「夏油せんせーい!」

遠くから私を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、ナマエがぶんぶんと大きく手を振ってこちらに走ってきている。
あんまり急ぐと危ないよ、と言おうとしたところで躓き、なんとか体勢を整えて転ぶことを免れた彼女は照れくさそうに頬を掻いた。

「どうかしたかい?」
「近接の稽古つけて欲しくって、最近、私任務ばっかりでみてもらえてなかったから、あの、夏油先生に時間があれば…」

いいよ。と言って、私とナマエは組手でよく使うグラウンドまで移動をする。
ちょうど誰も使っていないようで、真ん中の辺りまできて数メートルの距離をとると、構えたナマエと向き合った。

「ハイ、どこからでもどうぞ」
「行きます!」

ナマエは正面から距離を詰め、真っ直ぐ私を見据えたまま右の拳を突き出す。それを片手でいなすと、続けざまに左で下から打ち込んできた。
上体を逸らして避ければ、次は細い左の脚が綺麗に半円を描いて蹴りを繰り出す。
その足首を掴み引き上げて体勢を崩させたら、支えた両腕を軸に私の手を振り切り、ぐんと後方に回転して距離を取った。

「体幹がよくなってるね」
「ありがとうございます!パンダくんとの特訓の成果です!」

本当に、彼女は強くなった。
中学の三年生から体術の稽古を始めて、元来のセンスの良さなのか想像以上の成長ぶりだ。
まだ現場での近接には技の威力に不安は残るが、護身としては悪くない。それに関しては術式の組み合わせも含めればある程度心配いらないだろう。
動きを見極めながら分析を続ける。いなして、躱して、受けて、返す。
七、八本ほど組手をみたところで、ひゅっと頬の傍をナマエの蹴りがかすった。私は反射的にその足を内側から掴んで、払うように蹴りとは反対方向へ投じてしまった。

「わっ…!!」

まずい、と思った時にはナマエの身体が放物線を描いていて、けれども見事な受け身によって地面に大きな音を立てながら着地した。
受け身の音の大きさは体重を反映したものではなく、投げる強さを反映したものだ。咄嗟のことだったとはいえ、相当な力で投げ飛ばしてしまった。

「すまない、強く投げすぎたよ」

そう言いながら駆け寄れば、ナマエは芝の上にごろんと仰向けになり、両手を広げて大の字になる。

「はぁーっ、今日も完敗です」

すがすがしいほどの笑顔でナマエが言った。
最後の一撃は特別キレがあったな。あれは少しズレていたらまともに返してたかもしれない。

「強くなったね」
「まだまだですよ」

大の字の彼女を上から腰を折るようにして覗き込む。ナマエは連続の組手で切れたまんまの息を整えるためにすぅはぁと深い呼吸を何度か繰り返した。
手を差し出して引き起こすと、ナマエは少しよろけてその場に座り、ありがとうございますと言って立ち上がった。

「ずっと思ってたんだけど、ナマエは何でそんなに近接にこだわってるんだい?」
「夏油先生みたいになりたいからです」

私みたいに?
術式が戦闘向きではないとわかった日から、何かと近接戦闘にこだわっていることはもちろん知っていたが、その理由は予想だにしないものだった。
ナマエはパンパンと土埃を払うように稽古着をはたき、にっと笑う。

「夏油先生に助けてもらったから、私いまここにいるんです。あの日の私みたいに困ってる人を助けたいなって」

雨の中、地面から伸びる呪霊の手に引きずり込まれそうになっていた彼女を思い出す。
彼女の見据える先に、私の姿があるのだと思うと、心の奥をぐっと掴まれてむず痒い気持ちになった。

「それに私、後悔したくないから」

小さく、まるで自分自身に言い聞かせるような声だった。
後悔したくない。まったく、彼女の真っ直ぐさには恐れ入る。呪術師にはおよそ向かない稀有な存在だ。ナマエの傍にいると、学生時代の初心を忘れないでいられる。
そんなことを考えていると「そういえば」と彼女が何やら思い出したようだった。

「午前中に恵比寿のケーキ屋さんでチーズケーキ買ってきたんです。甘さ控えめなので、よかったらお茶しませんか?」
「それはありがたいね、今日は事務が立て込んでたから頭が疲れてたんだ」

