梅雨の季節になった。
気温も高くなってきていて、しかもじめじめと湿気がこもるものだから衣類がべたべたとくっついて不快な季節だ。
寮のランドリールームで私は洗濯機をぽちぽちと操作する。この時季は雨でなくてもカラッとした天気の日が少なくって洗濯物の乾きが悪いから困る。

「今日は乾燥機行きのコースだなぁ」

乾燥機あんまり好きじゃないのに。スタートボタンを押せば、がたがたと機械音がして洗濯が始まる。一時間くらいあとに様子を見にこよう。
一度戻ってきた寮室の前の廊下からふと外を見ると、見知った人影が傘もささずに雨の中を走っているのが見えた。夏油先生だ。
この方向なら、向かう先はたぶん書庫のある校舎。私は急いで部屋からバスタオルを引っ手繰ると寮の玄関に駆けていく。玄関先に立てかけている自分の傘をさして全速力で夏油先生の向かったであろう校舎まで走った。

「夏油先生!」
「ナマエ?」

夏油先生が軒先でシャツの袖をまくっている。近頃の暑さでただでさえ薄着になっているというのに、雨でシャツが張り付いて夏油先生の鍛え上げられた上半身を浮き上がらせていた。
とてもじゃないけれど直視することが出来なくて、持ってきたバスタオルを「これ使ってください」と胸元に押し付けるように渡す。

「ありがとう」
「いえ、濡れたままだと風邪ひいちゃいますし、それにその…」

意識してしまうから。とはもちろん言葉に出来なかった。
好意を持っているとさんざん伝えているとはいえ、それとこれとは別の話だ。

「意識する?」

カッと顔に熱が集まる。口の端だけをわずかに上げる笑い方で、夏油先生が私を見下ろしていた。

「夏油先生、今日は意地悪ですね…」
「ごめんごめん、ついね」

ついってそんな。と喉まで出掛かって、なんとか飲み込んだ。
最近、夏油先生にからかわれていることが多いと思う。それこそ初めて告白した時は打てど響かずといった様子で、「好きです」という言葉に「ありがとう」とさらりとした一言が返ってくるだけだったというのに。
いや、そのさらりとした一言が返ってくるのは今でも変わらないのだろうけど、ただ面白がられているというか、意図の読めないことを言われることが多くなったような気がする。

「夏油先生が傘持ってないなんて珍しいですね」
「悟に取られたんだ。術式使えば濡れやしないくせにあいつ…」
「ふふっ」

話を逸らしてしまおうと適当な話題を振ったら、子供みたいな口調が返ってくる。
夏油先生は、五条先生の話をするときに少しだけ語気が強くなったり、使う言葉が乱暴になる。それが親しさゆえのものと知っているので、夏油先生が五条先生の話をする瞬間が私は好きだ。
思わず笑いをこぼすと「なにかおかしかったかい?」と夏油先生が頭上にはてなマークでも飛ばすように聞く。

「夏油先生と五条先生、本当に仲良しだなぁと思って」
「まぁ、長い付き合いだからね」

長い付き合いか、と、私は夏油と出会った日のことを思い出した。


三年前、学校から帰り道、雨の日だった。
夜みたいに真っ黒な雲に覆われ、当時中学二年生だった私は家までの道を走っていた。
私は夜になると変な化け物を見ることが多くて、なるべく遅い時間に出歩くことは避けていたのに、その日は部活のミーティングが思いのほか長引きいつもより一時間ほど遅い時間になってしまった。
目玉の無数に蠢く蛙、人間のような足が六本生えた達磨みたいな化け物、空中をぷかぷか浮かぶ燃えるクラゲ。小さい頃からそういった化け物が見えていて、それこそ小学校の低学年とかまでは親なり友達なりに化け物のことを話していたけれど、見えないものを信じてもらえるはずもなく嘘つき呼ばわりされるようになり、次第に見えるということを隠すように生きてきた。
気づかないように、気づかれないように、そして夜になると決まって不気味な気配が増幅するから、私は同級生よりも過敏にその時間を避けていた。
早く家に帰ろう、家に帰ってしまえばこの不気味なオバケを見ることもない。ぱしゃぱしゃと水溜りを踏みつけながら走る。そのとき。

「ひぃっ…!」

足を地面から掴まれた。勢い余って転んで傘が数メートル先まで飛び、通りがかった車によってバキリと折られてしまったことを音だけで理解した。
掴まれた足を確認すると、地面から伸びるどす黒い人間の手が、脛のあたりを鬱血するほどの強さで掴んでいた。

