image

08 シックスセンスは頼れない


五条悟と名乗った男はこのあたりに住んでいるのか、初めて出会ったカフェでまま顔を見るようになった。別々の席に座ってナマエだけが気付いていることもあったし、五条がナマエに気付いて同じ席に座ることもあった。特に彼の素性は知らないけれど、知らないからこそただの茶飲み友達としては心地の良い距離感だった。

「ナマエちゃんは本好きなの?」
「ええっと…最近読むようになったのでまだまだ勉強中です」
「へぇ。なんかきっかけでもあったの?」
「やぁ…暇つぶしというかなんというか…」

恋愛を辞めたことで生まれた暇を潰す趣味を見つける活動だとは流石に言えない。濁しながらそう言えば、五条の方はそれほど聞きたかったというわけでもないのか「ふぅん」と気のない相槌を打った。

「じゃあ、どういうジャンルが好きとか、こういう系しか読まないとかはないの?」
「あー、そうですね。まだ色々模索中って感じです」
「それなら今度僕のオススメ読んでよ」

丁度いま読んでいる本も大詰めある。自分で読む本を選ぶのはまだ慣れないし、人の勧めるものを読むというのは有り難いことだ。ナマエはその提案に快く頷くと、五条が口角をニィっと上げた。

「また持って来るよ。次は待ち合わせしよう」

そう言われ、自然な流れで連絡先を交換した。今までは偶然カフェで遭遇する間柄だったし、お互い連絡先なんて知らなかったのだ。メッセージアプリに「五条悟」の名前が追加される。あだ名とかで登録してそうなタイプだと思ったけれど、そうではないらしい。


自覚があるが、ナマエは惚れっぽい。一緒に飲んで優しくされただけでバンドマンのことを好きになったし、合コンで良い感じだなと思った相手とは三軒目のバーにも行く。好きになったら盲目な方で、昔はモラハラ極まりないDV男と付き合っていたこともある。しかし何故か五条に対してはそういう気が起きなかった。答えはそれこそ分かっている。惚れっぽいけれど、浮気性じゃない。好意を寄せる相手がいれば、他の男に好意を切り売りするようなことはなかった。つまり自分の中で好意の輪郭が明確になってきているのだ。もちろん、七海建人という男に対して。

「はい、これオススメの本」

二週間くらいのち、五条と簡潔なメッセージだけでいつものカフェに待ち合わせをしてオススメの本を借りた。手渡された文庫本をぺらぺらとめくる。そこそこ分厚い文庫本だったけれど、最近七海の好きな作家の本を読みなれてきているから、この分厚さもさほど苦はないだろう。

「ありがとうございます。これ、どういう話なんですか?」
「えー、聞いちゃう?ネタバレすると面白くなくない?」
「あっ、ネタバレとかそういう意味じゃなくて、あらすじみたいな?」

うっかりネタバレをされそうになってそれを止めた。そこまでネタバレを気にする方じゃないけれど、ネタバレされないで済むならそれに越したことはない。五条が貸してくれたのは恋愛の絡むラブロマンスミステリらしい。勝手に男性はラブロマンス的な要素があまり好きではないというイメージがあったから少し驚いた。

「感想聞かせてよ」

借り物の本に傷がついてしまわないように、渡された袋のまま丁寧に鞄にしまう。読書なんて学生時代以来だったけれど、読んでみると案外面白い。時間が取れないことがネックで遠ざかっていたが、その時間は最近余るくらいあるのだ。

「男の人ってラブロマンス要素の強いやつ読むんですね」
「ナマエちゃんはラブロマンスとか興味ないの?」
「あー、最近は全然…」

気になったことを話題にして、すると五条から聞き返されるようなかたちになった。自分はどちらかというとラブロマンスは好きな方だし、映画もドラマも恋愛もののほうが好んで見ていたように思う。確立された趣味というわけではなかったから、興味が自分のそのときの感情に左右されるようで、恋愛お休み期間中だと不思議と以前よりそういう系統の作品に興味を引かれなくなった。

「ひょっとして最近失恋した?」
「え…」
「最近は全然って言うから、そういうことかと思って」

いとも簡単にナマエの行動を当てられてしまってモゴモゴと言葉を濁らせた。ここで「そうなんです」というのも新しい相手を探しているみたいに思われるだろうか。いや、そこまで深く考えて受け答えをするようなことでもないだろう。

