06 貴方のタッシェントゥーフ


結局宇佐美に返しそびれた白い手巾は、軍の支給品と思しきなんの変哲もないものだった。石鹸の香りも特別いい香りというわけではなくて、ありふれた一般的なそれに過ぎない。けれどこれの持ち主が誰であるか、ということの方が、ナマエにとっては重要だった。

「お嬢様、私がアイロンをおかけしますので…」
「ありがとう。でも大丈夫です。その、これはわたくしの手でアイロンをかけたいの」

通いの女中の申し出をそうして断る。不慣れではあるものの、自分で家事を一切しないというほどの上流階級の生活はしていない。本体の蓋を開け、温まった炭を中に入れる。木製の取っ手を手に持ち上げて、洗濯の済んだ手巾のシワを丁寧に伸ばしていった。あっという間にシワひとつない白布が出来あがる。

「…出来た」

自分のものよりも丁寧にアイロンをかけたことに、別に他意なんてない。人からの借り物だから失礼のないように慎重になっただけだ。と、自分にごちゃごちゃと言い訳をした。

「お嬢様、今日は何だか楽しそうですね?なにか良いことでもありましたか?」
「い、いいことだなんて…なんでもありませんわ」

そう尋ねてくる女中に少し気まずくなって、ナマエはなんとかそう言い返す。別にたまたま少し話しただけで、ちょっと何だかいつもと雰囲気が違っただけで、良いことだなんてとんでもない。突っぱねるナマエのことを女中が「まぁお可愛らしい」と笑った。


その日は叔父と約束をしていたわけではないがナマエの足はガレリィに向かっていた。ドアを開ければ、今日も涼やかにカランカランとベルが鳴る。幾人かが食事をしていて、ナマエはマスタァに声をかけてから指定席に座った。しばらくしてタマが注文を伺いに来る。

「いらっしゃいお姫様。今日はお食事?」
「ええ、サンドウヰッチをくださいな」

タマは注文を取ると、軽やかな身のこなしで厨房の方へと歩いていった。自由、自立と夢を語っている自分より、彼女の方が何倍もナマエの理想を成し得ているような気がする。いや、いまここで解決しない問題を考えたって気が滅入るだけだ。
店内を飛び回るようにして働くタマを見つめた。鳥の羽が生えているようにさえ見える。

「…羨ましい…」
「何が?」
「えッ…!?」

頭の中身がついつい声になって出てしまっていて、しかも運悪くサンドウヰッチを持ってきたタマに聞かれてしまった。あわあわあわと誤魔化そうとしたが、もう間に合うはずもない。タマはサンドウヰッチの皿を配膳して戻るかと思いきや、そのままナマエの向かいに座った。

「休憩なの。ホラ、お客さんナマエちゃんしかいなくなってるし」

相変わらずの愛想の良さが眩しい。タマの目の前にも皿があって、そこにはおにぎりが二個乗っている。これが彼女の昼食なのだろう。西洋料理店だからといって、西洋料理ばかりたべてるわけじゃないのか、と以前驚いて尋ねたら「ああいうのはお客さんに出すお料理だもの」と返ってきたことがある。タマの視線がささやかながらサンドウヰッチに注がれていた。

「…ねぇ、おタマさん。サンドウヰッチひとつとおにぎりひとつ、交換して下さらない?」
「ええっ、いいのナマエちゃん」
「もちろんですわ。洋食屋さんのおにぎりなんて興味津々ですもの」

ナマエの提案にパァっとタマの表情が明るくなる。ナマエが皿を寄せるとタマも同じようにして皿を寄せ、お互いの皿からサンドウヰッチとおにぎりをそれぞれとる。皿の上はたちまち和洋折衷の不格好な状態になって、だけどそれが愛おしい。

「そうだ、こないだナマエちゃんとあの兵隊さんが一緒に歩いているところを見かけたの」
「えっ…」
「誰だっけ。美形で紳士の……あ、宇佐美さん?」

見られていた。いつの何のことだろう。一番最近は泣いているところを慰められたときだ。あれをタマに見られてしまっていたのだとしたら相当気まずい。

「甘味屋にいたでしょう。ホラ、師団通りの南のサ」
「え、あ、ああ…その時の……はい。篤四郎叔父さまと約束していたのですけれど、急な用事で来られなくなってしまって、それを宇佐美さんが伝えに来て下さったついでで…」

