「わ、私って魅力ないんですかね!?」 すっかりお茶のみ友達になった硝子さんに、私は意を決して相談をした。 「…なんだ、いきなり…」 「それが…その…」 めでたく卒業とほぼ同時に、私は準一級術師になった。あれだけ近接戦闘の訓練をしたものの、結局術式の特性上、ツーマンセルで任務にあたることが多い。散々訓練に付き合ってくれた夏油先生には申し訳なさしかない。 違う違う、今はそんな話じゃない。 「げ、夏油先生が…その、キスを…してくれなくてですね…」 目の前の硝子さんが盛大にむせた。大丈夫かな。背中をさすると、今度は大笑いを始めた。 「はっはっはっ!そうか、うん。そうか」 一人で納得をしているようだけど、私はちっとも意味が分からない。結構真剣な悩みなんですが。 二年生の終わりからこっそり夏油先生とのお付き合いが始まって、一緒にご飯を食べたり、デートの時には手を繋いだり、前よりも距離は縮まったと、思う。 けれど、夏油先生は一度も私にキスをしてくれたことがない。 「あの夏油がねぇ。そうかそうか」 「あのってどういうことですか?…ていうか、やっぱり夏油先生ってモテてたんですか…?」 自分でしておいて何だけど、後半は愚問だ。あんなに優しくてかっこいい夏油先生がモテてないわけがない。 経験豊富でモテモテの夏油先生が、この春から付き合って三年目にもなるのにキスもしないなんて、私には相当魅力がないんじゃないか? 「本人に聞くといい」 「…それが出来ないから硝子さんに相談してるんじゃないですかぁ…」 私はテーブルの上にがっくりと項垂れた。 夏油先生とキスがしたい。私ももう今年で20歳になる。年齢云々ってワケじゃないけど、いや、ちょっとあるけど、そろそろキスくらいしてくれたって良いと思う。 約束はしていなかった日曜日の夜。「よかったら食事をしないか」と連絡を貰って、私は夏油先生の家を訪れていた。 夏油先生のマンションには時々足を運んでいる。食事をお呼ばれするのは初めてじゃないけど、昼間にあんなことを硝子さんに相談してしまったから何となく気まずい。 表札のかかっていない1103のインターホンを押した。 「いらっしゃい、ナマエ」 ラフな格好の夏油先生が扉を開けてくれた。首元が大きく開いた服装で、仕事着のときはあまり見ることのない喉仏が見えてどきどきする。 「お邪魔します」と言って上がらせてもらい、夏油先生についてリビングに向かった。十年近く引っ越していないという夏油先生の家は、意外と物が多い。 十年分なんだから当たり前なんだけど。 「今用意するから、座ってて」 そう言われ、ダイニングのイスに腰掛ける。付き合う前、夏油先生の家はきっとデザイナーズマンションのように統一感があっておしゃれの塊みたいな風なんだろうと勝手に想像していたけれど、実際のところはそんなことはなくて、片付いているけど物が多く、適度に息の出来る過ごしやすい空間だった。 「今日は出来合いのものなんだけど」 「わぁ、美味しそうですね。どこのお店のですか?」 「駅前に新しいデリが出来たって聞いたからさ、そこのをいくつかね」 ダイニングに次々運ばれてきたのは、色とりどりのお惣菜だった。 サラダにオリーブが乗ってる。美味しそう。 夏油先生と家で夕飯を食べるときは、だいたいお茶を飲む。私の前でお酒を飲むところは今のところ数回しか見たことがない。 「今日はデザートに苺のアイスもあるよ」 「ふふ、豪勢ですね。私苺好きです」 苺はもともと好きなフルーツだったけど、夏油先生に貰ってから一番好きなフルーツにランクアップした。夏油先生もやっぱり苺が好きなのかな。 二人でどこそこで可愛い猫を見かけたとか、この前公開された映画が凄くよかっただとか、そういう他愛もない話で食事は続いた。 「そういえば、夏油先生のお家でお惣菜って珍しいですね」 リビングのソファでデザートのアイスを食べ終わったあと、ふと本日の疑問を口にした。 そう、そうなのだ。夏油先生は男の人にしてはお料理が出来るほうだと思う。だから、食事をする日は夏油先生が腕を振るってくれたり、私がキッチンを借りたりすることが多い。 珍しい、と言ったけれど、急に今から「家で」と言われたのは初めてだった。 「急だったから。ちょっとナマエに聞きたいことがあって」 聞きたいこと?なんだろう。 うーん、と首を捻ってみたけど、捻っても捻っても思い当たる節がない。 夏油先生はソファに座りながら前かがみになり、自分の膝に頬杖をつくような姿勢で私をじっと見つめた。 「ナマエは自分に魅力がないと思ってるらしいけど」 「ど、どうしてそれを…」 「硝子にこっぴどくからかわれたんだ」 硝子さんなんてことを!とお門違いに硝子さんを責めてみる。けれどそんなことをしたって何が変わるわけでもない。どうしよう、いや、どうしようもない。私は正直に夏油先生に白状した。 「…夏油先生と、キスがしたくて…」 「は?」 