魚心あれば水心


メールアドレスも電話番号も教えたわけではないのに、どうしてだか眼帯のゴローという男とは神室町を訪れるたびに遭遇した。少し立ち話をする程度のこともあれば、以前のように飲みに連れて行ってくれるときもあった。
相当酒は強いようで、彼が酔うところはあまり見たことがない。ナマエも実は一般的には強いほうなのだけれど、彼とはまったく比にならなかった。

「阿呆ちゃんはホンマに酒強いのぅ。その辺のキャバの姉ちゃんと比にならんで」
「そうですか?」

恐らくそういう店に慣れているのだろう彼が言うのだからそうなのかもしれないが、そもそも自分よりも何倍も強い彼に言われてもあまりピンと来ない。男はロックの焼酎を何食わぬ顔でぐいっと煽り、店員に早速「おんなじの持ってきてやぁ」とお代わりを注文していた。


神室町へそれなりに足繁く通うようになった。最初はあまりにも自分と無縁なこの街を恐る恐ると歩いていたものだが、多少はネオンだらけの光景も多少見慣れてきた。夕飯を食べよう、飲みに行こうというだけなら、勿論自宅の近くでも、他の繁華街でも構わないはずだ。それなのにここにわざわざ足を運んでしまっているというのは、そろそろ言い訳のしようもなくなって来てしまった。

「いや、会いたいとかそういうんじゃ…」

脳内会議を繰り広げながら「違う違う」となんとか否定しようとする軍勢を応援する。ギラギラと輝く神室町の象徴のひとつというべき天下一通りを門を潜ったところだった。

「こんばんはー、お姉さん綺麗だね!」
「えっ」
「綺麗すぎてびっくりしたぁー!向こうの通りからでもキラキラしてるからすぐわかったよ!ひょっとしてモデルさん?あ、神室町よく来るの?」
「あ、いえ、その…」

軽い男の声に呼び止められて思わず足を止めてしまった。ホスト風のちゃらちゃらとした男だが、この街ではよく目にするタイプの住人である。こちらの都合もお構いなしで続けられる上っ面だけの会話に「キャッチだ」と気が付いたときにはもう遅くて、行く手を阻まれるように前に立ち塞がれて「夜のお店とか興味ない?あ、もうどこか所属してる?」とセールストークを展開し始める。

「いや…あの、結構です…」
「そんなこと言わずに!ね!体入だけでいいからさ!」
「た、たいにゅうぅ…?」
「体験入店!ちゃんと日給も出るから!ね!ほら、行こ!」

あわ、あわ、あわ、と焦っていると、男はナマエの背中をぐいぐいと押した。押しに弱い性質は昔からで、逃げるタイミングを逃して、あわやこのままその店とやらで体験入店させられそうな流れに持ち込まれた。

「あの!こ、困ります…!私そういうつもりは少しも…!」
「いいじゃんいじゃん。稼げるし楽しいよ!ホラ!どこの店にも入ってないんだったらウチで──」
「あらミーちゃん、お遣い頼んでたのにこんなところで何してるの?」

バタバタしているうちに、ふと、綺麗な女性の声が割って入った。ミーちゃんなんて可愛らしい名前の男がこのキャッチの中に存在するのか、と思って声のほうを見ると、声だけではなく見目もずいぶんと美しい女性がにっこりと温和な笑みを浮かべて立っている。

「お兄さん、うちの子に何かご用だったかしら」
「えっ…ああ、いやぁ…アハハ、もう働いてらっしゃったんですねー!」
「ほらミーちゃん、お店開ける準備手伝って頂戴?」

男は歯切れが悪くなり、今度は女性がナマエに向かってにっこりと笑いかけた。あいにくとこんな美人の知り合いはいない。そうか、彼女が自分に助け舟を出してくれたのだ、と理解して、ナマエは「は、はい」と返事をする。美人女性が「失礼しますね」と有無を言わせないきっぱりとした口調で男に言いっぷりで口にしてから踵を返すので、ナマエも彼女のあとについて行った。男は追って来なかった。近くのビルのエレベーターホールに向かって、エレベーターを待つ間ナマエは助け舟を出してくれたのであろう隣の女性にちらちりと視線を向ける。