簡単にあの日のことを説明すると、タマは残念そうにため息をつき「なぁんだぁ。あいびきかと思ってワクワクしたのに」とこぼした。逢い引きという言葉に必要以上に反応してしまう。いや、あれはそういうつもりじゃなかったし、そもそも叔父の言いつけなのだ。だから宇佐美に他意はないし、ナマエにだって他意はなかった。自分に高速で言い聞かせる。


タマとあんな話をしてしまったから、誰もかれもがそう言ってくるような気がして必要以上に警戒してしまう。手巾を返すとき自分は今までと同じような態度で彼に接することが出来るだろうか。

「……ですけれど、篤四郎叔父さまにお預けするのも何だか卑怯なような気がしてしまいます…」

ナマエはいくつかの思案ののち、手巾を直接宇佐美に返しに行くことにした。とはいえ、もし本人が不在だったら誰か顔を知っている兵卒に預けてしまおう、という逃げ道は心の中に用意していたが。
広大な敷地の一画のひときわ立派な門の前に辿り着くと、誰に声をかけていいものやらとうろうろあたりをうろつく。第七師団の本営なのだからもちろんとんでもない数の兵卒が出入りしていて、ほぼ全員が顔も見たことのないような兵卒だった。

「手巾を返すだけ…手巾を返すだけ……」

ぶつぶつと言い聞かせる。恐らく若い女であるから不審に思われても番兵にすぐひっ捕らえられるということはないが、先ほどからうろつくナマエに彼らは訝しむように視線を向けている。ああ、尋ねる先が叔父だったのなら、きっとこんなにも緊張をせずに済んだのではないだろうか。

「おい、そこの女、一体何をしている」

ついにナマエの挙動不審さに番兵が声をかけてきた。いや、むしろこれは好機だ。いっそのことこの番兵に言伝てを願うほうが速いのではないのか。そう思って口を開いた時だった。

「あのっ…!」
「いい。その子は私の客人だ」

ナマエの言葉を遮るように背後から声がかかる。振り返ると、そこにはどこかから戻ったのだろう和田が立っていた。番兵は和田に恐縮し、ナマエは和田に先導されるまま門をくぐることになった。同じような規格の建物がずらりと並んでいて、それはフランス式で整備された建築ばかりだった。

「和田さまありがとうございます。どうしようかと途方に暮れておりました…」
「これぐらいお安い御用だよ。それで、鶴見のところへ案内すればいいかな?」
「いえ、その…今日は叔父に会いに来たわけではないのです」

和田が当然のようにナマエの用向きは叔父宛だと思っているようでそう尋ね、ナマエはそれを歯切れ悪く否定する。さすがに宇佐美の上官である和田に手巾を預けるのは憚られた。

「う、宇佐美さんに…その、お借りしたものを返しに来たのです……」
「宇佐美?」

和田が意外そうにおうむ返しをする。和田がもう一度「宇佐美か」と言ったため、ナマエが「先日手巾をお借りして、それを」と添えると、和田はまた「宇佐美か…」とダメ押しのように言った。

「兵舎に向かおう。ヤツがいるかはわからんが、宇佐美はおらずともナマエくんの顔見知りくらいはいるだろう」
「ありがとうございます」

和田についてさらに兵営の中を歩く。すれ違う兵卒たちは和田にびしりと姿勢を正して道を譲った。ナマエも会釈を返しながら歩いた。そうして和田が「ここだよ」という兵舎に辿り着き、彼について敷居を跨ぐ。ここまで来るともうさすがに見知った顔が多くなる。和田が隣にいるから話しかけては来なかったが、一様に「なんでここに?」という顔をしていた。

「おい、宇佐美上等兵はいるか」
「はいッ!」

和田が部屋のひとつの中に声をかければ、大きな声でハキハキとした声が返ってきた。知っている誰かかも知れないが、威勢が良すぎて誰だかまるでわからない。それから軍靴の音がひとつ近づいてきて、びしりと姿勢を正した宇佐美が姿を現した。

「和田大尉殿、お呼びでしょうか」
「お前に客人だ。外出を許可する」
「は?」

短音を漏らし、そこでようやく宇佐美の視線が和田の影に隠れているナマエに向けられる。ナマエはおずおずと目を合わせ、宇佐美に会釈をした。宇佐美の大きな目が「なんでここに?」と、他の兵卒たちと同じ疑問を浮かべていた。

