魔法の手


目が覚めたら世界が終わってました、なんて悪い冗談にもほどがある。
それが冗談ではないのだから、もう悪夢だ。私は石器時代が如く文明の衰退した世界で目を覚ました。
現在は獅子王司君の納める通称司帝国の薬剤師としての役割を担っている。東洋薬学の、とくに漢方の研究をしていて、それが私を選定するに至った理由らしい。とはいっても、もちろん処方は昔のようにというわけにはいかないけれど。

「ナマエちゃん、おはー」
「…あさぎりさん。おはようございます」
「相変わらずカタイねぇ。ゲンでいいのに」

川の水を汲んでいると、背後から声を掛けられた。同じ司帝国の臣民であるあさぎりゲンだ。
そうは言われても、人を呼び捨てにするのは慣れていないし、そもそも私は彼のことを一方的に知っていたから今更友人のような呼称など使いづらいにもほどがある。
彼は旧時代の世界でテレビに出ていた有名なメンタリストだった。

「どうかしましたか、こんな朝から…」
「用事がなきゃ来ちゃダメ?」

勿体ぶるような言い回しに私はじっと彼を見上げる。するとあさぎりさんは「メンゴメンゴ」と思ってもいないのに口先だけで謝った。

「いやー、ちょっと足切っちゃってさぁ。血止めもらえないかなーと思って」
「どこですか?」
「ここ。足首のところ」

あさぎりさんはそう言ってズボンの裾を上げてみせる。くるぶしの上あたりが結構な感じでざっくりと切れて血が垂れていた。多分木の枝か何かで切ったんだろう。

「傷口見せてください」
「きゃ、ナマエちゃんのエッチ」
「……」

話が全然進まない。いらっとして見上げれば、飄々とした表情のままあさぎりさんが口角を上げている。
ふざけているなら治療もしないし血止めも塗らないぞ、と言外に黙ることで意思表示をすると、あさぎりさんは「ナマエちゃんの可愛い顔が台無しー」とまた思ってもいないだろう言葉を吐き出した。この人の言葉はいつもペラペラだ。

「そこの石に座ってください。傷口洗ってから血止めを塗ります」
「りょー」

川辺の石の上にあさぎりさんを腰かけさせて患部を確認する。思ったより結構深い。現代ではそこまで気にすることはない程度の軽傷だけど、こんなところでは傷口からどんな菌が入ってしまうか分かったものじゃない。私はそっと川の水で傷口を流した。

「痛くありませんか」
「うん、へーき」

傷口近くの汚れもちゃぷちゃぷと流し、右から左から確認して状態をみる。よし、薬を塗っておけば大丈夫かな。
私は腰に下げた袋からヨモギを取り出し、ぐにぐにと揉んで生葉の汁を傷口に乗せていく。それから比較的清潔な皮を傷口の上に巻いてきゅっと縛った。

「きつくないですか?」
「うん、ありがと。ナマエちゃんってばゴイスー」

へらへらとあさぎりさんが笑う。この人の笑顔は、いくら見てもなんだか慣れない。怖い、というか、胸の底がそわそわとする。

「ナマエちゃんの手は魔法の手だねぇ」
「魔法って…単なる漢方薬学ですよ」
「でもさ、なーんかナマエちゃんにやってもらえる方が早く良くなる気がする」
「気のせいだと思いますけど…」

調子のいいことを言うあさぎりさんにそんな返答をすれば、目の前に何の前触れもなくぽんっと小さな花が出現した。あさぎりさんお得意のマジックだ。
「あげる」と渡されたそれを眺め、この人の手の方がよっぽど魔法の手だろうと考える。

「俺さぁ、しばらくここ離れなきゃいけないんだよねぇ」
「え、そうなんですか?」
「うん、司ちゃんたってのお願いでねぇ。ちょっとお遣いに」

獅子王くん直々の言いつけなんて、やっぱりあさぎりさんは頼りにされている。私は深く考えずに「そうなんですか」と言い、手渡された花をじっと見つめた。翌日、彼は獅子王くんの「お遣い」でこの拠点を離れていった。


