05 面倒なヘルディン


いけ好かない小娘、と言ってしまうのは、いささか表現として乱暴過ぎる。
彼女が目の上のたんこぶであるという事実は変わらないが、それだけならば無視でもすればいいものを、そう出来ないのは何故だろうか。
鶴見ナマエという少女に出会ったのは、まだここ一年くらい前のことだ。鶴見の姪で、旭川まで社会勉強に来ているのだと、お気楽な顔でそう言った。鶴見のことを気軽に「篤四郎叔父さま」と呼ぶのが気に入らなかったし、鶴見に目をかけてもらっているのも気に入らなかった。尤も、実の姪なのだから当然のことと言えるけれど。

「それにしても驚いたな。お前のことだから中尉殿の縁者には全力で尻尾を振るもんだとばかり思ってたぜ」
「ハァ?尻尾を振るってなんだよ。そんなこと僕がするわけないだろ」

同輩の尾形がにやにやとそう言った。口ではこう返してみたものの、実際自分でも彼女への感情は予想の範疇を超えていた。敬愛する鶴見の血縁を疎ましく思うなんて想像もしていなかった。自分の憎むべきは己の立場をわきまえず鶴見に愛されると思っているような人間であり、彼女はそうではない。血の繋がった姪である彼女は愛されるに値する人間で、鶴見の家族、妻や子供と同列のはずだ。鶴見に妻子がいるという話は聞いたことがないが。

「おい、何だよ急に黙って。気持ち悪ぃな」

同輩の尾形が顔を歪める。思考がまとまらずに「うるさい」と適当に返してみたが、この男の言うことは的を射ており、結局当意即妙な言い訳というものも思いつくことはなかった。


見た目は可愛らしいと思う。先日鶴見の命で自分の抜けた穴を埋めるようと言われて甘味屋に連れて行ったとき、まじまじと見る彼女の面立ちは鶴見の美しさにどことなく似ていた。それに加えて女性的な曲線が加わり、鶴見よりも可憐な印象を持った。

「案外似ているんですね、鶴見中尉殿と」
「当然ですわ。姪ですもの」

甘味屋で膝をつき合わせているとき、ふとそうして話を振ってみたら思いのほか弾んだ声が返ってきた。目元が特によく似ている。涼し気で知的で、長い睫毛の流れに妖艶さを秘めている。兄弟みな同じような面立ちなのだろうかと尋ねると、三番目の姉が一番鶴見に似ていると返ってきた。

「へぇ。鶴見中尉殿似の女性かぁ」

鶴見の身体をそのまま女性に挿げ替えた妄想をしてみる。美しさは揺るぎないと思うけれど、なんとなく違うと思う。あの面立ちは男ならではの美しさだと思うし、単純に女になればそれで魅力的かと言うと、それは少し違う気がする。

「……ご興味がおありになっても、姉はみんな人妻ですからね」
「あは、別に何も言ってませんが」

斜め上の返答に思わず笑いそうになった。まさか自分が彼女の姉を狙うとでも思っているのか。そんなことがあるわけがない。鶴見がそもそも自分の姪と見合わせるということもなさそうだし、今更新潟に戻って嫁を取るというのも現実的ではない話だ。それにしても、兄弟の中で彼女だけが結婚していないのか。

「姉はみんな…ということは、あなただけ結婚してないんですねぇ」
「今は勉強が楽しいんです。家督なんて兄が継ぎましたし、わたくしが鶴見家の娘として出来ることなんてもうないんです」

つんとした態度でそう言った。しかし後半は少し、普段と違うように聞こえる。女が家のために出来ることは良家に嫁いで元気な子供を産むことだ。姉たちが全員そうして役割を果たしているのなら、確かに末の娘の婚姻というものは重要視されないのかもしれない。そんなことは宇佐美にとって想像でしかないが。いずれにせよ、良家の子女が悠々自適にこんなところまで来ている謎がひとつ解決した。

「まぁ、いいんじゃないです?僕も長男ですけど、家業は弟に任せて軍人になってますし」

家業を任せてきた弟のことを思い出す。本当は自分が田舎に残って家業を継ぐべきだった。自分がやるべきことの一切を弟に任せ、自分はこうして好き勝手にやりたいことをして生きてる。彼女のことを悠々自適な娘と思っているけれど、自分も人のことは言えないかもしれない。