「あの、その、付き合って三年目になるのにキスもしてくれないってことはその、やっぱり私魅力ないのかなとか、ですね、思って…」 元々自信なんてなかった言葉はしゅんしゅんと尻すぼみになっていく。ああ、恥ずかしい。こんな情けないこと言わなきゃ良かった。 ずーん、と項垂れる。夏油先生が「まったく君は」といって溜め息をついた。そうだよね、こんな子供っぽいこと言ってるから魅力がないんだ。 「…私がどれだけ我慢してたか知らないだろう?」 え? はっとして顔を上げると、夏油先生が困ったような顔で笑っていた。 「ナマエが卒業するまで待ってたんだ」 そう言って、夏油先生が私のことをぎゅうっと抱きしめた。いつもしてくれるみたいなふんわりしたのじゃなくて、もう離れることができないみたいな、そんな力強さで。 「キスしたいって、思ってくれてたんですか?」 「もちろん。君と苺を食べた日からね」 苺、苺…苺?それってもしかして、二年生、の春の? 解放されて今度は視界いっぱいに夏油先生の端正な顔が広がって、私は呼吸の仕方を忘れたように釘付けになった。 「君の唇が赤くなって、食べてしまいたいなって、ずっと思ってたんだよ」 吐息まで聞こえる距離で、いや、もう距離なんてほとんどなくって、鼻先が触れてしまいそうだった。 そのまま夏油先生との距離が本当にゼロになってしまって、夏油先生の唇がふにっと柔らかく触れた。 「どう?初めてのキスの感想は」 「えっ、あ、えと、あの…ど、どきどきしすぎて…」 もう視界も頭の中も夏油先生でいっぱいになってしまう。感想なんて求められても何ひとつ言葉が浮かんでこない。 おろおろと視線を泳がせるうち、そうだ、と言って夏油先生が私のそばを離れ、隣の部屋まで何かを取りに行った。 戻って来た夏油先生の手には小ぶりな紙袋が握られていた。 「はい。これプレゼント」 このタイミングで何故…と思いながらもお礼を言って受け取る。ロゴを見れば、野薔薇ちゃんに教えてもらったコスメブランドだった。 「リップ?ですか?」 中には小さい箱が入っていて、促されるまま開けるとピンクでロゴが入った透明のパッケージの中にメタリックの筒が透けて見えている。何度も野薔薇ちゃんと雑誌で見たことがあるデパートコスメのリップだ。 「わぁ、可愛い。頂いていいんですか?」 「もちろん。ナマエのために買ってきたんだから」 かち、とキャップを外して、くるくるリップの本体を捻り出してみる。軽やかなピンク色で、ちょっとラメが入ってるのが可愛い。こんな素敵なリップ、もったいなくて使えないや。と思っていたら、夏油先生の手が「貸して」とリップを連れ去ってしまう。 「動かないで、少しだけ口を開いて…そう、そのまま」 私はたちまち夏油先生に頬を包み込まれて動けなくされて、口を開けたままなんてちょっと恥ずかしい状態にされてしまった。 夏油先生は連れ去ったリップを私の唇に丁寧に乗せていく。唇の上をなぞっていくリップの感触なんて初めてじゃないはずなのに、夏油先生にされていると思うとどうしようもなくどきどきしてしまう。 「はい、出来た」 夏油先生はどこからか手鏡を取り出し、私に出来を確認するように言った。 鏡の中の私の唇はほんのりとピンク色になっていて、なんだか甘そうに見える。鏡の向こうで夏油先生が笑っている。 「ところで、男が口紅を贈る意味を知ってるかい?」 「え、何か特別な意味があるんですか?」 ホワイトデーのお返しの種類で意味が変わるなんて話は聞いたことがあるけれど、リップにも何かメッセージを込めるものなんだろうか。 夏油先生は私が多分それを知らないとわかっていたから、考える時間はあまり与えずに答えを教えてくれるようだった。 手鏡を取り去ってそのまま手持ち無沙汰になった私の指を絡め取ると、吸い付くみたいにキスをする。さっきと同じキスのはずなのに、どうしてだか全然違う。顔を離した夏油先生の唇に、ほんのりピンク色が移っていた。 「こうやって、何度もキスをして、口紅がなくなるまで、少しずつ取り戻したいっていう意味」 ちなみにだけど、このリップの色はキスって名前らしいよ。 そんなことまで駄目押しで言われたら、もったいなくて使えないだけじゃなくて、私はもっとこのリップが使えなくなってしまう。 だって使うたびに夏油先生のことを思い出してしまうから。 「…じゃあ、夏油先生とデートするときだけ使うことにします…」 どうせどきどきしちゃうなら、いっぺんにどきどきしてしまおう。これは妙案だ。 「ナマエ、狙って言ってる?」 「え?」 また変なことを言ってしまったんだろうか、と思ったけれど「なんでもない」と言って夏油先生は追及させてくれなかった。 次のデートは来週の金曜日。こんなに可愛いリップに似合うお化粧品なんて私持っていたかなぁ。 また野薔薇ちゃんに聞いてみようか、それとも今度は一人で選びに行ってみようかな。 |