04 憂いのピプレ


ナマエの生家である鶴見本家は、非常に順風満帆だった。家督を継ぐだろう長男にはすでに男の子が生まれていて、さらに先日、母子ともに健康なまま女の子が生まれたのだと手紙で報告があった。ナマエは蛇腹に折られた便箋を右から左へと読んでいく。それは母からの手紙であり、ひとり実家を離れて北海道で暮らすナマエのことを気遣う内容と、最近起きた家での出来事が書き綴られていた。

「まぁ。一兄様のところ、二人目のお子は女の子なのね…」

甥っ子にはしばらく会っていない。母から「時間があれば帰ってくるように」と添えられていたけれど、あまりそういう気分にはなれなかった。その順風満帆な家に、自分の居場所があるとは思えなかったからだ。

「……お返事、なんて書こうかしら」

蛇腹をぱたんと閉じる。家族のことも地元のことも好きだけれど、どこか蚊帳の外というか、生まれてからの殆どの時間を過ごしているのに、それでもどこか、遠い場所のような気分になる。兄姉たちで必要なことはすべて事足りてしまっている。そんな中で自分が個人として求められることは正直殆どなかった。いつもオマケで、期待されることもない可愛いだけの「末っ子」だった。
誰かに必要とされたい。そういう願望が心の奥でちくちくとナマエのことを刺し続けている。

「お勉強しなくちゃ」

そのために選んだのが、勉学の道だった。男ほどではないけれど、女だって学問を修めれば異国に出ることだって出来る。可能性は低いとはいえ全くないわけではないし、これからの世の中はきっと、女性も役に立てる機会が多くなるはずだ。

「家が恋しいかい…か…」

あの時「恋しくないといえば嘘になる」と叔父には言ってみせたが、心配には及ばないほど元々足は遠ざかっている。もっとも、聡明な叔父にはナマエの本心なんてものは簡単にわかってしまっていることかもしれないけれど。
ナマエは普段から叔父と頻繁に会っているものだから、27連隊のお偉方にも顔を覚えられている。師団通りを歩いていると、そのお偉方のひとりと遭遇した。

「和田さま、ごきげんよう」
「おおナマエくん。元気にしていたかね」
「はい。和田さまもご息災でいらっしゃいましたか?」
「ああ、ぴんぴんしておるよ」

髭を蓄えた将校の名前は和田。階級は大尉。鶴見の直属の上官にあたる男で、噂では北海道に来る前からの繋がりがあったらしい。彼には三人子供がいるが、いずれも男ばかりだそうで、娘にぼんやりとした憧れのあった和田は何かにつけてはナマエを甘やかしているのだった。

「ナマエくんはドイツ語の勉強をしているらしいな。熱心で素晴らしいことだ」
「せっかく社会勉強で北海道まで来ているんですもの。なるべく多くのことを勉強したいと思っています」
「女だてらになかなかの向上心だ。鶴見も誇らしいだろう」

和田の言葉ににっこりと微笑んで「ありがとうございます」と言ってみせた。和田にそこまでの悪意はないのだろうが「女だてら」とは、よく言われる言葉のひとつだった。女が勉学に励むのを良く思わない人間は多い。そんなことをせずに家に入り、子を育てたらどうだと、そこまで直接的な言い方はされなかったが、北海道に社会勉強に出るという話をしたときに、近所の人間にそれらしいことを言われた。

「いや、それにしても、本当に鶴見の姪とは思えないほどまっすぐで驚くな」
「まぁ。叔父は違うんですの?」
「当たり前だ。陸士の時分からあいつは中々に食えん男だよ。どれだけ悪戯をされたことか…」
「ふふ、叔父さまったら和田さまに随分気を許していたようですね?」

やはり他意のない和田はナマエのことにそれ以上言及することなく、鶴見の思い出話をあれこれと広げた。いけない。きっと実家から手紙が届いたから、普段より過敏になってしまっているのだろう。


