07 にじり寄る雷鳴


大佛の教育係というのは、想像以上に骨が折れた。勤務態度が悪いとかそういうんじゃないが、とにかく現場を派手に汚すのだ。力加減を知らない。獲物が丸ノコだという時点でそこそこ覚悟はしていたけれど、木造の建築物だと間違いなく殆ど全壊までぶっ壊す。ターゲットの血飛沫は遠慮なく神々廻まで汚すし、こんなに毎度毎度現場を荒らすのはORDERでも初めてかもしれない。まぁ、コンクリートだろうが鉄筋だろうが一刀両断する篁という特殊な人材はいるけれど。

「…大佛、もうちょい現場綺麗にできんか?」
「……ごめんなさい」

注意すれば毎回しっかり謝ってくるから、なんとなく強くも言えない。現場が荒れに荒れるだけで、殺しの仕事自体は優秀にこなしているから尚更だ。

「はぁ〜、サラのシャツが…」
「服は死なない…洗えば平気」
「アホ。こんなん染み抜きしても取れるわけないやろ」

汚した張本人がいけしゃあしゃあと言うので、神々廻はそこから滾々といかに血の染み抜きが面倒なのかを大佛に説いた。血の染み抜きでお湯を使うのはNGだ。水を使い、セスキ炭酸ソーダに浸け置く。二、三時間放置した後汚れた部分を揉み洗いして普段通りに洗濯機で洗濯をする。これはあくまで日常生活でうっかり衣服に血をつけてしまった場合であって、頭から血をかぶるなんて事態は想定していない。

「ってお前、聞いとるんか?」
「だって……神々廻さん細かいんだもん…」

ふと隣を見下ろせば、あろうことか大佛が両耳を手で塞いでいた。人が真面目に話しているのに、と思ったが、腹を立てるだけ無駄と言うことも大佛と任務を共にするうちに比較的すぐ悟ったことだった。

「…とりあえず着替え取りに行くわ」
「車に積んでないの…?」
「忘れてん」

フローターに全壊した家屋を任せて車に乗り込む。運転は道を覚えさせるためにも大佛に任せていた。運転技術に関しては特筆するほど上手くも下手でもない。あの大雑把とも言える始末の仕方を見ていたから正直不安にも思ったのだけれど、それは杞憂に終わった。

「大佛、そこの道右曲がって」
「え?うん……」

殺連まで戻る道を逸れる神々廻の指示に大佛は不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞かずに神々廻の指示の通りに車を走らせる。車を走らせること20分程度、簡素なマンションの前に到着し、大佛にはそこで車を止めさせた。

「…ここ、神々廻さんち?」
「いや、ちゃうけど、ちょい野暮用や。先本部帰っといてええで」
「…野暮用…そんなに血まみれなのに…?」
「誰のせいや思うとんねん」

大佛に苦い顔をしながら、神々廻は助手席をおりると多少人目を気にしながらマンションの入口に足を向けた。大佛の運転する車が走り去る音を背中で聞く。ここはナマエのマンションだ。この部屋には神々廻の着替えが置いてある。
三階まで階段で移動すると、一番近い扉のドアノブに手をかけた。鍵はかかっているらしい。預けられている合い鍵を使い金属製の扉を開いたけれど、中から人の気配はしなかった。

「ナマエ……って、おらんのか…」

彼女だって殺連に所属するプロの殺し屋だ。人手不足で使いっぱしられて忙しなく任務をこなしている身である。家を空けていること自体はべつに珍しくも何ともないけれど、神々廻が彼女のスケジュールを把握していないということが珍しいことだった。

「邪魔すんでー」

ここまで来たのだから勝手にお邪魔して着替えだけ済ましてしまおう。彼女と自分の間柄である。今までもお互いの部屋に不在の状態で入るなんてことはよくあった。神々廻は玄関で革靴を脱ぐと、家主不在の部屋に上がりこむ。まず一番に寝室に向かってクローゼットから着替えを取り出した。脱いだほうの一式は殺連お抱えのクリーニング業者に出せばまだ着られるだろうが、それも面倒だと思ってキッチンのそばにある大きなごみ箱に放り込んだ。

