私の恋人は年下の、しかも教え子だ。この部分だけを切り取ればおそらくとんでもなく強い風当たりで世間から批判の嵐だろう。先を見据えて真剣交際だが、私たちはまだキスもしていない
自分で言うのもなんだが、私は今まで女性関係に苦労した経験がほとんどない。大体女の子は向こうから寄ってくるものだったし、そうでなくても少しアプローチをかければ大概成功する。ナマエも向こうから好意を寄せてくれたと言う点では同じだが、手を出せないと言うのは少し、いや、かなり過酷な状況だ。精神的に。

「げ、夏油さんあの…」
「ああ、伊地知いたのか…」
「いや、ずっといるんですけど…」

次の任務の概要を伊地知が説明してくれていたところだったのをすっかり忘れていた。私はハァと大きくため息をつき、伊地知がそれに大袈裟なほどびくりと肩を震わせる。

「説明続けてくれ」
「は、はい…。次の任務地は群馬です。対象は一級と目される大鯰、現地で軽傷者ですが怪我人が出ています」
「鯰か…そういえば持ってないな」

伊地知の説明を聞きながら私は呪霊攻略の算段を立てる。変わった呪霊の任務はなるべく優先して私に回してもらうようにしているが、このところ変な呪霊が多いせいで私のスケジュールは任務でびっちりだ。
こんなにろくにデートも出来なくて愛想を尽かされないだろうか。いや、ナマエに限ってそんなことを言うわけはないが、何かのきっかけでもっと歳の近いような男にとられてしまいやしないかと心配になる。ナマエは純粋であまり人を疑うことをしない。変な男に漬け込まれでもしたら最悪だ。

「ねぇ伊地知、忙しくて会えない彼氏ってどう思う?」
「え、そ…それは…」
「忌憚のない意見でよろしく」
「…忙しくてろくに会えないという理由で先週フラれました」

伊地知の実感のこもった言葉に心の中で合掌する。そんな悲劇が起きていたとは知らなかった。特に伊地知は悟のお気に入りだからどうせデートだって何度も妨害されているに違いない。それは御愁傷様だな。


群馬の山奥で大鯰の呪いを取り込んで、正直そのまま帰ってしまいたかったがあいにくの嵐で足止めを食らった。幸い駅前のビジネスホテルが空いていて、今夜はそこに宿泊だ。
荷物を置いてとりあえずシャワーを浴びる。そう汚れてはいないが、この時期は少し外に出るだけでじっとり汗を書くから厄介だ。
ユニットバスで汗を流し、コンビニで買い込んだビールをカシュっと開ける。どうせならご当地グルメでも食べたかったところだが、嵐のせいで店がやってないのだから仕方がない。少し離れたところに飲食店はいくつかあるらしいけど、もはや面倒になってコンビニ飯。

「あれ、ナマエだ」

一気にビールを飲み干すと、ちょうどナマエからメッセージが入っていた。メッセージアプリを開くと一つのメッセージとキツネの焦ったみたいな顔のスタンプ。

『任務お疲れ様です。台風で帰れなくなったと伊地知さんから聞きました。大丈夫ですか?』

伊地知に聞いたと言うことは無事宿を確保したということもセットで伝わっているはずだ。それをわざわざ心配して連絡をくれたらしい。可愛いな。

『大丈夫だよ。今ビジネスホテルでシャワー浴びたところ。明日には帰れると思う』

そう返信して、私はじっと画面を見つめた。声が聞きたいな。何の具合なのか、強烈にそう思った。別に長いこと全く会っていないわけじゃない。デートの時間は取れてないけど、高専では顔を合わせるしメッセージのやりとりもする。でも人間は欲深いもので、手に入って仕舞えばもっともっとと欲しくなる。そもそも私はナマエを誰かに譲る気なんて毛頭なかったわけだけど、手にしてしまえば少しも離れたくないぐらいにそばにいてほしくなる。

