梅雨の時期に交わされた約束の通り、私は夏油先生と一緒に海へ来ていた。
湘南のビーチはテレビで見た通り海水浴客で賑わっている。

「の、野薔薇ちゃん…ほんとに私大丈夫!?大丈夫!?」
「もー、大丈夫だって言ってるじゃない!私が選んだんだから問題ないって!」

二週間前、はたと自分が遊泳用の水着を所持していないことに気がつき、慌てて野薔薇ちゃんについてきてもらって購入した。ホルターネックのターコイズブルーのビキニと、幾何学模様が施された同色のパレオ。
野薔薇ちゃんに「傷だらけだから足は隠したい」と言ったら見立ててくれた一着。
日焼け止めを塗ってもらってモタモタしているうちに真希ちゃんには置いて行かれた。

「ほら、夏油先生そこで待ってるわよ」

野薔薇ちゃんに引っ張られるようにして海の家のロッカールームからビーチに出ると、膝ほどの長さの黒いボードショーツにピンクのアロハシャツを合わせた夏油先生がいた。普段は隠されている腹筋やら胸元やらが目に毒だ。うっ…かっこいい…。

「夏油…先生…」
「ナマエ可愛いね、似合ってる」

でも、と言って、夏油先生は自分の着ていたアロハシャツを脱ぐと、私の肩にふわりとかける。夏油先生の匂いがする。
だめだ、くらくらしてきた。

「夏油先生って結構チャラいのね…」
「まぁ…あのアロハのチョイスは流石に…」
「そう?フツーにかっけーと思ったけど…」

一年生3人がなにやらひそひそ話していたけれど、内容までは聞き取れない。
夏油先生のもっと後ろで、真希ちゃんと棘くんと憂太くんがビーチバレーの準備をしていた。パンダくんは残念ながら目立ってしまうのでお留守番で、五条先生は一番来たがってたけど任務で結局来れないらしい。

「ビーチバレー、3対3でやるんだって。私たちあぶれちゃうみたいだし、少し泳ごうか」

あまりにも自然に手を引かれて、私は声を出すことも出来なかった。一年生のほうを振り返れば、いってらっしゃいとばかりに手を振っている。なんで私と夏油先生があぶれるって決まってるの、とは、聞かなくても分かった。
絶対虎杖くんも伏黒くんも私が夏油先生のこと好きだって知ってるでしょ。
人波を縫うようにして波打ち際までたどり着き、寄せて返すそれにちょこんとつま先をつけた。ひんやりとしていて気持ちが良い。
夏油先生がそのまま海の中へ入っていこうとするものだから「夏油先生のシャツ濡れちゃいます」と言うと「気にしなくていいから」と返事がかえってきた。
私の胸元ほどの深さまで浸かれば、波にあわせてアロハシャツがゆらゆらなびく。

「私、海って久しぶりに来ました」
「そうだな、私も随分久しぶりだよ」

昔悟と任務で沖縄に行ったことがあってね、と夏油先生は自分の話を始めた。普段はあまり自分の話をしないからこれは貴重だ。マングローブにカヤックで行って、そのあとソーキそばを食べたこと。それから美ら海水族館に行ったり、海水浴場で五条先生がなまこを引っつかんで遊んでいたこと。
滅多にないくらいの饒舌さで紡がれる心地の良い声に、私はうっとりと聞き入った。

「いつか行ってみたいです、沖縄」
「いいね、連れて行ってあげる」

ざん、ざざざん。波の砕ける音と汐の香り。子供のはしゃぐ声と嗜める母親の声、若い男女の弾むような声、老若男女の声が飛び交っているはずなのに、まるで二人だけの世界であるように感じた。
泳ぐといったって人の多い海なので、ふよふよと漂ったり時おりすいすいと水を掻いたりする程度だ。向かい合って話しながら、水に埋もれる感覚を全身に浴びる。
他愛もない話をして、少し冷えてきたなと考えていると、それを見計らったように夏油先生が「一度上がろうか」と言ってくれた。
海の家から真っ直ぐ沖にきたのに、もと来た場所より随分離れてしまっていた。知らず知らずのうちに波に流されていたらしい。
皆どこだろう、と6人の姿を探していると、不意に頬に何かが触れる感覚があって、はっと隣を見れば、夏油先生が私の頬に手を伸ばしていた。