「ご実家は何をなさっているんですの?」
「米農家ですよ。もうじき弟が継ぐと思いますが」

有り難いとは思うけども、申し訳ないとは思わない。我が儘を通してここまで来ているのだから、自分の選択をぐちぐちという方が弟に失礼だろう。ナマエは普段の威勢の良さを潜め、淑やかに蜜豆を口に運んだ。普段とは違う彼女の表情は、何とも名状しがたく心の奥をくすぐるように感じた。


現在日本は北の隣国であるロシアと緊張状態にある。南下政策を進めるロシアの手がすぐそばまで伸びており、日清戦争を契機に大陸へと進出したい日本との衝突はもはや待ったなしというところまで来ていた。
そのため、上官である鶴見もこのところ慌ただしくしている。それに、鶴見が秘密裏に狙っているアイヌの金塊に関しても、24人の囚人が脱獄したらしいし、問題は山積みだ。

「はぁ…全く忌々しい…」

囚人を移送させようとして脱獄を許してしまったという第七師団の連中は、鶴見とは別の勢力である。こっちにはこっちの計画があるっていうのに勝手な真似をされ、しかも下手を打つなんて全く厄介なことこの上ない。
鶴見から与えられた任務を終えて、旭川の駅から兵営に戻る途中のことだった。見知ったうしろ姿を見つけ、思わず立ち止まった。別に用もないし立ち話をするような間柄でもないし放っておけばいいのに、どうしてだ放っておくことが出来なかった。

「こんなところで何をしているんです?」

いとけない顔でナマエが振り返る。何だかいつもと違うような気がして、それが纏っている外套のためだと気が付いた。二重廻しのこの外套の名前はなんと言うんだったか。婦人向けのものではないから、彼女が着ていることに違和感を感じたのだ。

「え、っと……お散歩に…」
「へぇ。まぁ昼間だから良いですけど、まかり間違っても夕暮れにはひとりで出歩かないでくださいね」
「平気です。自分の身は自分で守れますわ」

なんというか、危機感が足りない。ここは師団があるから他の街よりは治安は悪くないが、それでも世間知らずのお嬢様が夕暮れ時にひとりで歩くのは危険だ。危機感の足りない行動に加えて危機感の足りない返答があって、宇佐美は呆れ交じりに「はぁ、なるほど…」と相槌を打った。

「その外套、紳士用ですよね?」
「え、ええ。そうですけれど…」
「男になりたいんですか?」

宇佐美の問いに対してナマエは「そういうわけでは……」と否定をした。仕立てから見て貰い物というわけでもないだろう。わざわざ紳士用のかたちでコートを仕立てるなんて、一体どんな意図があるのか。

「そうですか。熱心に勉強してみたり腕に覚えありと言ってみたり、軍に入ることを羨ましがってみたり、それに紳士用の外套を着てみたり…てっきり男になりたいのかと思っていました」

少し意地悪くそう言ってみせた。世間一般に求められる女性らしさからはかけ離れている。彼女ほどの家であれば女性としての正しい振る舞いを教わらないはずがなくて、だからつまり彼女の振る舞いはこれが女性的でないことを知りながらしているということに他ならない。

「……べつに…いいじゃありませんか。わたくしがどうなろうと、宇佐美さんには関係のないことでしょう」

思いのほかつんとした声が返ってくる。忠告を含めて言ってやっているというのに、この娘はそんなことも素直に聞けないのか。もっと直接的な言い方をしてやらなければわからないのか。近頃の連隊の空気の悪さから来る不機嫌の蓄積が、宇佐美の言葉を鋭くさせた。

「まぁ僕には関係ありませんけど、あまりの跳ねっ返りは鶴見中尉殿のご評判を落としかねません。連隊の連中に顔も割れてるんですから、あんまり無茶をして鶴見中尉殿にご迷惑をおかけすることだけはやめてくださいよ」
「そ、んな…言い方、しなくても…」
「はっ、鶴見中尉殿と同じ血が流れてるってことをせいぜい忘れないことですね。っていうかそもそも──」