『ナマエ、電話していい?』

そうメッセージを送るとすぐに既読がついてスマホが着信を告げる。ディスプレイにはナマエの名前が表示され、私は通話ボタンをタップした。

「もしもし」
『あっ、もしもしミョウジです』
「お疲れ様。急に電話していいかなんてごめんね」
『いえ、全然大丈夫です!ちょうどお風呂出たところで…』
「そうなんだ。私も今シャワー浴びたばっかり」
『ふふ…お揃いですね』

耳元でナマエの声がする。電話なのだから当たり前なのだけど、それがくすぐったい。私は2本目のビールをカシュっと開けた。

『何かあったんですか?』
「いや、ナマエの声が聞きたかっただけ。ダメだった?」
『だ、ダメなわけないじゃないですか…』

ナマエの照れる声が聞こえる。見えていないけどどんな顔をしてるかなんて簡単に想像がつく。声だけというのが余計な部分をすすすとなぞり、私は向こうに聞こえてしまわないようにハァと大きく息をついた。それもビールで流し込む。

「ナマエ、今日はどんな日だった?」
『今日ですか?今日は真希ちゃんと一緒に任務でした。廃校の呪霊でトイレの花子さんみたいな女の子の呪霊でしたよ』
「へぇ、怪我はない?」
『はい。元々低級でしたし真希ちゃんがいてくれたので私はどちらかというと調査メインで…』

それからナマエは真希とどんな話をしただとか、昼は何を食べただとか、そういう他愛無い話を並べる。その声が鼓膜から入り込み、私の意識の深くを溶かしていく。ビールの炭酸がついでに微かな快感になって喉を渡る。

「いい日だったようで何よりだよ」
『でも、あの…その…』

私がそう言うと、ナマエはもごもごと口籠る。何だろうと思って「どうかしたかい?」と尋ねると、一拍置いてから小さく言葉が返ってきた。

「げ、夏油先生に会えなかったのは…寂しかった、です」

ポツンと落とされるような声に私はぐっと言葉を飲み込んだ。なんてことを言ってくれるんだ全く。どんな顔をしてそんな可愛らしいことを言うのか。見れないから言われているのに、見たくてたまらない。
きっと真っ赤になって、唇をむずむずと動かしているに違いない。私はその我慢するみたいな唇を見るたびにキスがしたくてたまらなくなる。

「私も、ナマエに会えなくて寂しいよ」
『ほんとですか?』
「本当」

電話の向こうでナマエが嬉しそうに笑う。吐息がこちらまで届いてしまいそうで、まぁ、何というか、声だけと言うのも結構グッとくる。あー、本当に会いたい。会って抱きしめてそのままキスでもしてしまえたらいいのに。
自分で立てた誓いだ。破るわけにはいかないと戒めながら、私は移っていくナマエの話題に相槌を打った。


もちろん流石に、出会った当初から恋愛対象だと思っていた訳ではない。何せ当時彼女は中学二年生で、私はすっかり成人した大人だった。それがいつからだろう。単純に好ましいと思うのを超えて、触れたいだとかキスしたいだとか、そういうふうに思うようになったのは。とはいえ私は分別のある大人で、彼女はまだ未成年。関係の進展が随分先になると言うことは分かりきっていたことで、無論納得している。とはいえ、性欲がなくなるかといえばそれは別問題である。私は坊主じゃない。

「夏油せんせ、起きて」

その声にぐっと意識が浮上する。腹の上に重みを感じ、パチパチと目をまたたかせた。しばらくで暗闇に目が馴染み、ようやく重みの輪郭を捉える。

「ナマエ?」
「ふふふ、おはようございます」

おはようとは言われたが、カーテンの向こうはまだ暗いようだ。なんで彼女が私の腹に乗ってるんだ、と思うも束の間、彼女の細い指が私の頬を撫でる。それからそのまま上体を私の胸板に預け、暑さで掛け布団もかかっていなかったから胸の柔らかさがダイレクトに伝わってきた。