「ナマエ、顔が赤いよ、日焼け止めちゃんと塗った?」

海水に濡れて少し冷えていて、なのにじんと痺れるような感じがする。心臓がどきどき脈打って、何も考えられない。心配そうに細められる目を見ていると、揶揄われているのか本気で心配されているのかも見当がつかなかった。

「わ、私、飲み物買ってきますね!」

私は咄嗟にそう言って、「私が行くよ」と言った夏油先生を振り切る。
そもそもこのビーチについてからずっと、私の心臓はどきどきと苦しくなるほど鼓動しているのだ。少しくらい心臓を休ませたい。
一番近くの自動販売機でペットボトルのお茶を二本買い、戻るまでに顔の赤さをなんとかしないと、とペットボトルで頬を挟んでその熱を冷やす。まだビーチに来たばかりだっていうのに、この後どうしよう。
とぼとぼ夏油先生と分かれた場所まで戻ると、女の人二人が夏油先生を囲んでいた。

「あ、あの…」

茶髪をゆるく巻いた女の人と、長い黒髪をおだんごにした女の人。二人とも美人で、一目でわかるくらい胸が大きい。私は思わず自分の胸元を見下ろし、昔五条先生に言われた「傑は巨乳好きだよ」と言う言葉を思い出す。ああ、思い出したくなかった。
美人で、スタイルが良くて、夏油先生とつり合うような大人の女の人。
何か声をかけないと、と口を動かそうとして、けれど「夏油先生」とはどうしてだか呼びたくなかった。それ以外に言いようもないのに。
ふと恋人がするみたいに「傑さんお待たせ」なんて漫画で見たことがあるような言葉を思いつき、けれどそんな嘘を口に出すことも憚られた。
そうこうしているうちに夏油先生がこちらに気付いて、私は慌てて大きく声を出す。

「おっ、お兄ちゃん!!」

私の声に二人も振り返り、夏油先生が驚いたように「ナマエ」と小さく名前を呼ぶのが聞こえた。
咄嗟に口に出してしまったものの、このあとになんて言葉を続けるか全く考えていなかった。ただもうこれ以上お似合いに見えるような女の人が夏油先生の隣に立っているのが嫌だった。

「迎えにきてくれたのかい」
「あ、うん。えと、お母さんが呼んでたから!」
「ああ、すまないね、今行くよ」

夏油先生がそう話を合わせてくれて、女の人たちの元から抜け出す。
ペットボトルを一本差し出し、背中に女の人の視線を感じながら海の家へ向かって歩き出した。
ぽつりと「どうしてお兄ちゃんだったの?」と夏油先生が尋ねる。

「お兄ちゃんは…似てなさ過ぎましたかね…」
「ハァ、そうじゃなくて…」

「夏油先生」と呼びたくなかったとはいえ、お兄ちゃん無理があったなぁ。全然似てもないし、私に兄弟がいたとして、夏油先生みたいにかっこいいお兄ちゃんではない気がする。
夏油先生に呆れられちゃったかなぁ、と隣を見上げると、吊りがちの目が私をじっと見ていた。

「こんな時くらい、私の名前を呼んで彼氏だって言えば良かったのに」

その言葉に私は思わず動きを止める。そうだ、確かにそう考えてたけど。
私はぎゅっとペットボトルを握る力を強くして俯く。

「でも…」
「でも?」
「そんなこと言ったら…ずっと嘘のまんまになっちゃいそう、だから…」

そんなの絶対に嫌だ。
それきり続ける言葉を失って私が黙っていると、夏油先生の大きな手がペットボトルを握っていた私の手を解き、ペットボトルを取り去った。
「えっ」と驚く私を無視して、片手で2本のペットボトルを持った夏油先生が空いた手を私の指に絡ませる。恋人つなぎだ。
なんで、こんな、急に。また揶揄われているのかと思って見上げた夏油先生の顔は笑っていたけど、揶揄うような色はひとつもなくて私はますます混乱した。かろうじて「どうして」と消えそうな声で言うと、夏油先生が手を握る力を強くして言った。

「ナマエが声をかけられたら困るからね」

海で冷やされていたはずなのに、触れている部分が焼けるように熱い。




- ナノ -