誰かが家で待ってくれているというものはいいものだ、と幼いころ父が酔っ払った時に言っていた。 その時はもちろん意味がわかっていなかったし、高専では寮生活をしていた身だからそれを実感したのはごく最近のことだ。 父の言っていた誰かというのはもちろん誰でもいいわけではなく、愛する人のことを指していた。娘の私のことも含まれていたとは思うけれど、きっとあれは母のことを言っていたのではないかと思う。 多分、一人暮らしから二人暮らしになった、新婚の頃を思い出して。 「ただいま」 「おかえりなさい、傑さん」 私は玄関に向かって、任務帰りの傑さんを出迎える。今日は傑さんが任務で、私はお休みだった。術師は定休がないから、ご飯を作るのは時間に余裕がある方。もちろん出来合いのものでもいい。 無理はしない。それが傑さんと私の生活の、数少ない決まりごと。 「予定通りでしたね」 「ああ、本当は少し早く終わったんだけど高専で学生に捕まってね…」 任務を予定通りにこなせて流石だなぁという意味で言ったのに、本当はもっと早く終わっていたらしい。よく規格外と言われるのは五条先生だけど、傑さんも充分その範疇に入ると思う。 靴を脱いで手を洗いに洗面所に入る傑さんを見送り、私はリビングで夕飯の支度の続きに取り掛かった。今日はちゃんと時間が取れたので珍しく出来合いのお惣菜はナシ。 ふんふんと鼻歌を歌いあさりのお味噌汁をお玉でくるりとかき混ぜた。 「いい匂い」 「わっ、傑さん!」 傑さんが気配もなく後ろから私を抱きしめて、思わずお玉を落としそうになる。「急に危ないです」と抗議すると「ごめんごめん」と思ってもいない調子で謝られる。傑さんは結構いい加減な大人だ。 「今日の夕飯のメニューは?」 「和食ですよ。ブリの照り焼きとあさりのお味噌汁と蓮根の煮物と…あときゅうりの浅漬けと水菜のお浸しもありますよ」 「全部手作りかい?」 「はい。今日は張り切っちゃいました」 張り切ったというほど手の込んでいるものではないけれど、私にしては頑張った方。 傑さんの動く気配がして、放してくれるかなと思ったら逆だった。傑さんの唇が首元に降ってきて、ちゅっちゅと音を立てる。 「ちょ、す、傑さん…!」 「ん?」 ん?じゃなくて! もう夕飯出来るところなのに!というかまだお風呂入ってないから、そんなに顔を近づけられたらすごく気になるのに! 「お夕飯ですってば!」 「わかってるけど、もうちょっとだけ」 止まらない傑さんのスキンシップにもう一度抗議をしようとしたら、それを見計らうようなタイミングで私のお腹がグゥゥと鳴って、別の意味で顔が赤くなる。は、恥ずかしい…。 「ふふ、腹ペコの奥様を待たせるわけにはいかないな」 「もう…やめてください」 そう。私は先日、ついに正式に傑さんと入籍した。 傑さんと同棲を始めたのは卒業と同時で、プロポーズはその少し前にペアリングを渡された時に初めてそれっぽいことを言われた。 それまでも真剣交際だとか一緒に住もうとかは言われていたけれど、直接的に結婚の話をされたのはその時が初めて。それからことあるごとに傑さんは何度も私にプロポーズをして、ついに成人し、正式な婚約指輪を贈られた。 私は卒業前にもらったペアリングが婚約指輪なのかと思っていたので、ドラマで見るようなおっきいダイヤモンドのついた指輪が出てきた時にはすごく驚いた。 ちなみに私は傑さんの度重なるプロポースをもちろんいつも受け入れていて、それなのになんで何度もするのかと聞いたら「結婚したらできなくなるからね」と言われた。 『だって好きな子には何回だって誓いたいだろう?』 『そういうものなんですか?』 