傷だらけのあさぎりさんが帰ってきたのは、一週間後のことだった。
獅子王くんから呼び出され、治療をしてやって欲しいと声をかけられた。誰が怪我をしたのかと聞けば、それは獅子王くんの「お遣い」でここを離れていたあさぎりさんだという。
サッと血の気が引いていくような気がした。
だってあさぎりさんが怪我をしたときはいつも自分でここまでやってきていた。獅子王くんが来るってことは、自分で動けないってことじゃないのか。
私は獅子王くんに連れられ、あさぎりさんが休んでいるという部屋を訪れた。中では布団とも呼べない粗末な布っ切れの上にあさぎりさんが横たわっている。

「あ、あさぎりさん…!」
「ナマエちゃん…?おつー」
「喋らなくていいです!傷見るので触りますよ…」

あさぎりさんはひゅうひゅうと苦しそうな息を漏らす。顔色も悪くって全身痣だらけだった。どんな「お遣い」に行っていたのかは知らないけれど、よく自力で戻ってきたと思う。
だけどーー。

「すまない、ナマエ、ここを任せていいかな」
「はい、わかりました」

獅子王くんが部屋を離れるのを待ち、私は手当てを始めた。生薬をぐりぐりと擦り潰し、湿布のような要領で打撲痕に乗せていくのだ。私は大きな傷を優先的に手当てして、あさぎりさんの呼吸が落ち着いていることを確認してから口を開く。

「…どこで、何してたんですか…」
「あはは、司ちゃんのお遣いで人探してたんだけどさ…原住民の村があってねぇ。そこで怪しまれちゃってボッコボコ。ジーマーでバイヤーだったぁ」

それだけじゃない。何故なら、あさぎりさんの身体には治療した痕跡がある。顔や腕の見えるところは途中の川で流したのかもしれないけれど、背中の傷には薬草の色素が沈着している。これは誰かが治療したという証拠に他ならない。

「その原住民の方は、手当てをしてくれたんですね?」
「あー、やっぱナマエちゃんの目は誤魔化せないよねぇ」

あさぎりさんがへらっと歯を見せる。お遣いの先で何があったのか、本当のことは多分獅子王くんにも言っていないんだろう。私が「獅子王くんには言いません」と言うと「ジーマーで?助かっちゃう」なんてまたいつもと変わらない声音で言った。
この人の本音は見えない。この人から本音を引き出そうなんていうのは、私のような凡人には土台無理な話だろう。
何をするつもりなのか、どうして獅子王くんにも本当のことを言わないのか、それもわからない。それでも。

「…あさぎりさんが無事で…よかった…」

気が付くと、そんな言葉が転げ落ちていた。
獅子王くんが私の部屋に来たとき、最悪の事態が脳裏を過ぎったのだ。私は漢方薬学を研究していても、医者ではない。手術だって出来ない。だからあさぎりさんにもしものことがあっても、私にできることはとてつもなく少ない。それを突きつけられて、どうしようもなく恐ろしかった。

「…ナマエちゃん、メンゴ」

あさぎりさんのかさついた指が私の手首に触れる。私はそこで初めて自分の手が震えていたことに気付かされた。誰かが傷つくことは怖いに決まっている。だけどその「誰か」の中でいちばん傷ついて欲しくない人に彼がなっているのだと、私はつくづく思い知らされた。

「…あのさ、多分この後、またその村に行かなきゃいけなくなると思う」
「え…?」
「まぁ詳しい話は見てもらった方が早いから省くけど…そうなったらナマエちゃん、俺と一緒に行かない?」

まるで、ここを抜け出すような言い方だと思った。どうしてそんなことを。そもそもここを出て生きていける場所なんてこのストーンワールドにあるっていうのか。

「こんな有り様でデートのお誘いとか、ジーマーでカッコつかないんだけどさ」

あさぎりさんの手が私の手首をそのままぐっと握った。この言葉が嘘や冗談には思えなかった。もっとも、メンタリストと呼ばれる彼にとって見ればそれを悟らせないことだって容易なのかもしれないけれど。
とにかく、私は真実なんてどうでもよくって、ただこの言葉を信じてみたいと思っていた。だってまたあさぎりさんが知らないところで傷つくかもしれないなんて、どう考えても耐えられないからだ。