「ナマエ、どうしてここに?」
「だって寂しかったんです。夏油先生も寂しかったんでしょう?」

それは、そうだけど。そう思っている間に彼女の顔が近づき、それから私の唇に自分のそれを押し付ける。ふにっと柔らかくくっついて、それから少し離れてまたくっついてを繰り返す。唇は砂糖みたいに甘い。

「ナマエ、こら。キスはまだしないって約束だろう?」
「やだ。寂しい。夏油先生私に全然触ってくれないんだもん」
「だから…」

これはケジメだ。いずれ彼女を何の後ろめたさも無い状態で迎えられるようにするため。そういうのは大切だ。一度崩すとなぁなぁになってダメになる。

「ねぇ夏油先生。もっと触ってほしい」
「え…」
「私、そんなに魅力ないですか…?」

そう言って、ナマエは私の手を掴むと自分の胸の上に持っていく。私の手は硬直したが、彼女が上から握ったためにその柔らかさを掴むことになる。
くそ、ダメだ。これ以上されたら絶対自制が効かなくなる。

「夏油先生、抱いて」

切ないナマエの声が耳元で吐息と共に囁かれ、私の鼓膜を揺らす。私はナマエの腕を引いて抱き込み、体を反転させると彼女をベッドに組み敷いた。私の下で顔を赤くして目を潤ませた彼女が唇を震わせている。
もっと最初はナマエがリラックスできるところで、もっとちゃんと準備をしてと思っていたのにこの有様だ。男の本能なんてどれもみんなおんなじで、好きな女の子を目の前にしたら結局こんなことばかり考えてしまう。

「ナマエ、キスしていいかい?」

あれ、ここって群馬のホテルだろ?何でナマエがここにいるんだ?


ゴトン。派手にベッドからずり落ちて受け身も取れずに頭を打つ。
分厚い灰色のカーテンの隙間から朝日がちかちか差し込んでいた。

「うっそだろ…」

ここは昨日急遽宿泊を決めたビジネスホテル。もちろん室内にナマエの姿はない。もう少し考えればわかることだ。あのナマエがあんなに積極的に私に迫るなんてありえない。まぁそりゃ悪い気はしないけど。
告白してきた当初こそ積極的に告白を繰り返してきたナマエだが、好意を向けられることに慣れていないのか私が攻めればすぐに恥ずかしがって何もいえなくなる。そのナマエがあまつさえ夜這いのようなことをするわけがない。というかそもそもこのビジホに来るわけもないし。

「ガキの妄想か」

私は深くため息をついた。こんな夢を見るなんて欲求不満にも程がある。最近忙しくて抜けてなかったのは事実だが、それにしたってこんな思春期みたいな夢…。頭が痛い。
のそりと体をベッドに戻すと、ベッドサイドで充電されていたスマホがちかちかとメッセージを通知している。私は緩慢な動作でディスプレイを確認し、そのままメッセージアプリを開いた。

『おはようございます。帰ってきたらちょっとでいいから会いたいです』

そう、これだ。この慎ましさなんだ。ナマエは。
夢の中のナマエも積極的でやぶさかではなかったが、やっぱり本物に勝るものはない。メッセージの返信を打ちながら、帰ったら絶対意識して焦ってしまうだろうな、とまたガキみたいなことを考えた。

「あーくそ、あと一年半か…」

キスはナマエが卒業してから。その先は成人した後で。取り急ぎキスまでの一年半、私はこの葛藤と戦うことになるのだった。


「ナマエ、返事きたか?」
「うん。会いたいって言ってくれた」
「それだけ?」
「だって…会いたいって言ってくれるだけで嬉しいもん」
「はぁ、お前は欲がないよなぁ…」

私の燻る思いとは裏腹にナマエが真希にそんなことを言っていたなんて、この時私は知る由もなかった。




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