昨晩、ドイツ文学を読みふけっていたらついつい夜更かしをしてしまった。外国の文学は楽しい。日本では決して味わうことのできない空気感があり、その中に出てくる生活習慣や文化の違いは新鮮なことばかりだったし、新しい知識を得ることが出来た。
眠気覚ましに近くを散歩でもしようかと屋敷を出て、あたりを特にこれといったあてもなく歩く。

「随分冷えるわ。もう冬も間近かしら……」

北海道の冬は厳しい。地元新潟の冬ももちろん厳しかったが、ナマエの住んでいる土地は佐渡島で一度雲がぶつかってしまうから、想像よりもずっと積雪は少ない方の地域だった。北海道だってもっと未開の場所や、あるいは近隣の大雪山に向かえば開拓されたこの地よりも雪深いことは理解しているけれど、やはり地元に比べれば何倍も冬が厳しいことは確かだ。

「今日はお女中さんにお願いしてお鍋にしていただこうかしら」

ひゅうっと一等強く風が吹く。飛ばされそうな勢いのそれに溜まらず眉をしかめる。着込んだインバネスコートの端をぎゅっと掴んで翻ってしまわないよう試みたが、あえなく上の半円の片方が風に攫われてしまって、隙間に風が入り込んだ。

「うぅ……」

寒さに身震いをする。本でしか読んだことのないヨーロッパの国々は、北海道よりもっと寒いところがたくさんあるらしい。北極なんて場所は、氷が山のようになっていると聞く。それが一体どんな世界なのか、ナマエには想像もつかない。世界はどこまでも広く、果てさえないように思われた。
実家にいた頃よりは世界は広がったが、それでも自立しているという表現にはほど遠い。いつになれば自分の足で立つことが出来るのかと、長い道のりに気が遠くなる。結局のところ自分は口だけで、この先だって何も成すことが出来ないのではないかと怖くなる。

「こんなところで何をしているんです?」

道端で思わず立ち止まっていると、そう声をかけられた。もう随分と聞き馴染んでしまった声に振り返れば、軍装に身を包んだ宇佐美が立っていた。不意なことで準備が出来ていなくて、ぱちくりとまばたきをすることしかできない。

「え、っと……お散歩に…」
「へぇ。まぁ昼間だから良いですけど、まかり間違っても夕暮れにはひとりで出歩かないでくださいね」

息をするように嫌味ったらしいことを言ってきて、そこでやっと戦闘態勢が整った。ナマエはキッと目尻を吊りあげ、口を一度引き結ぶ。この男に負けるわけにはいかない。

「平気です。自分の身は自分で守れますわ」
「はぁ、なるほど…」

宇佐美の反応は納得しているというよりも呆れているとか馬鹿にしているとかの印象が強く、正規の訓練を受けた彼からすれば馬鹿な子供の戯言に聞こえるだろう。拗ねたら子供っぽいと思われるのは百も承知だが、何か反論しても子供っぽく映ってしまうに違いない。

「その外套、紳士用ですよね?」
「え、ええ。そうですけれど…」

ナマエのインバネスコートを見とめて宇佐美がそう言った。確かにこれは普通であれば紳士用の防寒具である。婦人用ならこうして二重廻しになっているものではなく、一重の物が主流だ。この方が形が綺麗だと思ったからこちらで仕立ててもらっただけで、とくにそこまでの深い意図はない。

「男になりたいんですか?」
「そういうわけでは……」
「そうですか。熱心に勉強してみたり腕に覚えありと言ってみたり、軍に入ることを羨ましがってみたり、それに紳士用の外套を着てみたり…あなたはてっきり男になりたいのかと思っていました」

くすりと宇佐美が笑う。やっぱり揶揄するような声音だった。男になりたいと思っているわけじゃない。宇佐美から言葉にして否定されたわけでもないのに、自分の奥にある願望を無駄なことだと、愚かしいことだと否定されているような気になった。