「…いいですよ」
「ジーマーで?」
「はい。ジーマーです」

私が彼の口調を真似てそう言って見せると、口元をへにゃっと緩めて笑った。私の手首を握るぼろぼろの手を、もう片方の手でゆっくりと撫でた。


あさぎりさんに連れられ獅子王くんのところを抜け出して訪れたのは、科学王国と銘打たれた天才科学少年の仕切る村だった。元々あさぎりさんはここのリーダーである石神千空くんを探す「お遣い」に出ていたらしい。
科学王国は、あさぎりさんが裏切ってまで味方に付こうと思うに余りあるところだった。だってこんなふうになってしまった世界で発電所や製鉄所があるなんて信じられない。
「マンパワーは年中不足してっからな」と寛容な言葉でこの村に迎え入れられ、主に私はここでも薬剤師として仕事を貰っていた。

「ナマエちゃん、おつー」
「あさぎりさん。どうかしました?」
「いやぁ、さっきクロムちゃんと一緒に近くまで探索に出てたんだけどさ、手のところ切っちゃって」

そういえば、今日は珍しく千空くんともカセキさんとも一緒じゃなくって、クロムくんと何とかっていう難しい名前の石を探しに行くって言ってたっけ。
ここに来てからのあさぎりさんは、少し印象が変わった気がする。元々何を知っていたわけでもないけれど、科学王国にいる彼は自然体に見えた。

「どう、科学王国での暮らしは」
「快適ですよ。獅子王くんのところより薬草の種類も豊富ですし、千空くんは薬学の知識もあるから相談もできますし…」

千空くんは天才科学少年だが、知識の豊富さは科学にとどまらない。この原始のストーンワールドでサルファ剤を作り上げたと聞いたときは目玉が飛び出るかと思った。
漢方の調合や保管に使う機材もお願いすれば想定以上のものを作ってくれるし、そもそもベースを理解しているから細かいことを伝えなくても必要なことが分かってもらえる。こんな風になってしまった世界で薬学のことを話せる相手がいるだなんて想像もしていなかった。

「ナマエちゃんってば千空ちゃんのことは名前呼びなんだ」
「え、そういえば…」

言われてみればそうだ。というか、言われるまで気が付かなかった。獅子王くんやあさぎりさんと違って、千空くんは名字よりも先に名前を知ったからかもしれない。大した意図はないと絶対に分かっているだろうあさぎりさんが大袈裟に「千空ちゃんだけずるーい」と拗ねてみせる。

「そんなこと言ってないで、傷見せてください」
「はーい」

差し出されたあさぎりさんの手を確認する。ああ、鋭利な石で擦りむいたんだろう。大きな傷じゃないから、ヨモギの生葉を使って手当てをしておけば大事にはならない。
私は戸棚からヨモギを取り出し、薬研でぐりぐりとすり潰した。それを適量匙に取り、患部にそっと塗っていく。

「小さな傷なので清潔にしていれば大事にはならないと思いますが、万が一熱を持ったりしてきたらすぐに相談してくださいね」
「オッケー。てかナマエちゃんが手当てしてくれたからもう痛くなくなっちゃった」

あさぎりさんはそんな調子のいいことを言って、私が「だから単なる漢方薬学ですよ」とお決まりの台詞を返す。不思議と前のような引っかかりはなくなっていた。
私が道具を片づけようとしていると、あさぎりさんが「ナマエちゃん」と名前を呼んで「なんですか」と返すつもりで顔を上げれば言葉より先に小さな花がぽんっと目の前に現れた。

「はい、お礼」
「…あさぎりさんの手の方が、よっぽど魔法の手ですよね」
「なになに、ナマエちゃんそんな可愛いこと言ってくれちゃって」

これもすべてメンタリストの計略なのかもしれない。でも、もうそれでも良い気がしていた。だってこの魔法の手が、どうしようもなく暖かいと知ってしまったからだ。

「…ゲンくん」

そう名前を呼ぶと、私のことなどすべてお見通しと言わんばかりの顔であさぎりさんが…ゲンくんが「なあに?」と小首を傾げる。
もしかしたら、最初に私の手当てを魔法って言ったときから、彼はこうなることを知っていたのかもしれない。








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