「まぁ、そうですね。ちょっと最近恋愛とかには疲れちゃってるというか」

諸々を濁してそう言ってみた。どうしてこんな話題を振ってきたんだろう。ひょっとしてちょっと口説くような流れになったりするのか。せっかく不思議な知人が出来たと思ったのにそれはちょっと残念だ。いや、こんな美形が自分に対してどうこう思うわけがないし、それは恥ずかしい勘違いだろう。

「へぇ。そうなんだ」

少し緊張して次の言葉を待っていたのに、五条の返答は素っ気なくてとても簡単なものだった。やっぱり自分の恥ずかしい勘違いだ。それで構わないはずなのに我が儘にも少し残念なような、変に複雑な気持ちを抱えながらナマエは次の言葉を探す。

「えぇっと、そういう五条さんはどうなんですか?彼女さんとか…あ、ご結婚されてるとか?」
「僕も全然。最近は特に仕事で手一杯ってかんじ」
「そうなんですね」

彼ほどの美形なら無職でもいいから付き合いたいなんて女性もいることだろう。いや、仕事で手一杯と言っているのだから無職ではないのだろうけれど、ものの例えというやつである。

「お仕事何されてるんですか?」
「IT系のベンチャー。従業員多くないから仕事増えちゃうと中々ほかに振れなくてさ」
「そうなんですか」

ひょっとして芸能関係者かなと思っていたが、それはさすがにないようだ。IT系と一言で言ってもその幅は広いだろうけれど、そう言えば七海もIT系の企業に勤めているはずである。やっぱり時代はITなのか、と年寄りみたいなことを思い浮かべた。


数日前に七海から連絡があって、久しぶりに二人で飲みに行くことになった。毎度毎度ナマエが誘うばかりだったから、彼から声をかけてくるというのはよくよく考えれば初めてのことかもしれない。

「ミョウジ、お疲れ様です」
「お、おつかれさま…」

ただの挨拶も自分のせいでぎこちなくなってしまう。ああ、こうなるから意識したくなかったんだ。そう思ってみてもあとの祭りなのだけれど。いつものよく行く居酒屋ではなくて、今日は七海が選んでくれたスペインバルに行った。初めての店は少し緊張するけれど、バル特有の賑やかさのためにそこまで緊張せずに済んだ。

「何頼みます?」
「えぇぇ、目移りしちゃうなぁ…パエリアは絶対食べたいし、イベリコ豚の生ハムも食べたい…あ!マテ貝の鉄板焼きも食べたい!」

現金なもので、美味しそうなメニューと美味しそうな匂いを前にすると普段の調子を取り戻すことが出来た。定番のものも食べたいし、スペインバル独特のものも食べたい。お洒落なメニューに目移りしてしまって、視線を忙しなく動かした。

「いろいろ頼んだらいいじゃないですか」
「でも調子乗ると食べきれない気がしてさ」
「丁度良かったですね、私、今日かなり腹が減ってるんです。ミョウジが残しそうなら代わりに食べますよ」
「え、いいの?」

七海はけっこうガタイがいいし、それに違わぬ大食漢な一面もある。その言葉に甘えて勧められるまま色々と注文をした。スペインバルなんだからワインを頼もうかと思ったけれど、普段は見ないスペインのビールの銘柄がずらっと並ぶのに惹かれて、二人揃ってビールを飲むことにした。

「かんぱーい!」

ナマエが元気よくそう音頭を取れば、七海も満更でもない様子で乾杯をした。グラスに口をつける。スペインのビールはドイツや北欧と違ってピルスナーと呼ばれるホップの渋みが特徴的なビールが多いようだ。なんでも、南欧の気候に合わせてそうなっているらしい。ビールというものは概ね暑い地方に行けば行くほどサッパリとしているものが多い。スペインも御多聞に漏れずというところなのだろう。

「スペインのビールも美味しいね」
「スペインではセルベッサっていうそうですよ」

七海の豆知識を耳にしつつ、もうひとくちビールを口にする。彼のオススメはクロケータス・デ・ハモンというメニューで、見た目は一口サイズのコロッケなのだけれど、中身がじゃがいもではなくてベシャメルソースらしい。具材は生ハムらしく、その塩気とベシャメルソースのクリーミーさがちょうどあっていた。

「あっ、七海七海、これ美味しいよ!」
「どれです?」
「これ、このピンチョス!」

ナマエが指さしたのは豚肉のグリルと野菜のピンチョスだ。素材はありふれたものだけれど、調味料の具合なのか、適度な異国風の味わいは舌によく馴染んだ。七海も言われるままにナマエの指さしたピンチョスを口にして「ん、美味しいですね」と感想を口にする。