「やっ…い、痛い…!離して、離してよぉ!!」

必死で逃げようと足を引いたが、びくともしない。こうして捕まってしまうこと自体は初めてじゃなかったけれど、今日の化け物はいつものものより何倍も力が強い。
抵抗を続けていると、地面が一瞬歪んだように波打って体が少しずつ沈みこみ始めた。嘘でしょ、何これ、嫌だ、助けて。そのどれも声にすることが出来ず、口からは「あ、あ」と言葉にならない単語だけが漏れ出ていた。

「た、たすけ…だれか…!」

瞬間、足元が熱くなるような感覚がして、ふわりと軽くなった。
化け物が立ち消え、その代わりに男の人がひとり、私の前に立っている。

「大丈夫かい」

そのひとは肩ほどの長い黒髪をハーフアップにしていて、全身黒ずくめでおまけに傘まで黒かった。
口元は緩く弧を描き、耳には大ぶりのピアスをしている。一歩、二歩と私の近くまで寄るとしゃがんで、ハンカチで泥だらけになっていた私の顔を拭ってくれた。

「君、見えているね」
「えっ…み、見えてるって…この化け物のことですか」

私の腰は相変わらず抜けたままだったけれど、何となくこの男のひとがあの恐ろしい化け物を退治したのだということだけはわかった。

「化け物というか、これらは呪霊といって、人間の負の感情から生まれる呪いなんだ。大抵の人には見えることはないんだけど、君みたいに時々見える人間もいる」

男のひとは教師のような迷いない口調で非現実的なことを言い、ハンカチを私に持たせると、今度はなだめるような柔らかさで私の頭をぽんぽんと撫でた。
一呼吸置いたあと、今度は自分のズボンのポケットから財布を取り出して、そこから抜き取った名刺大の紙を差し出す。

「見える体質で一般人として暮らすのは何かと不便だろう。困ったらここに連絡するといい」

白い紙に東京03から始まる電話番号だけが簡潔に書かれている。
「なんの…番号ですか」と尋ねると、彼は手を差し出して腰の抜けていた私を引っ張り立ち上がらせた。

「東京都立呪術高等専門学校。ここには君と同じ見える人間がたくさんいる。私の紹介と言えば話が早いだろうから、連絡するときはそう言うといい」

高い位置から見下ろされる。でも不思議と少しも怖くはなかった。立ち上がるときに触れられた場所が、大して強く握られていたわけでもないくせにじんじんと熱い。
化け物に掴まれた足より、よっぽどその感触を主張している。

「私は夏油傑。術師をしながら高専で教鞭をとっているんだ」

それから夏油先生は傘のなくなった私を自宅まで送り、またね、と言って姿を消した。


出会って三年、告白して一年。それが夏油先生との関係のすべてだ。
もし私が五条先生や家入先生のように夏油先生と同じ時間を過ごすことが出来ていたら、何か変わったのだろうか、どうしようもないことを考えて頭を振った。
ふと、横目で夏油先生を見ると、この湿気に鬱陶しくなったのか長い髪を結いなおしていた。
髪ゴムを口に咥え、普段は隠されているうなじが曝け出される。首筋をすうっと落ちていく水滴がなんとも色っぽくて、目を離すことができない。
こんなことで子供だ、と自分でも思ったが、それでも夏油先生から発せられる酔ってしまいそうなほどの色気を前に、私は平気な顔でなんていることが出来なかった。

「どうかした?」
「な、なんでもない、です」

咄嗟に誤魔化す言葉も浮かばずにそう言えば、夏油先生はくすくすと笑った。もしかしなくてもこれは見とれていることも、考えていたこともすべてお見通しなんだろうな。私はいっそう恥ずかしくなって、今度は夏油先生のほうを見れなくなってしまった。

「今年の梅雨は早く明けるらしいね」
「…観測以来初めてだそうですね」
「夏になったら海に行こうか」
「えっ、連れて行ってくれるんですか?」

思わぬ提案に、私はさっきまで意識していたことを忘れ、夏油先生のほうへ勢いよく顔を向ける。
「もちろん」夏油先生の気の良い返事に、顔が緩んでいくのが自分でも分かった。
嬉しい、夏油先生と海に行けるかもしれないなんて!

「楽しそうですね!皆来れるといいなぁ!」

夏油先生はちょっとだけ目を見開いてすぐいつもの顔になると「そうだね」と短い肯定だけを返した。
本当は、夏油先生と二人で行けたらいいのにな。だけどそれは贅沢なことだ。
私は降り続ける雨を眺めながら、俄然楽しみになった夏のことを考えていた。




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