「あ、あの和田さま、外出のご許可をいただくほどでは…」
「いやいや、せっかくなんだから話してくると良い。鶴見と月島には私が伝えておく」

上官の手前断るのが憚られるのか、宇佐美はうんともすんとも言わなかった。結局和田に押されるかたちになって宇佐美と二人で兵営の外まで出ることになってしまい、宇佐美は「じゃあ行きましょうか」と言ったきり何も言わなかった。この状況をどう思っているかもわからない。そろりと恐る恐る隣を見上げれば、いつもどおり唇をつんと尖らせたまま、真っ直ぐに前を向いている。

「あの………」
「はい?」
「オイ宇佐美」

何か話を切り出そうとして、しかし次の言葉を用意する前に他の声が割って入ってきてしまう。声の方向をみると、そこには宇佐美の同輩が立っていた。ジッとした瞳が特徴的で、宇佐美とはまた違う目力がある。彼の名前は尾形百之助。宇佐美と同じ鶴見の小隊の上等兵だ。

「なんだよ百之助。僕今から少し出てくるんだけど」
「ははぁ。鶴見中尉の姪御殿がお見えになったと聞いてな」

にやにやと口元に笑みを浮かべる。自分が来たと聞いてここまで来たということは何か用だったのだろうか。ナマエが「あの、わたくしに何かご用が…?」と聞けば、尾形はまるで明るい場所に出たような猫のように目をきゅっとさせた。

「あはは!百之助、この子にそういう捻くれたのは通じないんだよ」
「……ちっ…」

宇佐美が尾形を放って先に進んでしまい、ナマエは少し迷いながらも「行きますよ」という宇佐美に従って尾形にぺこりと頭を下げると彼の背中を追う。数メートル離れたところで宇佐美がフイっと振り返った。

「百之助のことは相手にしなくていいですから」
「え?」
「あいつは他人をからかうことに心血を注いでいる男なんです。真面目に取り合うだけ無駄ですよ」

辛辣なことを言ってみせて、気が付くとすっかり門のところまで来てしまっていた。番兵に軽く会釈をして潜り抜けると、師団通りを少し歩いたところで宇佐美がようやく足を止める。

「で、兵営まで一体何の用だったんです?」
「あの、ごめんなさい。お借りした手巾をお返ししたくって…」

そんなことか、と呆れられそうで尻すぼみになる。いつもならもっと強気に言うことが出来るのに、なんだかおかしい。何の断りもなく兵営まで行かなければ良かった。直接返すにしたって叔父を通じて連絡を入れればよかったのだ。
ナマエはきっちりとアイロンのかけられた手巾を取り出し、宇佐美に差し出した。

「わざわざこれを持ってくるためだけに?」
「はい。中までお邪魔するつもりはなかったのですけれど、表で和田さまにばったりお会いして…それで兵舎まで伺うことになってしまって…」
「ああ、なるほど」

宇佐美は差し出された手巾を受け取ると、じいっとそれを見つめた。きっちりアイロンをかけたつもりだけれど、どこか手落ちがあっただろうか。宇佐美はおもむろに手巾を鼻先まで近づけ、すんっと匂いを嗅いだ。

「自分の手巾から他の家の石鹸の匂いがするって、何だか変な気分ですね」

くすくすと笑う。その笑い方がいつもみたいなからかいを感じるようなものではないような気がして、何だか名状しがたいものがふつふつと湧き上がってくる。ナマエの胸中なんて気が付かない様子で、宇佐美は手巾を軍衣の物入れにしまう。

「さて、じゃあ行きましょうか」
「え?」
「せっかく和田大尉直々に外出許可をいただいてますからね。羽を伸ばしてから戻りますけど、うっかりひとりでいるところを見られたら何言われるかわからないでしょ」

わかるようなわからないような理由を述べられ、是も否も言う前に宇佐美は歩き出してしまった。またナマエは数歩遅れて宇佐美を追い、少し経ったところで宇佐美が歩く速度を緩め、自然に並ぶような状態になる。

「甘味屋行きましょうか」
「前のお店ですか?」
「はい。あなた、美味しそうに食べてましたから」

師団通りを南に進む。今度甘味屋にいるところをタマに見られたら、もう言い訳できる自信がない。






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