07 尊きアーデルフェアプフリヒテン


慌ただしく時間が過ぎていき、気がつけば正月を迎えようとしていた。流石に正月まで実家を放っておくことは出来ず、正月に合わせて帰省をする運びとなった。家の様子は変わらない。すべてのものが充分に行き届き、幸せがそこかしこから溢れている。当然のように集まった家族はナマエの久しぶりの帰省を喜んでくれた。けれどやはり、この家の中に自分の役割は残されていないように思われた。満ちている。ナマエがいなくとも、ここはもう充分なのだ。

「篤四郎は帰って来られんのか」
「対露交渉がどうにも芳しくないようです。それで緊急の呼び出しも多いのだとか…」

もはや開戦は免れないと目されている。鶴見によれば開戦したとして第七師団が動員されるのは戦況が窮してからのことらしいが、相手は大国ロシアだ。そのような状況に追い込まれることだって充分予想される。
この帰省で長兄の娘の顔を初めて見ることになった。ふくふくと丸い頬を持っていて、何ら問題なく健康に育っているらしい。すでに満ちている家に生まれたこの子供であるが、それでもこの家にしっかりとした居場所があった。必要とされる才能、というものが自分には足りていないのではないか。ここにいると、そんな気分になる。


早々に実家をお暇し、三が日が終わる日には北海道へ戻ってきた。どうなりたいか、というのをしっかり考えなければいけないのだなということをこの頃はっきり思う。自立した女性になりたいと言えば聞こえがいいが、現状はふんわりとした目標を追っているに過ぎない。

「…残念。ガレリィはお休みなのね…」

旭川に帰ってきて、いち早く日常に戻りたくてガレリィに来てみたが、あいにく休みのようだ。年明け早々から店を開けている飲食店などあるものか。
仕方なしに街をふらりと散歩をすることにした。通いの女中も正月は暇を出しているから、屋敷に戻ってもひとりきりだ。雪の降り積もるこの季節は、音が少なくなるような気がする。まるで自分だけひとりぼっちになったような気分だ。

「あれ、何してるんです?」
「え?」

不意に正面から声をかけられ、顔をあげると大荷物の宇佐美と目が合った。どうしてこんなところにいるんだろうか、と一瞬考え、彼も正月だから帰省していたのだろうと理解する。地元を遠く離れて軍に所属する彼らにとって正月は貴重な帰省の機会だ。

「あ、ひょっとして新潟からの帰りですか?ということは鶴見中尉殿もご一緒に?」
「いえ、篤四郎叔父さまは遠慮なさったのでずっと旭川におみえだと思いますけれど…」
「なんだ。はぁ、やっぱりそうですよね」

鶴見が一緒にいることを期待したらしいが、それが外れた宇佐美はがっくりと肩を落とした。それから宇佐美は荷物の中からがさごそと竹皮の包みを取り出し、ナマエに差し出した。

「えっと…?」
「笹団子です。甘いの好きですよね?」
「は、はい……」

受け取った竹皮包みの中身は笹団子らしい。道理でずっしりとしているわけだ。笹団子といえば新潟の名物のひとつである。やっぱり彼も帰省していたんだ。

「甘いもの、召し上がられませんの?」
「食べますよ。蜜豆だって食べましたよね」

じゃあなんで、とナマエは首を傾げた。彼にとってみればナマエは敬愛する上官になんだかんだと付き纏う面倒な姪であり、目の上のたんこぶだろうに。そういう態度を今まで示されてきたのにも関わらず、まるで土産のようにこんなものを渡してくるなんて。

「兵営に持ち返っても他の連中の餌食になるだけですから」
「あ、ありがとうございます…?」
「屋敷まで行く手間が省けましたよ。それでは」

宇佐美はさっさとナマエの隣を抜けて兵営の方に歩いていってしまった。去り際、聞き捨てならないことを言われた気がする。屋敷まで行く手間が省けた、ということはつまり、彼はこの笹団子を屋敷まで届けるつもりだったのか。
いや、そんなのきっと聞き間違いに違いない。そう言い訳をしているのに、首のあたりからかぁっと熱が頭のてっぺんまで上っていった。


初七日が終われば、いよいよ町はめでたい雰囲気からいつもの装いに戻っていく。ナマエは久しぶりの叔父との待ち合わせに心を躍らせながらガレリィに向かった。せっかくだからと今日はおろしたての洋服だ。

「ごきげんよう、マスタァ」
「こんにちは。鶴見さんならまだ来ていないから、いつもの席で待っているといいよ」

年末にピカピカに磨かれただろうガレリィの店内はいつもより清々しく感じられる。ナマエたちが普段利用する時間帯が混雑する時間帯を避けているというのもあるが、正月が明けたばかりだからかいつもより客足もまばらだ。

