7月某日、任務の途中に通りかかった街で、ナマエを見かけた。声をかけようとしたけれどすぐ隣に野薔薇がいて、その向こうには恵に悠仁、それから真希や棘もいるようだった。その面子で遊んでいるところに水を差すのもなんだかな、と思いそれを横目で見ながら通り過ぎることにした。
そのとき声をかけておけばよかった、と思っても後の祭りだった。私は高専に戻ってから、急遽厄介な任務を押し付けられたのだ。
場所は今どき電波も怪しい山奥で、妙な花が咲くという呪いの案件。ふたを開けてみれば、戦前の災害による死者の思念と山への信仰が相俟って生まれた精霊に近い呪いだった。
しかも、取り込んだはいいが何の役にも立たない。使役すると多少いい匂いがするだけ。なんだよ、いい匂いがする呪いって。

「くっそ…悟のやつ絶対面倒くさがって私に押し付けただろ…」

その妙な案件に往復で三日かかった。つまりしょうもない任務で三日間もナマエに会えなかったということだ。
私は手早く報告書を高専にあげて、無駄に疲れた身体を引きずって帰宅した。腕時計を確認したら時刻は夜の11時に迫ろうとしている。流石に寝てはいないだろうが、本来であれば今日はナマエと二人でゆっくり食事をするはずだったのに。

「ただいま」
「傑さん、おかえりなさい!」

がちゃんと玄関の扉を開けると、奥からナマエがとことこと迎えに来てくれた。可愛い。見ただけで結構疲れが吹っ飛んだ。

「お仕事お疲れ様です」
「悪いね、本当は二人で食事をしようって約束してたのに」
「全然平気です。傑さんお仕事なんだから仕方ないですよ」

私の妻は物分かりが良すぎて困る。そりゃ、同じ術師をしているのだから突発的な任務が入ることや予定通り行かずに長引くことも理解してくれるところだろうとは思う。それをいちいち不満だと言われてはかなわないが、とはいえこうして少しの寂しさも見せずに迎えられるというものも寂しい。
無いものねだりの我儘だ。

「お風呂どうぞ。今日はお湯張ってありますからゆっくり入ってください」
「ありがとう、助かるよ」

私は差し出されたナマエの手に上着を預け、そのまま風呂場に直行した。山奥の任務でろくに風呂に入れていなかったし、ナマエを抱きしめたいが先に汚れを落としてしまわなければ。
風呂場のドアを開けると、ほかほかと湯気が漂っていてミントの香りが爽やかな入浴剤が入っていた。私が「いいね」と言ったもので、ナマエはしっかり覚えていたらしい。

「はぁ、私の妻は可愛いな」

思わず漏れた声が風呂場にぼんやりと反響する。さらさらと髪と体を洗って湯舟に浸かれば極楽だ。肩回りの筋肉がじんわりとほぐれていく。鼻を抜けて、頭もすっきりだ。
しばらく湯を堪能してさっぱりしてから風呂を出ると、下着とTシャツとスウェットが用意されていた。同棲を始めてすぐのころは下着ひとつで随分恥ずかしがってくれたけれど、流石に最近そうはいかない。

「着替えありがとう。さっぱりしたよ。あの入浴剤私がいいって言ったやつだよね?」
「はい。この前見かけたので買い置き用にちょっと多めに買っちゃいました」

そんなことを言いながら部屋に入ると、いつもはしない香りがぐっと香った。シトラス系の…だけど少し花のような香りもする。ナマエは香水の類は使ってないはずだし、シャンプーやボディーソープなら風呂場で気づく。というか、風呂入った後に香水なんて使わないだろう。
この三日間花の呪霊に煩わされていた私はさすがにちょっと気分が下がる。

「ナマエ、いつもと違う匂いがするね」
「あ、そうなんですよ!」

私の頭の中とは裏腹に、ナマエはぱぁっと顔を明るくしていそいそと寝室に入ると、10センチ四方程度の瓶を持って戻ってきた。
匂いの話は勘弁だ、と思ったはずなのにナマエがにこにこと笑っているとすぐに気にならなくなった。我ながら現金だ。

「これです」

私の目の前にどんと掲げるように差し出された瓶をまじまじ見ると、曲線的な図柄のラベルにピンク色の蝶とブランド名が書かれている。ブランド名の下にはボディジェルと書かれていた。どうやらボディケア用品のひとつらしい。

「シャボン期間限定のなんですって。トーキョースペシャルコレクションっていうので、私香りが気に入っちゃって」
「へぇ、珍しいね、ナマエがそういう香りのものに興味持つなんて」
「ふふ、そりゃあ私も大人の女ですから、ちょっとくらいこういうのに気を遣ったりもします」