傑さんが楽しそうだからいいのだけれど。私も何回も傑さんからプロポーズされて、嬉しいし。 そんなやりとりを経て正式に婚約したわけだが、入籍までは少し時間が開いた。せっかくだから記念日に入籍がしたい、と傑さんが言って、私たちが選んだ日が付き合い始めた日、つまり三月だったからだ。 もともともう一緒に住んでいるし、生活はあまり変わらない。けれど、すごく大きいものが変わった。 『夏油ナマエ』 私の名字だ。 「いただきます」 「召し上がれ」 ダイニングテーブルで夕飯を囲んで、今日のことをお互いに話す。 傑さんの任務先は鎌倉で、お土産にサブレを買ってきてくれたらしい。 「近場の任務久しぶりですね」 「ああ。ナマエと入籍した途端に遠方が増えたからね。悟の計略に違いない」 「ふふ、まさかぁ」 うーん、でも否定しきれないところが五条先生なんだよなぁ。ちょっと想像してみたら割と詳細に想像できたから、有り得るかも、と頭の中で濡れ衣を着せた。 「ナマエは今日どこか行ったのかい?」 「今日はお買い物くらいしか行ってないですけど…あ、美味しいパンを買って来たんですよ」 今日の私のスケジュールはというと、午前中にお洗濯や掃除を済ませ、お昼を軽く食べてから買い物に出かけるという、よくある休日の過ごし方だった。 ただ今日がいつもと少し違うのは、普段なら寄り付かない大人のおしゃれな街まで電車に乗って行って、パンを買ってきたということ。 「パン?珍しいね」 「七海さんに美味しいパン屋さん教えてもらったんです」 私がこの前のことを思い浮かべながら言うと、傑さんはピタと動きを止めて「七海?」と聞き返した。 七海さんがグルメなのは傑さんも知るところだと思うんだけど…私、何か変なこと言ったかなぁ。 「おやつにクロワッサンを食べたんですけど、サクサクでおいしくって。あんな美味しいお店知ってるなんてさすがですよね。感想送ったらまた美味しいお店教えてくれて」 「感想を、送った?」 「え、はい。メッセージアプリで…」 内容は普通のはずだ。先輩術師に失礼がないように二回確認したし、そんなにびっくりされるようなことにはなってないはずなんだけれど。 私は首をかしげながら、ブリの照り焼きを一口サイズにお箸で切ってぱくりと食べる。ちょっと辛かったかもしれない。 「ナマエ、いつの間に連絡先交換してたんだい?」 「えっと…いつだったかな…お蕎麦の美味しいお店教えてもらって、その時にお店の情報を送ってくださって…」 いつと言われるとはっきり覚えてない。高専でたまたま話す機会があって、無難な会話から美味しいお店の話に発展した。七海さんが和食洋食問わず詳しいと知り、せっかくならと傑さんの好物であるお蕎麦屋さんの美味しいお店の話を聞いたのだ。 「もしかして結構前に言った葛飾の蕎麦屋って七海に教えてもらったのかい?」 「あ、そうです。そのお店です」 私が肯定すると、傑さんはハァと大きくため息をついた。 「わ、私何かまずいことしちゃいましたか…?」 傑さんがあまりに深くため息をつくものだから、私は思わずお箸を置いて傑さんに向かって言った。 傑さんはお味噌汁のあさりをもぐもぐ噛んで飲みこんでから口を開く。 「いや、私の心の狭さの問題」 心の狭さ?話がなんとなくずれてる気がする。 その話はこれ以上深刻になることはなく、話題は次の休みにどこにデートに行こうかという計画の話に移っていった。 翌日、朝イチの任務を終えて一旦高専を訪れると、自動販売機の近くに見知った人影があった。 「七海さんこんにちは」 「ミョウジさんこんにちは」 七海さんは千円札を入れて「何か飲みますか」と尋ねた。