをされる、と身構えていると唇ではなくて額に柔らかな感触がもたらされた。

「ナマエちゃんの元カレ、饅頭の具にしちゃおっか」
「え"…」
「はは、冗談だよ、ジョーダン」

なんて笑えない冗談を言ってくれるんだ。横浜流氓の裏切者への制裁は切り刻んで饅頭の具にするのだかなんだかと、以前酔った勢いで言っていなかったか。ナマエは額にキスされたときに生まれたごく近い距離感のまま、趙を見上げた。

「…饅頭の具にするのは遠慮しますけど…肉包子食べるなら、一緒に行きます」
「じゃあ決まりだ」

趙がナマエに手を差し出し、ナマエは恐る恐るとそれに自分の手を重ねる。趙はそれを待ってからナマエの手を引き、サバイバーの出入口の方へと導いてナマエをあっという間に外まで連れ出してしまった。
三年間の重い失恋を塗り替えるような覚悟はもちろん出来ていない。だけど彼の見たことのないような甘い視線と声に、いま少し甘えても良いだろうか。
自分の薬指に嵌められた金色の指輪を、落としてしまわないように細心の注意を払った。






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