「大丈夫だった?結構しつこいキャッチみたいだったから、お節介かと思ったんだけど声かけちゃった」
「ありがとうございます。ああいうのに声かけられたことなくってどうしたらいいか困ってたところでした」
「良かった。じゃあ、ほとぼりが冷めるまで私のお店で休んでいくといいわ」

ナマエはぺこりと頭を下げる。やはりこの女性は自分を助けるために出まかせを口にしてあの場を誤魔化してくれたようだ。到着したエレベーターに乗り込んで連れてこられた店は「セレナ」という高級クラブで、彼女はここを経営しているママであるらしい。

「私は麗奈。ここでママやってるの。お店は最近常連さんが来るときしか開けてないから、安心して」
「ミョウジナマエです。ありがとうございます」

店内は落ち着いた内装で、テーブル席の他にカウンター席があり、カウンターの背面には酒の瓶が丁寧に並べられている。営業時間外だからか、特にこれといった音楽が流されているわけではないようだった。麗奈はナマエにカウンター席に座るように言うと、ビアグラスに水を注いで手渡してくれる。

「麗奈さんかっこよかったです。私もうどう言って逃げたらいいのか全然わからなくて…」
「ふふ、私もこの街長いから。ああいう手合いには慣れてるの」

さすがは神室町のこんな一等地に店を構えているだけのことはある。しかも随分な美人だし、キャッチなんかの面倒な相手なんて日常茶飯事なんだろう。麗奈はグラスの整理をあれこれとして、それからナマエに視線を向けた。

「あら…ひょっとしてあなた、最近真島さんと一緒にいる女の子?」
「まじまさん…?」
「ほら、真島組の組長の真島吾朗さん。この前泰平通りのほうで一緒にいるところを見かけと思ったんだけど…ほら、眼帯の男のひとと一緒にいなかった?」
「えっ!あ、い、いました…!」

真島、と聞いたことのない名前に「誰だ?」一瞬思ったけれど、真島に聞き覚えがなくても眼帯の男には大いに心当たりがある。ゴローさんのことだ。あの人真島吾朗って名前なのか、とこの時初めて知った。それと同時に聞き捨てならない言葉もあった気がする。

「あの…ゴローさんのこと、いま組長って…」
「ええ、東城会の真島組の組長さんでしょう?あら、ナマエちゃん知らなかったの?」

知らなかった。さすがにあのいで立ちや関西のヤクザの事務所でのことから極道者であることは分かってはいたが、組長というとそれなりに偉い立場の人間なんじゃないだろうか。オーラのある人だとは思っていたが、案外気さくなあの様子から、さすがにそんなに偉い人だとは思ってもみなかった。

「く、組長さんってとっても偉い人…ですよね?」
「え?えぇ…まぁ…私も詳しくはないけれどね。それなりの人数をまとめてるっていうんだから、凄い人だとは思うわよ。ほら、まぁ、組の大きさ?なんかにもよるとは思うけれど…」

麗奈が最後は少し濁すようにそう言った。この街が長いというのなら、そういうことにも自然に詳しくなっているのかもしれない。濁すような雰囲気だったし、これ以上この話題を長引かせても仕方がないと思って聞くのはやめた。


セレナで匿ってもらってからその日はさすがに神室町の中に入るのは諦め、大人しく帰宅した。それから数日たった土曜日、今日は出鼻を挫かれないように街を歩くぞ、と意気込みながら神室町を訪れる。毎度毎度悪質なキャッチに絡まれるということがあるわけでもない。キャッチに捕まっても無視したりそれなりにあしらえばあの日のように面倒に食い下がられるということはなかった。泰平通りまで進んで、なんとなく彼との遭遇率の高い東側のエリアに足を踏み入れる。