ナマエは少し得意げにそう言った。こういったものにはあまり詳しくないけれど、なんとなくジャスミンっぽい香りが女性らしい。

「どうして急に?」
「…大人の女のひとって感じがするなって思って。この前野薔薇ちゃんたちと出かけた時にお店で見つけたんです」

ああなるほど、事の顛末は大体読めた。ナマエがときおり発揮する「傑さんに見合う女性になりたい」というものだろう。まったく甲斐甲斐しい。もうとっくに君は放してやれないほど私の心の奥を占拠しているというのに。
じっとナマエを見つめたら、私がその答えに行きついたとわかったのかナマエはうろうろと視線を泳がせた。

「いい香りだけど、いつも私と同じ匂いがするから、今日はナマエだけが違う香りで少し寂しいな」

私がナマエの手を取って、恐らくそのボディジェルを塗っただろう腕にすっと鼻を寄せる。ナマエは恥ずかしそうに身じろぎをして、だけど私から逃れようとはしなかった。
いつものパターン。恥ずかしがるナマエを引き寄せてキスをしてもっと顔を真っ赤にしてしまおう、と思ったら、ナマエがのんきな声で「あ!」と言った。

「良かったら傑さんも塗りますか?」
「私も?」
「はい。そしたら二人でおんなじ匂いです」

そうきたか。予想外の申し出に、私は面白くなってしまって、ふふふと笑いを溢した。ナマエはきょとんと首を傾げている。

「そうだね、せっかくだしお願いしようかな」

ナマエが嬉しそうに右手に持っていた瓶を差し出す。自分で塗るなんてつまらない。私は瓶を受け取るとソファに移動して、ナマエを手招きで呼んだ。
ナマエは素直に私に従い、隣に腰を下ろす。それから蓋をぐっと開け、ナマエに瓶を差し出した。

「傑さん?」
「ナマエ、塗って」
「え?わ、私がですか…?」

そう。と言って私はもう一度瓶を前に出す。ナマエは少し躊躇ってから瓶を受け取って、白濁したジェルを指に取った。

「ちょ、ちょっとひんやりしますからね…」
「ああ、頼むよ」

ナマエの細い指が私の腕をそっと掴み、ジェルを前腕に乗せた。確かに少しひんやりとして、この暑い時期には心地いい。それをナマエは人差し指と中指と薬指の三本ですうっと伸ばしていく。ナマエから香る香りと少し違うのは、いわゆるトップノートというやつだからなのだろう。

「いいかんじ。レモンっぽいね」
「はい。一番最初はレモンとグリーンノート?なんですって。こういうのってちょっとずつ匂い変わっていくものなんですね」
「香水と同じだね」

ナマエは初めに掬った分を塗り終えて、また瓶からジェルを適量取ると私の腕に伸ばしていく。少しからかおうと思ったのに、あまりに一生懸命にやるもんだからそれも悪い気がしてきた。

「傑さん、反対の腕も出してください」

私は言われるがまま腕を入れ替え、ナマエはまた一生懸命に私の腕にボディジェルを施す。あっという間に両腕が二の腕までひんやりとしたジェルに包まれて、私の華奢でも白くもない腕がすっかりつやつやと保湿されている。
お願いしようかな、なんて言ったものの、自分から女性のような香りが漂うのはなんとも妙な気分だ。

「腕はこれで終わりです。どこか乾燥が気になる部分があるならそこも塗りましょうか?」
「いやいいよ、ありがとう」

私はナマエが瓶にきゅっと蓋をするのを見届けてから、彼女細い腕を引いた。ナマエがバランスを崩したのを受け止め、ぎゅっと胸元に閉じ込める。

「す、傑さん…!」
「本当に同じ香りだ」

身じろぎをするナマエの額にキスをすれば、やんわり力をなくして抵抗を辞める。シトラス系の爽やかな香りの中に隠れている花の香りが何とも陶酔的で、ナマエの首元に顔を埋める。
私は両腕だけだけれど、ナマエは全身に使用しているらしい。首筋からも同じ匂いがした。

「ん、傑さん…くすぐったい、です…」
「ふふ、ごめんごめん、あんまりナマエが可愛いもんだからさ」
「…もう…」

触れた肌がしっとりと柔らかくて、これは中々煽情的だな、と白い肌を見つめる。私がそんなことを考えているとは思ってもみないだろうナマエは「おんなじ匂いっていいですね」と無邪気に笑った。


翌日、思いのほかボディジェルの香りが残ってしまって、あまりにもあからさまな匂いをさているところを硝子に見つかり、とんでもなく顔を歪められた。
すっかりこの香りを気に入ったらしいナマエがボディーソープとファブリックミストまで同じシリーズのものを買ってきて、しばらく我が家は華やかな香りで満たされることになった。
こうしてナマエの気に入るものに囲まれる生活というのも、中々楽しいものだ。




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