俺の住んでいるマンションは、都内の1LDKで単身者と若い夫婦が多く住んでいる。
もうここに住み始めて5年以上が経つけれど、お隣さんは俺より先住だ。
入居前に不動産屋に教えてもらった情報によると成人男性の一人暮らしく、しかも勤務がシフト制なのか、朝晩それなりの時間に玄関を開閉する音がするわけではなかった。
初めて顔を見たのは入居して数日後の休日のことだった。

「あ、こ、こんにちは…」
「ああ、お隣の。よろしくお願いします」

昼下がりの玄関で顔を合わせたのは、黒髪のロン毛をハーフアップにしたスウェット姿のデカい男だった。
この人がお隣さんか、と思うと同時に、ついじっと観察してしまった。

「洗濯を…」
「え?」
「洗濯を夜にすることが多くて。今まで特に注意されたことはないんですが、煩いようだったら言って下さいね」
「あ、はい。たぶん大丈夫です、俺も夜遅いほうなんで…」

それはよかった、では。と言って、男は会釈をすると自分の部屋に入っていった。
デカい、ゴツい、チャラい。丁寧に挨拶をしてくれたが、正直その三拍子が俺の第一印象だった。
まぁそれでも、名前は知らないが、玄関先やエレベーターで顔を合わせれば挨拶をする。そういう普通のお隣さんだ。
何の仕事をしているのか知らないが、見た目より普通の人だよなぁ。と、その認識にヒビが入ったのはお隣さん暦も6年目に差し掛かった春のことだった。


決算明けの始発で帰宅した土曜日の朝、1103の部屋の前に、男ではない人影があった。

「こんにちは」
「ど、どうも…」

あれ、お隣さん引越ししたっけ?と、思いながら殆ど反射的に挨拶を返す。
ドアの前にいたのは女の子で、私服だったけど多分16、7歳くらいの高校生っぽい女の子。
呆気にとられている間に「いらっしゃい」という声で隣の扉が開き、彼女は「お邪魔します」と挨拶をして入っていった。

「今の声は…」

いつものお隣さんだよなぁ。
え?彼女?まさかぁ。お隣さんの年齢は知らないが、5年前の入居時に既に成人男性だって聞いていたんだから、少なくとも25歳はまわってる。
女の子のほうはどう見ても未成年だったし、親戚の子かなにかなんだろう。うんうん。

「あ、はいもしもし、えっ!マジすか!?」

会社用のスマホが鳴って、決算作業後のミスが見つかったと連絡が入った。
俺は溜め息をつきながら踵を返し、エレベーターで階下へと降りた。


その子を見る頻度は、案外高かった。
次に顔を見ることになったのは二週間後、俺がDVDをレンタルして休日を満喫しようとしていた日曜日の昼下がりのことだった。
エレベーターで11階まで上がり、ポンというお馴染みの到着音とともにエレベーターの扉が開いたとき、丁度目の前のもう一台のエレベーターも11階で止まっていた。
エレベーターを出て通路を見ると、俺の先をこの前の女の子が歩いているのが見えた。
その子はてくてく歩いて1103の部屋のインターホンを押す。ほとんど間をおかずに扉が開き、中からいつものお隣さんが顔を出した。

「いらっしゃい」
「お邪魔します。今日はチーズケーキ買ってきたんです」
「いいね」

彼女はひょこっと持っていた箱を持ちあげ、お隣さんはそれを受け取ると身体を半分引いて彼女に部屋へ入るように促した。
親戚の子、か?と思って気づかれない程度に見ていると、お隣さんの視線がすっと上がって俺とばっちり目が合った。やばい。
お隣さんは人の良さそうな笑顔を俺に向け、軽く会釈をして扉を閉じる。
俺はそそくさと足を進め、自分の部屋に引っ込んだ。なんか見てはいけないものを見てしまったような気分だった。

借りてきたDVDを再生しつつ、俺の耳はすっかりお隣さんの動向を探っている。
いや、親戚の子って感じじゃなかっただろ。絶対。

脳裏に援助交際の文字が浮かび、いやいやそんなまさかと頭を振る。
確かにお隣さんはバリバリにピアス開いてるし遊んでそうだが、こんな身近に援助交際があってたまるか。そもそもあの見た目で遊んでいるなら遊び相手なんていくらでもいるだろう。わざわざそんな犯罪に手を染めるわけがあるまい。
壁の向こうからは、時折笑い声が漏れ聞こえる。
耳障りな感じじゃなくて、穏やかな感じだ。