「…マトモに飯食ってへんやんけ」

覗くつもりはなかったが、ごみ箱の蓋を開けたときに覗いたカップ麺の容器を見てそう溢した。実際、自分だって外食が多いしナマエがいなければ自炊はあまりする方じゃないのだけれど、そんなことを棚に上げ「まったくナマエは俺がおらんとすぐこうなるで」とでも言いたくなってしまう。
神々廻はクローゼットから取り出した一式に着替え、袖をまくってキッチンの前に立つ。食材を買ってきているわけじゃないから作り置きはしてやれないが、シンクの中で水に浸かったままになっている食器類くらい洗っておいてやろう。

「食器、洗っといたで……メシ、ちゃんと食いや…っと…」

冷蔵庫の横に下げられているメモ帳から一枚を切り取り、ボールペンでそう書いた。まるで上京した娘の様子を見に来た田舎の母のようなメッセージだ。それをテーブルの上の目立つところに置いて、ペーパーウェイトの代わりに、持ち歩いていたチョコレートの包みを乗せた。

「……はぁ〜、ホンマ俺はあいつのなんやねん」

大きく自嘲を漏らした。誰よりも近いところに立っている自信がある。だけどその代わり、ナマエには触れられない場所にいるとも思う。好きだ、と言ってしまえばいいんだろうか。そうずればこの曖昧な関係にも終わりが見えるのだろうか。

「出来もしぃひんクセになァ」

そんなこと、出来るならきっともうやってる。今まで築き上げたものを壊してしまうのが怖い、なんて、まるで十代の青いガキのような悩みに自分でも笑ってしまう。踏ん切りがつくかと他の女と関係を持ってみようとしたこともある。だけど結局ダメだった。ナマエよりも大事な存在なんて作れなかった。

『お前もいつか分かる時がくらぁ…欠点まで愛しいと思える奴に出会っちまったら、男は負けよ』

いつか言われた恩人の言葉を思い出す。当時は「何言ってんねんこのオッサン」と思ったし、自分には関係もなければ理解もできない事だと思っていた。けれど今ならあの言葉がよくわかる。

「ホンマその通りやな、四ツ村さん」

もうここにはいない恩人の名前を口にする。ひとりでここにいたら必要のないことまで思い出してしまいそうで、神々廻は書き置きをもう一度撫でるとナマエの部屋をあとにした。


書き置きを残した日の夜には、ナマエから「洗い物ありがと」とメッセージが入っていた。時計を見れば短針がてっぺんを回っている。ナマエの家に行ったのは昼過ぎだった。この時間まで仕事だったのかと「今帰ってきたんか?」と返そうと思って、不意に声が聞きたくなってしまったから通話ボタンを押してスマホを耳に当てる。

『もしもし?神々廻?』
「おん」

一度電気の振動に変えられてこちらに伝わってくるナマエの声は、肉声とは少し違って聞こえる。大佛の教育係を仰せつかって二カ月、ナマエと話していないのなんて高々一カ月程度なのに、毎日聞いていたからか懐かしく感じてしまう。

『なんかあった?』
「…いや、べつに。なんでや?」
『だって、電話とか珍しいから』

電話口でナマエが不思議そうな声を出す。確かに今までは電話はあまりしてこなかった気がする。必要があればメッセージを送ることもあったけれど、メッセージでは伝わり辛いことがあれば直接会ったときに話していた。そういう、ごく近しい距離感に彼女がいた。

「理由なかったら、かけたらあかんのか?」
『え…?』

自分でも驚くぐらい女々しい言葉が飛び出してきて、神々廻はすぐに「なんでもあれへん」と言って言葉を取り消す。何を言っているんだ、自分は。

「部屋、勝手に入らせてもろたで」
『うん。別にいーよ。着替え?』
「おん。任務で派手に汚れてん」
『うそ、怪我とかしてないよね?』
「全部返り血や」

テンポよく進んでいく会話は心地がいい。以前ならなんとも思わなかったこんないつも通りの会話がどうにもくすぐったい。開かれた距離と反比例するように引き寄せられているような、そんな気持ちになった。ナマエはどう思っているのだろう。願わくば彼女にも同じような気持ちが、少しでもあるといい。

「なぁナマエ、今度の休み──」
『ナマエ〜。あれ、電話?』

ガラにもなく休日に予定を持ちかけようとした矢先、電話口の向こう側からナマエ以外の声がした。男だ。というか、この声は南雲じゃないか。背中に変な緊張感が走る。

「…お前、家におるんとちゃうんか?」

いつもよりも何倍も低い声が出てしまった気がした。あの書き置きを見て連絡を寄越したんだから、きっと家にいるものだと思っていた。だとするならばどうして南雲の声がするんだ。まさか南雲がナマエの部屋にいるのか。こんな夜更けに、ふたりきりで。
神々廻の焦りとは裏腹に、ナマエはのん気な声で何を聞くんだとばかりに「え?」と聞き返した。