この跳ねっ返り娘が、と思いながら小言を続け、眼下の彼女の顔を見てぎょっと言葉を止めた。ナマエが大粒の涙をぽろぽろとこぼしている。いや、いやいや、なんで急に泣いたりしてるんだ。確かに女性に言うには些か強い物言いだったが、そんなのいつものことだ。どうして今日に限ってこんなに泣いているんだ。

「え、ちょ、何泣いてるんですか!?」
「な、泣いてなんていませんっ」
「いや、いやいや泣いてるでしょう」

泣いていないなんて無理がある。女性が泣いたときはどうすればいいんだっけ。いままでに人生における類似する記憶を引っ張ろうとしても、すべて空振って何も引っ張ることが出来ない。そうだ、手巾、手巾を渡さないと。袖口で目元を拭おうとするナマエに、宇佐美は慌てて手巾を差し出した。

「ぇ……」
「袖口で拭うなんてみっともないことしないで下さい。というか、手巾も持ち歩いていないんですか?」

口からは息をするように憎まれ口のようなものがこぼれ落ちる。どうしてこんなことを言いたくなるんだろう。自分でも理由がよくわからない。

「も、持ち歩いてます!外套のせいで取り出せなかっただけで…!」
「なんでもいいですから、ほら」

強く押せば、ナマエがようやく手巾を受け取った。目元にそっと宛て、自分の手巾に彼女の涙が吸い込まれている光景はなにか妙な気分になった。そうだ、こんなところで目立っていたら外聞が悪い。宇佐美はナマエの肩を抱くようにして路地に移動する。民家の塀と塀の間に引っ込み、しばらくすると、ようやく彼女の涙が引いていった。

「……少しは落ち着きました?」
「…はい、すみません」
「まったく驚かせないで下さいよ」

ハァ、とため息をつく。本当に焦った。女性が泣くところなんて今まで何度も見たことがあるはずなのに、彼女に泣かれるのはなんだかもっとどうしようもない気分になって仕方がない。泣き止んだナマエがおずおずと宇佐美を見上げた。

「あなたに泣かれると、何て言ったらいいのかわからなくなります」
「え……」
「そんなにキツいこと言ったつもりないんですけど」

じっと彼女を見つめる。本当に、どうしていいかわからなくなるのだ。跳ねっ返りで少し面倒だと思っているのに、しおらしくされるとそれはそれで言葉がなくなる。一体彼女がどうしてくれることを望んでいるのか。

「あの、ごめんなさい。少し思うことがあって、宇佐美さんのせいというわけでは……」
「はぁ、そうですか」

別に何もかもを打ち明け合えるような間柄でもない。彼女には宇佐美の知らない世界があり、その中で何か気分の落ち込むようなことでもあったのだろう。自分ではもはやどうと慰めるような言葉もないだろうと、宇佐美はナマエに「家まで送ります」とだけ言った。

「そ、そんな…一人で帰れます!」
「泣いてる女性をひとりで帰せるわけないでしょう。あなたが思ってるよりずっと危険が多いんですよ、この町は」

彼女の言い分を取り合ってやることなく、ナマエの家の方向へつま先を向ける。もう何度も送り届けているから、ここからどんな順路を辿ればいいかももちろんわかる。

「あ、あの、宇佐美さん、お仕事の途中だったのでは…」
「まぁ、兵営に戻るところでしたけど、少しくらい時間作れますから」
「そう、ですか…」

ナマエが斜め後ろからついてくる。ちょっと待て、自分はいま彼女を慰めようと思ったのか。どうしてそんなことを彼女にしてやろうと思ったんだ。顔を見合わせるたびにお互いぐちぐちと文句を言い合うような仲なくせに。
なんと言っていいかわからなくなって、あまり言葉も交わさないまま屋敷へ到着した。門の前でナマエと対峙する。いままでよりどことなく彼女が小さくいじらしく見える。

「…送ってくださってありがとうございます」
「まぁ、鶴見中尉殿のお耳に入ったら困りますから」

そう、そうだ。彼女が敬愛する鶴見中尉殿の姪だから、何かあっては鶴見中尉殿が悲しまれるに違いないから、だからこうして親切に家にまで送り届けもするし、泣いていればどうしたらいいかわからなくなるのだ。そうだ、そうに違いない。
宇佐美は踵を返し、兵営へ向かった。心臓が普段より速くなっているのは、きっと気のせいだろう。






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