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09 三角地帯、第四週


後悔というものは、後になって悔いるから後悔という。読んで字のごとし。それ以上でもそれ以下でもない。そんな取り留めのないことを、まさに自分の発言に後悔しながら七海建人は考えていた。

「七海ぃ、お前のこと紹介してくれって言われてんだけどさぁ」
「…どこのどなたにですか?」
「△△テクノの敏腕女社長」
「仕事ではないなら丁重にお断りします」

紹介してほしいと言ってきたのが女性だということに引っかかってそう口にする。べつに差別でもなんでもないが、恋愛対象的な意味をはらんで紹介してほしいと言ってくるパターンは今まで何度も遭遇した。

「結構美人だよ?僕のタイプじゃないけど」
「別に五条さんの好みは聞いてませんが」

その敏腕社長が美人だろうが何だろうが、こちらとしては興味がない。恋愛の良さは元々よくわからなかった。他人と深く関わるということは、自分のペースが乱れるということだ。そうなってもいいと思えるほどの人間に出会ったことはなかったし、学生時代はそれこそ深く考えない恋愛もしたことがあったけれど、大人になればなるほど億劫になってしまう。

「七海ってずっと彼女つくんないよね」

つくづくプライベートに土足で踏み込んでくる人である。七海は無遠慮な態度にフーッと息を思い切りついた。恋愛に億劫なタイプだというのもあるが、ここ最近はそれだけではなくなっていた。自分のナマエに対する感情がしっかりとした輪郭をもってかたちになったからだ。

「七海モテるのにもったいなー」
「モテたって好きな人から好かれなきゃ意味ありませんよ」

ぽろっと本音が漏れた。それがよくなかった。はっとして口を噤んでももう遅い。目の前の男はにんまりと顔を歪め「へぇぇ?」「ふぅぅん?」と面倒くさそうな空気を放ちながら七海のことをジロジロと観察した。

「……なんです」
「好きな子、いるんだなって思って」

図星を突かれてもう一度フーッと腹の底から息を吐き出した。完全に要らない情報を与えてしまった。他人を玩具にすることが大好きな彼のことだ。ここをスルーしてくれるとは思えない。案の定、相手の名前は、年齢は、写真はないの?と無遠慮に踏み込んできて、それをどうにかこうにか振り払って自分のデスクについた。こんな人が自分の雇用主なのを時おり憂いたくもなるが、こんな調子でも経営の手腕と技術はピカイチなのだ。五条悟、七海の勤めるIT系ベンチャー企業の代表取締役社長である。


その後、これ以上ボロを出さないようにするぞ、と心に決めていたのに、ナマエを飲み会から送る帰りを目撃され、あっという間にナマエのことを特定された。仕事中に「こないだ一緒に歩いてた女の子が本命?」と唐突に言われたときは持ってたタブレットを落としそうになった。
こうなると隠すより話してしまうほうがいい。勝手に調べられたら気分が悪いし、牽制しておく方が賢い。

「ミョウジさんという女性です。大学時代同じアルバイトをしていました。好意はあくまで私の一方的なものですので、変な茶々入れは絶対にやめてください」
「僕、信用なさすぎない?」

代表取締役に対して、なにも最初からこんな態度だったわけではない。彼とは大学時代に面識があり、そもそも五条悟という人は学生時分に起業した学生起業家として大学でもちょっとした有名人だった。いろんなすったもんだの末に最初に就職した会社を早々に辞め、五条に誘われて彼の会社に入社した。信用してるし信頼しているが、尊敬はしていない。そんなところだろう。

「七海の好きな女の子ねぇ。どんな子か興味あるなぁ」
「本当に余計なことするのはやめてくださいよ」
「えー、だってシャチョーとしてはジューギョーインが健全な私生活送れてるか知っとくべきじゃない?」
「何馬鹿なこと言ってんですか。コンプラ違反ですよそんなの」

まさか本気では言っていないだろうが、興味本位で探りを入れてくるくらいなら彼の性格と自分と彼との関係性からいってあり得ないとは言えなくない。今は何より微妙な時期なんだから、外野はそっとしておいてほしい。七海の態度で真剣さが伝わったのか、面倒な詮索をされることはそれ以降なくなった。