「さぁ、どうぞ」
「ありがとうございます。…まぁ、これは?」
「あいすくりんっていう西洋菓子さ。うちでも今年から始めてみようかと思ってね。これはその試作品」
「これがあいすくりんですのね…」

器に盛られて運ばれてきたのは、雪よりも黄みがかった色の白い塊だ。これはあいすくりんというもので、東京でにわかに流行りだしているらしい。ナマエも話には聞いたことがあったが、実物を見るのは初めてだった。材料の高価さもさることながら、冷やして固めなければならないというのが更にこのあいすくりんの難しいところで、それゆえに早々お目にかかれるものではなかった。

「溶けてしまうから、気を付けてね」

ナマエはいただきますと手を合わせ匙をその白の中に沈める。抵抗を感じながら掬い上げ、ぱくりと口に運べばひんやりとした甘さが広がった。なんとも他のものでは例え難い感覚だ。

「美味しい…お口の中ですぐに溶けてしまうのが不思議な感覚です」
「気に入ってもらえて何よりだよ」

そうこうと話しているうちに店のドアが開き、その向こうから鶴見が姿を現した。外套についた雪をさらさらと払い、店内に足を踏み入れる。そしてマスタァとひとことふたこと交わし、それからナマエの座る窓際に足を運んだ。

「やぁナマエ。随分珍しものを食べているね」
「ごきげんよう、篤四郎叔父さま。マスタァが試作品を下さったんです」
「あいすくりんか。懐かしいな」
「篤四郎叔父さまは召し上がったことがありますの?」
「ああ。東京でね」

かたりと小さな音を立てて椅子を引く。その間にマスタァが鶴見の前にあいすくりんの器を運んだ。

「おや、では、そのときのものとどちらが美味しいか吟味してもらわなけばいけませんなぁ」
「フフ、厳正に審査させていただこう」

叔父は丁寧な所作で匙を持ち上げ、あいすくりんを口に運ぶ。審査は甲乙つけがたく、しかしマスタァの作ったものの方が触感がいいと軍配が上がった。
真冬に食べるには冷やされてしまう気もするが、それよりも砂糖の甘さが沁みわたるから、冬だとて人気が出るに違いなかった。あいすくりんを食べ終え、二人で珈琲をいただく。

「はぁ、甘いものって贅沢ですわね」
「ああ。身も心も満たされるよ」

甘いものが好きな者同士、叔父とはまるで娘同士のような話をすることも多い。美しいかんばせを綻ばせて甘いものを頬張る様子は随分と可愛らしく、その様子を見るのがナマエの楽しみのひとつでもあった。

「久しぶりに、笹団子を食べたんだ」
「まぁ。旭川で召し上がったんですか?」
「ああ。土産にと買ってきてくれてね」

笹団子、と聞いて内心どきりとした。ついこの間自分も食べたばかりだったからだ。それももらい物で渡してきた本人の顔が浮かんで、なんて言っていいかわからなくなる。顔に出してしまわないように努めながら叔父の言葉に相槌を打つ。すると、叔父は髭を蓄えた口をゆったりと三日月に変える。

「…ナマエも食べただろう、笹団子」
「えっ……」

ああ、知っている。どういうわけだかわからないが、叔父はナマエが宇佐美から笹団子を受け取ったことを知っているのだ。頭の切れる叔父を前にして嘘をつきとおせるわけもない。ナマエが観念したように小さく頷くと、叔父は満足そうに珈琲をひとくち口に含む。

「フフ…私は帰省出来なかっただろう。土産は何がいいかと聞かれたから笹団子を頼んだんだよ。その時にナマエの好物だと教えてやったんだ」

悪戯っぽい顔で叔父は続けた。つまりなんだ、ついでに渡したみたいなふうを装っていたのに、本当は元々ナマエのために用意してきたとでもいうのか。それなら屋敷にまで届けようとしていたのにも説明がつく。しかしそもそも、そもそもナマエのためにわざわざ用意をすることに説明がつかない。

「フフフ…私はべつに買ってこいと言ったわけではないんだがね?」
「え、と……あの、篤四郎叔父さま…その…どうしてわたくしが受け取ったとご存知だったのですか…?」

ひとつ可能性が浮かんだのは、宇佐美がこれを点数稼ぎに使おうという腹だったのではないかということだ。本人のみならず姪にまで気配りができると言う点で叔父から評価を受けたいのではないのか。それだったら理解できるし、その場合叔父が知っていたことにも「宇佐美が自ら主張したから」と説明がつく。そうであって欲しいような、欲しくないような、自分でも上手く説明が出来ない。