ふふ、よかった。彼女はそう言って、寮への道を歩き出す。
恵比寿のケーキ屋、というのは先月苺のムースを買ってきてくれたところだろう。あれは確かに美味かった。が、バレンタインの本命としては気に入らないな。悟からきた「ナマエの手作りブラウニーだよ!去年より腕前上がってる。あ、去年も食べてない傑には関係ないか」という写真つきのメッセージは、今思い出しただけでも腹が立つ。
去年も去年で私は出張が入っていて、せっかく用意してくれたというガトーショコラに有りつけなかったのだ。
見下ろすつむじからは最近祓った呪霊のことや、昨日二年生が集まって行われた鍋パーティーのこと、それから先月末任務で行った先のしだれ梅が見事だったことなどが嬉々として語られた。心地の良い声に、私はうっとりと聞き入った。

「あ、桜だ」

そう言った彼女の視線の先に、ちらほらと咲き始めた中庭の桜があった。私が学生時代からある桜で、夜蛾学長の学生時代にもあったものらしい。
立派な枝ぶりを感心しながら見上げていると、ナマエがぽつんと言った。

「夏油先生は来年も常勤講師なんですか?」
「ああ、来年度は一応ね。でもその次は教職降りようかとも考えてるんだ」
「えっ…じゃあ高専でも会えなくなっちゃうんですね」

元々私は地方任務が多いから、非常勤講師くらいでないと充分に勤まらないとは思っていたのだ。まあ、悟に協力するのは悪くないし、高専で若い術師たちが目覚しく成長していく姿を見るのは楽しいが。

「だって」

困るじゃないか。

「ただでさえひと回りも年が違うんだ。その上先生と生徒のままじゃ、ナマエと付き合えないだろう?」

私はナマエの髪をそっと梳いて、はらりと彼女の髪に着地した桜の花びらを取り去る。
一体何が起こっているのかとでもいった顔のまんま、目を大きく見開いてナマエは少しも動かなかった。

「好きだよ」

本当は、言うのだってあと二年待つつもりでいたんだ。けど待てなかった。
この一年、君と過ごしていて、君の気持ちが私から離れてしまわないようにずるい駆け引きまがいのことを沢山してきたけれど、真っ直ぐ向かってきてくれる君に、もうこれ以上それが許されるとは思えなかった。

「ナマエ、私を彼氏にしてくれないか?」

真っ直ぐ見下ろすナマエは、初めて会った時より随分と大人びて綺麗になったと思う。
女の子は恋をすると綺麗になるというけれど、彼女が綺麗になったのが、私のせいだったら嬉しい。

「よ、よろこんで…」

まるでダンスの申し出を受ける貴婦人のような返答に、思わず声を出して笑った。状況が飲み込めないままのナマエは未だ頭の上にハテナマークを飛ばしている。
私はその細い腰に腕を回してナマエをぐんと抱き上げた。

「わっ!えっ!夏油先生!?」
「ごめんごめん、ナマエが可愛くてついね」

真っ赤になっていく顔を隠そうとしたけれど、抱き上げている体勢からでは上手に隠すことが出来ずに、結局怨めしそうな目で私のことを見るに留まった。

「卒業したら、一緒に住もうか」
「…夏油先生、いろいろ早くないですか…」
「いままでどれだけ私がナマエのことを好きでいたか、君はまだ知らないからね」

早くたくさん知ってほしくて。私はナマエを地面に降ろすと、今度は指を絡めてその手を握った。
ナマエは俯いて、足元の小石をこつんと蹴る。握る力を強くすれば、応えるようにナマエもまた、力を強くした。

「…夏油先生が私のことを好きだなんて、夢みたいです」
「夢じゃないさ」
「でも、信じられない、こんな」
「ナマエに伝わるまで何度でも告白するよ、君が私にしてくれたようにね」
「い、いいです!そんな、心臓が、破裂しちゃう、から」
「そう?遠慮しなくていいのに」

真っ赤な顔も可愛いな。私はいつの間にか、こんなにもナマエに夢中になっていたらしい。
寮までの道を並んで歩く。さわさわと桜の木が風で鳴る。
ここに愛があるな、と、柄にもなく甘ったるいことを考えていた。




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