ある日、終業後にデータをまとめていると、手持無沙汰なのかこんな話題を振られた。

「ねぇ七海、読み易めのミステリ知らない?」
「は?」
「ミステリ小説。七海好きでしょ」

五条は経営者としてそれなりに読書はしているが、あまり娯楽として読書をしているという記憶はない。何か気分転換でもしたいのかと思って今まで読んだ本の中から読みやすいミステリを脳内で検索する。その途中に「ラブロマンスっぽい要素あるやつで」とらしくない注文を付けられた。彼はラブロマンスなんて映画でもドラマでも見ないはずなのに、また妙な注文だな、と思ったが、まぁそういうミステリもないわけではない。

「…これなんかどうです?」

七海はスマホで該当の書籍を検索した画面を見せる。五条はそれを覗き込んでふんふんと著者と作品名を記憶していた。どういう風邪の吹き回しかはわからないけれど、まぁ彼にもそういう息抜きをしたい日があるのだろう。この時すでに五条の手の中だとは、知る由もなかった。


休日、今日はこれといって用事があるわけではないから、気合を入れて部屋の掃除をしようと意気込んだ。あちこち掃除できることで有名な中性マルチクリーナーでも買って、普段は出来ない窓のサッシなんかまで掃除してもすっきりできていいかもしれない。
この前はナマエをスペインバルに連れて行った。ああいう小洒落た店に二人きりで行ったのは初めてかもしれない。ナマエを意識させようというちっぽけで小賢しい策の一つだった。

「……五条さん?」

そんなことを考えていると、不意にプライベート用のスマホが鳴った。誰かと思えば上司の五条からだった。仕事用のスマホに連絡を入れてきたわけではないのだからプライベートの用事なのだろうと思うけれど、そういうことは早々ない。
ちょっと今から出てこれない?とメッセージが入っていて、さてどうするかと考える。まぁ今日は特定の用事があるわけでもなかったし、来てほしいと指定されたカフェは自分もそこそこ行くカフェだし、コーヒーを飲みがてら外出するのもいいだろう。そう思い、五条には是の返事をして身支度を整えると、待ち合わせ場所に指定されたカフェに向かった。そのカフェというのは、灰原とも待ち合わせしたナマエの生活圏内にあるカフェである。七海の自宅からも近く、コーヒーもケーキも美味いから重宝していた。
木製のドアを開けは、カランカランと軽やかにドアベルが鳴る。目立つ彼はすぐに見つかるから、店内をキョロキョロ探す必要もない。すぐにその背中を見つけて歩み寄った。

「五条さん、一体なんですか、休みの日まで部下を呼び出して──」
「僕んとこの凄腕エンジニア、七海建人くんでーす」

お道化た口調で五条がそう言った。何の話だ、と思うのと同時に五条の目の前の椅子でこちらに背を向けていた人物が振り返った。その顔に見覚えしかなくて唖然と口を開けて言葉を失う。

「えっ、あれ、七海…!?」
「ミョウジ!?」

なんで彼女がここにいるんだ。ピタリと動きを止めること数秒間、七海の脳裏に過ぎっていたのはスペインバルで彼女から聞いた「カフェで知り合ったひとにオススメの本教えてもらっている」という旨の発言である。まさかその知り合った人というのが五条だなんてことは信じたくないが、五条がテーブルの上に置いていた文庫本が先日彼にオススメしたタイトルのものだったからもう殆ど答え合わせだった。

「五条さん、状況をご説明いただいても?」
「ん?七海に教えてもらった本をこの子にも教えて、気に入ってくれたからご本人紹介しようかと思って」

そんな話を真に受けてたまるか。この男がまさか七海の想い人なんて面白いネタを忘れる訳がない。余計なことをしてくれるなと言った日から興味をなくしてくれたのかと思ったけれども、むしろ逆だった。自分で勝手にやるつもりで七海に尋ねて来なかったのだ。

「まぁ七海、カフェで突っ立ってんのも迷惑だから注文して座れば?」
「…店の迷惑とか考えられるひとだとは思いませんでした」
「ひっどぉ。それが社長に対する態度?」
「今は就業時間外です」

言葉の応酬を続けながら、店の迷惑だということは確かにその通りなので大人しく五条の言葉に従った。ナマエはまだ状況を理解していないようで、先ほどからぽかんと成り行きを見守っている状態である。とりあえずカウンターでブレンドを頼み、それが出来るまでの間にどう話をしようかと頭の中を整理した。その間に背後でナマエが口を開く。