「えっ、そんな悪いです」「もうお金を入れてしまったので」なんて問答をしてから、私はじゃあ、とミルクティーを奢ってもらった。 「すみません、もうミョウジさんではなく夏油さんでしたね」 「あ、そうですね。でも東京高専に夏油が二人になってしまうので、仕事は旧姓で通しますから呼びやすいほうで大丈夫です」 七海さんに苗字が変わったことを言及されて、急に気恥ずかしくなる。だめだめ、仕事場で気が緩みすぎだ。 「あ、そうだ、昨日教えていただいたパン屋さんなんですけど、おすすめとかありますか?」 「そうですね、あそこはドイツパンがおすすめです」 昨日のお店の感想の返信で教えてもらったのは、文京区にあるというパン屋さんで、おすすめを聞き損ねていた。 私がドイツパン?と首を捻るのがわかったようで、七海さんは「主にライ麦の比率が高いパンです」と補足の説明をしてくれる。 ライ麦のパンといえば、ちょっと歯応えが強めで穀物のいい香りがするものが多い印象だ。 「傑さん好きそうだなぁ」 傑さんは、結構飾り気のない素朴なものが好きだ。 ふふ、と思わず笑いが溢れてしまって、はっと口を手で塞ぐ。さっき気を引き締めたばっかりなのに。 「熱心ですね」 「…夫に美味しいもの食べて欲しくて…」 呪霊操術では、呪霊を丸呑みにする。私は呪霊の味はわからないけれど、傑さんはいつも「ナマエは知らなくていい味だ」と言う。それだけ不快な味だということは傑さんの態度を見ていればすぐにわかった。 だから、食事だけはなるべく美味しいものを食べて欲しい。それで上書きされるなんて思ってはいないけれど、せめて。 「あっ、すみません、こんな話…」 「いえ、構いませんよ」 ふと我に返り、こんな話をされても迷惑なだけだろうと反省する。 七海さんは一度サングラスの位置を直した。このサングラスってどういう仕組みで落ちないようになっているんだろう。 そんなことを考えていると、後ろからぐっと肩を引かれた。 「私の妻に何か用かな?」 「…夏油さん」 肩を引いて抱き寄せて来たのは傑さんだった。え、え、と驚いている間に七海さんは傑さんを見て、フゥーと大きくため息をつく。 「アナタの普段の惚気を見せられて、彼女に悪巧みしようなんて思うはずないでしょう」 では、と会釈して、七海さんはすたすたと歩き去ってしまった。え、普段の惚気って何の話? 「傑さん、あの七海さんがさっき言ってた普段のって…」 「ああ、私がナマエを可愛い妻だって言って回ってること?」 「えっ!」 初耳だ、そんなことをしてるなんて! 傑さんが話したくなるほど好いてくれているというのは勿論嬉しいことだけれど、流石に高専でそんな認知されるくらい言われるのは恥ずかしい。 「まぁナマエが卒業してから隠すのは辞めたけれど、成人して婚約できて、やっと君のことを堂々と他人に話せるようになったからね」 それが嬉しくて。と言われてしまっては、私はもう「やめてください」なんて言えなくなってしまった。 赤くなる顔を両手で隠すようにしたら隣の傑さんが目を細めてうきうきと笑っていて、これは私が抗議出来なくなるところまでお見通しだったに違いないことがわかった。 「傑さんって、けっこう悪い大人ですよね…」 「嫌いになった?」 そんなことあるわけないのに。いや、あるわけないから傑さんは余裕で笑って、私にそんなことを言うのだ。 「…嫌いになるわけないです」 悔しいけれど完敗で、私は諸手を挙げて降伏する。 可愛いね、と言って、傑さんは私の額にキスをした。「こんなところで」と抗議しようとしたのに、見上げた傑さんがあんまりにも優しく笑っていて、私はやっぱり何も言えなくなってしまった。 本当に、ずるいひと。 |