「あ…あの……そのお話、宇佐美さんからお聞きになったんですの…?」
「いいや、宇佐美は何も言っていないよ。フフ…けれど、見ていればわかるさ」

叔父は終始愉快そうだ。ナマエの仮説は打ち砕かれ、もうなんて言っていいかわからなくなった。はくはく、と唇を動かす。叔父に言われたわけでもなくて、叔父への点数稼ぎでもなくて、わざわざ屋敷まで届けようとして。頭の中で状況を整理しようとして、並べれば並べるほどわけが分からなくなる。

「ど、どうしてわたくしに……」
「さて、どうしてだろうね?」

叔父は答えをくれないらしい。自分で考えてはみるけれど、辿り着きそうな答えに辿り着いてしまっていいものか怖くなる。喉が乾いてしまって、それを誤魔化そうと珈琲を流し込んだ。けれど苦くて少しも足しにはならなかった。


今度会ったらどんな顔をすればいいんだろう。いままで通りに憎まれ口を叩くことは出来るのだろうか。絶対にできない。何を言ったらいいかわからなくなるし、絶対に顔が赤くなってしまうと思う。そもそも宇佐美は本当に特別な感情なんか抱いているのだろうか。

「はぁ……」

いや、自意識過剰なだけに決まってる。だってあの宇佐美だ。顔を合わせるたびに憎まれ口を叩きあい、叔父の命令で仕方なくナマエを送り届け、捨て台詞のようにしっかり最後まで余念なく嫌味を言っていくような男なのだ。何がどうなって全く反対の感情を抱くというのだろうか。そうだ、自分の思い違いに決まっている
百面相をしながら道を歩いていると、道の奥の方に軍服が見えた。ひょっとして、と思って、ナマエは咄嗟に路地に身を隠す。いや、この旭川で軍服を着てる人間なんて一体どれだけいると思っているんだ。

「……どうしちゃったの、わたくしは…」

ぎゅっと胸元を押さえる。ああ、どうしよう。もうこのところずっとこんな調子だ。自分が自分ではないみたい。目に見えないものに翻弄されている。
はぁ、とまたため息をつくと、視界の端に大きな黒い塊がうつってぎょっとした。なんだあれは。驚いて注視してしまって、すると黒い塊からのろりと腕が出ていることに気が付いた。人だ。誰かが倒れているのだ。ナマエは慌てて駆け寄る。

「もし、もし、大丈夫ですか?」
「ん……ぐ……」
「あの、大丈夫ですか?」

ごろっと頭が動いて、長い髪の隙間から男の顔が覗く。あの黒い塊に見えたのは彼の長い髪だったのだ。どこかに怪我をしているようには見えないけれど、こんなところで倒れて病人か何かに違いない。このままこんなところにいれば凍えて死んでしまう。

「あの、もし、もし…」

とんとんとん、と少し強めに彼の胸元を叩けば、そこでようやく男の瞼が小さくまばたきを始めた。ああよかった、意識を取り戻してくれたようだ。男は数秒のあと、閉じていた目をはっきりと開いて目の前にいるナマエを見た。

「あれ、お嬢ちゃん、こんなところでどうしたんだ?」

かたちのいい紡錘形の目の中に黒々とした瞳があり、そこにナマエの顔が映っている。目の中に映る自分が確認できるほどまで距離を詰められたのだと気が付いたが、肩を掴まれてしまっていて動けない。

「え、と…あの…あ、あなたがこんなところで倒れて急病なのかと声をかけたんです。あなたこそ、こんなところで凍えてしまいますわ」

どうにか自分の調子を取り戻し、男にそう言った。男が何かを言う前に、ぐうぅぅぅぅ、と派手に腹の虫が鳴る。もちろんナマエのものではない。男は今思い出したかのように「そうだ、腹が減って倒れてたんだった」と笑った。そんなことを忘れるなんてどうかしている。

「なぁお嬢ちゃん、何か食べ物持ってない?」
「え、えっと…いただきもののコロッケで良ければ…」
「おっ、いいねぇ!」

先ほどガレリィに寄ったとき、タマが作ったというコロッケをもらったのだ。竹皮包みを差し出すと、男はぐいんと立ち上がった。地面にべっとりと座っているだけで大柄なのだろうことはうかがい知れたが、想像よりもずっと背が高い。見上げるほどの大男はさっそく竹皮包みからコロッケを取り出し「美味いなぁ!」と顔を綻ばせた。迫力のある見た目に反し、なんだか大きな子供のようだ。






- ナノ -