「おう、阿呆ちゃんやないか」
「あ、ゴローさん!」

聞こえてきたのは彼の声だった。やった、今日は会えた。と弾んでしまう気持ちが顔に出てしまわないようになんとか抑え込んだが、彼には「何やずいぶん嬉しそうにしてくれるやないか」と簡単に見破られてしまった。
それから流れで今日も一緒に飲めることになり、いつもの彼の行きつけの居酒屋に入ってあれこれと注文する。運ばれてきたジョッキで乾杯をした。すいすいと飲んで三杯目のジョッキを空にしたころ、先日セレナで彼のフルネームを聞いたことを思い出した。

「あの、そういえば、ゴローさんって真島吾朗さんっておっしゃるんですね」
「あ?せやけど…どっかで聞いたんか?」
「はい。たまたま助けてもらったクラブのママさんがゴローさんのこと知ってたみたいで」
「ア?助けたってなんやねん」

麗奈に名前を聞いたということよりも真島はそこが気になったようで、ナマエは数日前に遭遇した悪質なキャッチの話をした。真島の眉間のシワが深くなる。何か気になったことでもあったのだろうか、とのんびり構えていると、彼はテーブル席の隅に置いてあるショップカードを手に取ると、アンケート記入用かなにかのために設置されているボールペンでそこにサラサラ何かを記入した。

「ほれ、俺の連絡先や。またなんぞ絡まれるようなことがあったらかけてきぃや」
「えっ…あ、ありがとうございます…」
「阿呆ちゃん隙多そうやしなァ。どうせそのうちまた絡まれるやろ」

受け取ったそれには11桁の数字が随分と綺麗な文字で書かれている。彼の電話番号だろう。真島の自分に対する評価は誠に遺憾だが、今はそれよりもこの連絡先が自分の手の中にあるということにドキドキと心臓が鳴っていた。

「あの、絡まれてなくてもかけて良いですか?」
「ア?」
「えっと、ホラ、いまはフラッと来たとき偶然ゴローさんに会えたら良いなって感じだから、約束、とか…できたら…」

そこまで口にして、これじゃまるでデートにでも誘っているみたいじゃないかと思って言葉が尻すぼみになっていく。いや、ナマエが勝手にそう感じてしまっているだけで、彼からしたらちょっとした酒のみ友達からの飲みの連絡くらいでしかないのかもしれないけれど。吐き出した唾が飲めるわけでなし、ナマエは口にしてしまった言葉をどうすればいいのかとモゴモゴ唇を擦り合わせる。ヒヒッと彼に笑われて、余計に恥ずかしくなってしまった。


それから真島と連絡を取り合うようになった。真島からの返信の時間は概ね夜が多かった。想像よりも彼はマメで、メールを送ればそれなりの頻度で返信があった。返信があったら飛び上がるほど嬉しかったし、なかなか返ってこないタイミングではソワソワしてしまって仕方なかった。
意外と気さくなところ、字がとても綺麗なところ、マメなところ。見た目や第一印象からは想像できなかった彼の隠された部分を知るたびに、上辺だけだった興味はどんどん本物に変わってしまった。

「おう、阿呆ちゃん。今日飯行かんか?」
「い、行きます…!」

電話がかかってきたら一も二もなく誘いに乗って、今までは偶然会うしかなかったのが連絡を取れるようになったから食事に行く頻度も上がった。いつもの居酒屋だったり彼のお気に入りの焼肉屋だったり店はいろいろだったけれど、真島と一緒ならそれで良かった。
今日もいつもの飾らない居酒屋で食事をして、会計を済まし、さてそろそろ帰ろうかと店を出た。真島に「ごちそうさまです」といつも通りにぺこりと頭を下げると、普段なら「おう、美味かったな」とか「ええ食いっぷりやったな」だとかと言ってくる真島が「なぁ」と普段よりも含みを持たせてナマエに声をかける。

「ナマエちゃん、このあともう一軒、バーで飲まへん?」
「えッ……」
「ええやろ?」

真島の大きな手がナマエの背中に回される。ナマエが重力に任せるかのようにこくんと小さく頷くと、普段よりも少しだけ低い声で「ほな、行こか」と言って大通りよりも暗くて細い道に足を踏み入れた。何かが今日変わってしまうのか。それとも彼の気まぐれなのか。それはまだ分からないことだけれど、ナマエの熱をどうしようもなく上げてしまうには充分すぎるものだった。



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