「あの、五条さんって七海の会社の社長さんなんですか?」
「ん?まぁね」
「えぇっと…今日七海のこと呼び出したのって偶然、ですか?」

本を紹介したという紹介元の男を単純に呼び出して会わせたかったのか、そうではなくてナマエと七海が知り合いだと分かっていて呼び出したのか。どっちにしろなんで呼び出したんだと聞きたくなるが、前者と後者のどちらなのかは知っておきたいところだろう。

「さぁ、どうだろうね」

どうせはぐらかすだろうと思ったけれども、やっぱりはぐらかされた。そうこうしているうちにブレンドが用意され、それの乗ったトレイを持って二人のテーブルに移動すると五条の隣に腰かける。そしてそのまま五条にじろりと視線を向ける。

「急にミステリを紹介しろと言うから何かと思いましたが、ようやく謎が解けました」
「ミステリだけに?」
「別に上手いこと言ったつもりはありません」

全くああ言えばこう言うというか、本当に人間をからかうことを趣味にしている困った人だ。七海の責めるような視線などもちろんお構いなしである。

「ナマエちゃんの疲れが癒えるように僕なりに頑張ってたんだよ?」
「ミョウジに迷惑かけるのだけはやめてくさだいよ。余計なことしないでくださって言いましたよね」
「相変わらずズケズケ言うね〜。まぁいいや、僕そろそろ次の予定入ってるし帰るよ」

普段通りの傍若無人さでかき回すだけかき回して自分はとっとと退散するつもりらしい。普段であれば後始末だけを他人に丸投げするなと言うところだけれど、今日のケースに限ってはこれ以上余計なことをされたくないから早々に退散して頂いて結構だ。残りのココアを飲み干して、五条はナマエに「ナマエちゃんまたね」と言って店を出て行った。いつの間に名前で呼んでるんだ。

「あ、あの、七海?」
「…うちの社長がご迷惑をおかけしました」
「う、ううん、全然。七海のとこの社長さんだなんて知らなかったからびっくりしたけど…あ、私が言ってたカフェで知り合った人って五条さんなんだけどね」

ナマエが周回遅れの答え合わせのように口にする。推測するにこうだ、五条がナマエのことを探してこのカフェにあたりをつけ、偶然を装って話しかけた。ナマエの最近の趣味が読書だと聞き、ロクに小説の類いを読まない五条は七海にオススメを聞いてそれをナマエに紹介していた。ただの好奇心なのかお節介なのかはわからないが。

「七海、五条さんと仲良いんだねぇ。なんか普通の社長と社員ってかんじじゃなかったし」
「大学時代の縁がありますから。まぁ、業務中はあそこまで砕けて接してませんけど」

起きた事態を冷静に飲み込めたところで、今度浮上してきたのは五条がナマエに余計なことを言っていないか、それから惚れっぽい恋愛体質のナマエがまさか五条に対して特別な感情を抱き始めていないかということだった。

「五条さん、面白いね。こないだ知り合ったばっかりなんだけど、なんか昔からの知り合いみたいな感じで喋れちゃってさ」

ナマエがにこにこと楽しそうに五条のことを評し始めた。これは不味い流れだ。五条悟という男は悪質極まりない悪戯をしてくるし成人男性かどうかを疑うほどの我が儘を平気で口にする男だけれど、経営の手腕は間違いないし何より顔面がハイブランドのような男なのだ。うっかりナマエが五条に惚れてしまうなんてことは充分すぎるほどある。

「ああいう人と付き合ったら毎日楽しそうだよね」
「ダメです!絶対に!」

案の定ナマエが世にも恐ろしいことを言い出して、七海は咄嗟に強い言葉で止める。当然ナマエは頭の上にハテナマークを飛ばしながら「え?」と小首をかしげる。どうにか引き止めなくては。

「あの人はアナタの歴代ダメ男の中でも群を抜いてナンバーワンになりますよ!間違いなく!」
「そんなに?」

七海のあんまりな言いようにナマエが面白いものを見たとでもいうふうに笑った。確かに今の発言はあからさまに自分らしくない。だけど自分らしさなんてナマエを前にしたら、かなぐり捨ててでも走り出したくなってしまうのだ。



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