「何が違うんだろう?」
「スペイン料理はそこまで香辛料を使うわけではないと聞いたことがあります。だからオリーブオイルにこだわってたりするんですかね…」

七海にも絶妙な違いの真相はわからないようだ。当然のことだが、七海にもわからないことがあるのだと思うと不思議な気持ちになった。「七海にもわかんないことあるんだね」と言ったら「私の事なんだと思ってるんですか」と少し呆れ交じりに返ってきた。

「最近はどうしてるんですか、休日」
「え?」
「ミョウジ、休日は今まで恋人に捧げてたタイプでしょう。最近は、どうしてるのかと思って」

七海の言う通り、平素休日は恋人のために時間を使っていた。独り暮らしの恋人だったら部屋まで行って世話を焼いていたし、恋人に会うわけではなくても間接的に恋人ありきの用事をつくっては休日の時間を過ごしていたのだ。

「えっと…最近は本読んでるよ。近くのカフェ…あ、灰原さんと七海が待ち合わせしてたとこね?あそこに行ってのんびり本読んだりしてる」
「いい休日ですね」
「あ、そうそう。そのカフェで知り合ったひとにオススメの本教えてもらってね、今はそれ読んでるんだ」

ぽんっと五条のことを思い浮かべた。今日も昼間に丁度五条から借りた本を読み進めていたところだ。ラブロマンスの要素があるということにちょっと微妙な気持ちで向かったが、そういう要素も含めて読み易くて良い本だと思う。
七海を前に緊張したが、なんとか比較的いつも通りに過ごすことが出来て、その日も彼は家まで送ってくれた。エレベーターに入る直前に、この前よりも少しだけ落ち着いて「おやすみ」を言うことが出来た。


しばらくして、借りた本を読み終えたナマエはそれを返却するために五条とカフェで待ち合わせをした。彼は待ち合わせ時間より5分程遅れて店に顔を出して、いつも通りにホイップクリームたっぷりのココアを手にナマエの向かいに座る。

「ナマエちゃんお疲れサマンサー」
「五条さんこんにちは」

彼は今日も異様なほど長い足を少し煩わしそうに組みながらココアを口にする。ナマエは鞄から丁寧に袋に包んだ文庫本を取り出してテーブルの上に置いた。

「貸していただいた本、すごく面白かったです。ありがとうございます」
「結構読み易かったでしょ」
「はい。本読み慣れてない私でもすらすら読めました」

彼がどれくらい普段から本を読むのかは知らないけれど、自らオススメを申し出るだけあって色んな本を読んでいるのかもしれない。読書初心者の自分にあわせてこれを選んでくれたのだとしたら相当読んでいるんだろう。

「最後の伏線回収のところなんかびっくりして、思わず遡って確認しちゃいました」
「あー、この叙述トリックすごいよねぇ」

五条が袋から文庫本を取り出し、該当の巻末近くのページを開いて指でトントンと指し示す。彼はそれから「じつは、これ僕もオススメされて読んだ本なんだよね」と言った。なるほど、それはそれでなんだか読書の我が広がってるような感じがして面白い。

「そんでもって今日は僕にこの本勧めた本人を呼んでるんだけど──」
「え?」

思わぬ方向に五条の話が流れて行って、え、と頭の上に疑問符を浮かべる。勝手に何してるんですかと怒りたいほどではないが、五条の読書仲間らしき人物を紹介されてどうしろというんだろうか。そう思っていた矢先に背後でカフェのドアベルがカランカランと小さく音を立てる。

「五条さん、一体なんですか、休みの日まで部下を呼び出して──」
「僕んとこの凄腕エンジニア、七海建人くんでーす」

ナマエは五条の紹介とほぼ同時に振り返って目を丸くした。カフェに入ってきた張本人も同じくらい、いや、ひょっとするとそれ以上に驚いているかもしれない。見慣れた金髪にガタイのいい長身、青と緑を混ぜた瞳がナマエを見つめている。

「えっ、あれ、七海…!?」
「ミョウジ!?」

なんで彼がここにいるのか、どうしてナマエが五条と一緒にいるのか、お互い疑問に思っていることは明白で、頭がパンクしてフリーズする二人を五条がニコニコと見つめながらココアを口にした。



- ナノ -