翌月曜日、俺は珍しくエレベーターでお隣さんと一緒になった。
今日も黒髪のロン毛をハーフアップにして、全身黒尽くめの服を着ている。スーツを着ているところも何度か見たことはあるが、だいたいスーツじゃなくてこんなかんじの黒い服を着ていることが多い。

「すみません、昨日は騒がしくして」
「あ、いや、全然」

いやそれは本当に全然大丈夫なんだけど。
昨日は結局映画に熱中しているうちに女の子は帰ったのか、いつの間にか声は聞こえなくなっていた。

「これからお仕事ですか?」
「あ、はい」

特別知っているわけでもない隣人と話せるようなスキルなく、俺はすぐに黙ってしまう。
なんか気まずいな。と思って必死に話題を探し、口からやっと出たのは長年の疑問だった。

「あの…お仕事は何されてるんですか?」
「高専で教師をしているんです」
「そうなんですね。僕は通信関係のエンジニアなんです」

俺は思わず聞かれてもいない自分の職業を口走り、エレベーターの中がなんともいえない空気になる。
コウセン…あ、高専か。耳慣れない言葉に漢字変換が少し滞る。この見た目で教師なのか、と失礼なことを考えながら、随分遅い時間に帰って来ることも多いようだし、やはり教職は大変なんだなと変に納得をする。

「そうなんですね。手に職ついてるのは羨ましいな」
「はは、手に職ってほどでは…」

そうこうしているうちにエレベーターが1階につき「私はこっちなんで」と言ってお隣さんは駐車場のほうへ足を向けた。
乗り込んだ車が高級セダンで、俺は本当に教師か?と失礼なことをまた考えた。


事態に動きがあったのは、その一ヵ月後だった。
会社で狙っていた同期の女子社員が営業のイケメンと付き合っていることを知り「イケメン滅するべし」と唱えて半日の休日出勤を終えた土曜日、11階の廊下をとぼとぼ歩いていると、背後でエレベーターの到着を知らせる音がした。

「あっ…わわっ…!」

その直後に女の子の焦ったような声がして振り返ると、お隣さんの家に出入りしている推定女子高生が盛大に鞄の中身をぶちまけていた。

「大丈夫ですか、手伝います」
「あっ、すみません…」

彼女の前に屈み、散乱した荷物を集める。シャープペンとか消しゴムとかそういう普通の学生が持っていそうなものばかりだ。
ちょこちょこ集めて、他に遠くまで転がっていないかと確認していたとき、またエレベーターの到着を告げる音がした。
エレベーターから姿を現したのは、普段よりラフな格好に身を包んだお隣さんだった。

「ナマエ、大丈夫?」
「あっ、夏油先生!」

ん?先生?
いまこの子先生って呼んだよな?

「荷物落としちゃって、あの、お隣の方に手伝っていただいたのでもう大丈夫です」
「ああ、そうなんだ。すみません、ありがとうございます」
「えっ!あ、いえ全然!」

いつもの人の良さそうな笑顔で会釈をされる。
俺はパッと立ち上がり、ブリキの人形がごとく不自然な動きで回れ右をした。

「じゃあ僕はこれで…」

脳裏に一ヶ月前浮かんだ援助交際の文字が鮮やかに蘇る。
先生って、教師ってことか?え、お隣さんって高専の教師っていってたよな。まさかそこの生徒?
普通ただの生徒が休みの日に教師の家に出入りするか?しかも結構な頻度で。
援助交際、未成年淫行、警察、通報。次々と頭の中を不穏な文字が駆け抜けていった。
俺はガチャガチャ自分の部屋の鍵を開けると、精一杯の笑みを浮かべて「失礼します」と言ってドアを閉める。

「いやいや、通報はまだ早いだろ…」

目の前で起きた衝撃に、休日出勤の憂鬱は吹き飛んでいた。

「あれ、完全に誤解されたっぽいな」
「誤解?私なにかしちゃいました?」
「いや、私たちは真剣交際だから問題ないよって話」

そんな会話がなされているなど露知らず、彼女はこのあとも「夏油先生」の自宅に出入りし続け、俺はふたりの関係を悶々と疑問に思ったまま月日が過ぎる。
約二年ののち、引っ越していった「夏油先生」と彼女の関係を、俺は最後まで知ることはなかった。




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