「書き置き、見たから連絡してきたんやろ」
『ああ、一回帰って南雲とご飯食べに来てるの』
「は?飯?」
『そう。結構疲れたからさー、がっつりしたの食べたいよねって話になって』

緊張の糸が切れてドッと疲労感が神々廻を襲った。「何食うとるん?」と尋ねれば『牛丼!』と元気よく返ってきた。またそんな色気のないものを、と思うが、南雲と二人きりで食事をしていて、それが色気のある店だったらそっちの方が困るとも思う。結局神々廻は「よう玉ねぎ入っとるもん食えるなぁ」と明後日の方向に相槌を打つことに留めた。

『なになに〜?電話神々廻からー?』
『そうだよ。ちょっと、邪魔しないでってば』
『えー?ナマエと僕の仲なのに』
『あーはいはい』

南雲とナマエが電話口でじゃれついているのが聞こえてくる。よくよく聞くと、確かに小さく飲食店然とした雑音が混ざっている。久しぶりにナマエに電話をしたという事実に注意力が散漫になっていたらしい。

『ねぇ、神々廻、さっきなんか言おうとしてなかった?』
「いや、なんでもあれへん。ちゃんとメシ食いや」
『はぁい』

口にしようとしていたことは引っ込めた。南雲が隣にいるなら面倒な絡み方をされかねない。神々廻の言葉に間延びしたいつも通りの返事をして、じゃあね、と電話を切る。通話を終えたスマホのディスプレイには、何とも言えない情けない顔をした自分が映っていた。


翌日、殺連本部の方に顔を出すと、エレベーターホールのところにロングコートを着た黒髪の長身を見つけた。昨日の今日で顔を合わせたくない、と思ったが時すでに遅く、神々廻の気配に気が付いた南雲が振り返る。

「あ、神々廻じゃーん。お疲れー」
「…おん」

神々廻はいつも以上の不愛想さで相槌を打った。澄ました顔で「寝不足?」なんて聞いてくるから「おん」とまた不愛想に相槌を打つと「ダウト〜」と愉快そうにニヤニヤ笑われる。

「神々廻、昨日超焦ってたねー」
「別に焦っとらんわ」
「はいダウト」

苛立ちの原因にヘラヘラそう言われて、内心「殺してやろうか」と思ったが、ここで乗ってしまっては南雲の思うつぼである。神々廻は努めて冷静な様子を装い「何がダウトや」とツッコミを入れるに留まった。

「今日は大佛一緒じゃないの?」
「非番や」

二カ月間かなり任務を詰めていたから、今日は大佛に休みを取らせている。神々廻も休んでも良かったのだけれど、事務処理が残っていたことを思い出して少しだけ顔を出すことにしたのだ。
教育係として大佛と殆ど一緒に行動している神々廻が一人でいるのを南雲は指摘したかったのだろう。しかし、それを言うなら南雲こそだ。神々廻は聞くかどうか少し逡巡し、結局それを口にした。

「そっちこそ、ナマエは?」
「今日は別任務」
「ほぉん」

別にそれをどうこう思っているわけじゃない。断じて。男の比率の高いこの業界において、ナマエが自分以外の男の殺し屋と任務に出ることは何度もあった。けれど今回に限って必要以上に気になってしまうのは、まるで変わってしまうみたいなナマエの言い草と一過性ではないペアの変更が起こり得る予感がしているからだった。

「神々廻さぁ、そろそろどうにかしたほうがいいんじゃない?」
「部外者は黙っとれ」

やたらと踏み込んでくる南雲に舌打ちをする。何を、と聞かなくともこの男が何を言いたいのかは分かってしまう。人の気も知らないで勝手なことを言ってくれるものだ。部外者に自分たちの絶妙なバランスの関係が理解できてたまるものか。

「じゃあ、当事者になっちゃおっかな〜」
「アァ?」
「わー、怖い怖い。ジョーダンだよ」

凄めば両手を挙げて降参のポーズを取って南雲がそう言った。この男の場合嘘なのかそうでないのか、本当にわからないから厄介極まりない。







- ナノ -