「……べつに…いいじゃありませんか。わたくしがどうなろうと、宇佐美さんには関係のないことでしょう」
「まぁ僕には関係ありませんけど、あまりの跳ねっ返りは鶴見中尉殿のご評判を落としかねません。連隊の連中に顔も割れてるんですから、あんまり無茶をして鶴見中尉殿にご迷惑をおかけすることだけはやめてくださいよ」

つんとした態度で宇佐美が言った。ざくりと胸の中に刃物を突き立てられるような気持ちになる。別に気にしなければいいことだし、宇佐美はナマエの事情を深く知っているわけでもない。こんな物言いはいつものことだ。彼を責めるのはお門違いで、そんなことはわかっていて、それでもぐっと目頭が熱くなっていくのを感じる。

「そ、んな…言い方、しなくても…」
「はっ、鶴見中尉殿と同じ血が流れてるってことをせいぜい忘れないことですね。っていうかそもそも──」

宇佐美が言葉を止める。どうしてだかはナマエの方がわかっている。堪えきれないナマエの涙が流れ出てしまっているのだ。

「え、ちょ、何泣いてるんですか!?」
「な、泣いてなんていませんっ」
「いや、いやいや泣いてるでしょう」

宇佐美がわたわたと焦りだし、ナマエは涙を止めようと必死になった。インバネスコートを着ているせいで上手く手巾を取り出すことが出来ず、もう袖口で拭ってやろうとした時だった。目の前に白い布が差し出された。手巾だ。

「ぇ……」
「袖口で拭うなんてみっともないことしないで下さい。というか、手巾も持ち歩いていないんですか?」
「も、持ち歩いてます!外套のせいで取り出せなかっただけで…!」
「なんでもいいですから、ほら」

宇佐美の手巾を受け取り、おずおずとそれで涙をぬぐう。アイロンのきっちりとかけられたそれからは、石鹸の清潔な香りがした。それから宇佐美がナマエの肩を抱くようにしながら往来を避けるように路地に誘導する。

「……少しは落ち着きました?」
「…はい、すみません」
「まったく驚かせないで下さいよ」

ハァ、と宇佐美がため息をつく。自分でも制御できない涙をどうにか止め、そこでようやく宇佐美の顔を見上げる。面倒くさそうな顔をしていると思いきや、宇佐美は存外心配そうな顔でナマエを見下ろしていた。真剣な瞳にヒュッと息をのむ。喉が掴まれたような気になった。

「あなたに泣かれると、何て言ったらいいのかわからなくなります」
「え……」
「そんなにキツいこと言ったつもりないんですけど」

じっと見つめられると、それまで聞こえていたはずの周囲の音が消えてしまった。どくどくと心臓が鳴る。整った相貌は何も言わないまま、そのあとも数秒間ナマエを見つめる。

「あの、ごめんなさい。少し思うことがあって、宇佐美さんのせいというわけでは……」

宇佐美の言葉が最後のきっかけだったことは間違いないが、その奥には積み上がったものとナマエ自身の被害妄想がある。彼を糾弾するという気は毛頭ない。宇佐美は「はぁ、そうですか」とわかったようなわかってないような曖昧な返事を返した。

「家まで送ります」
「そ、そんな…一人で帰れます!」
「泣いてる女性をひとりで帰せるわけないでしょう。あなたが思ってるよりずっと危険が多いんですよ、この町は」

宇佐美がナマエの家の方向へつま先を向ける。有無を言わさないような態度と、すでにいままで数回送ってもらっているという経緯から、最初ほど反発することもなくそれを受け入れた。

「あ、あの、宇佐美さん、お仕事の途中だったのでは…」
「まぁ、兵営に戻るところでしたけど、少しくらい時間作れますから」
「そう、ですか…」

宇佐美の斜め後ろを歩く。自分のことが嫌いなのならこうして構う必要もないのに。いや、敬愛する鶴見の手前の行動なのだろうけれど、見られていないところでまでこうして気を配るなんて徹底している。
あまり言葉も交わさないまま屋敷へ到着して、門の前で宇佐美と対峙する。もう勘違いはしないけれど、もやもやと心の中に靄がかかったような気分になった。

「…送ってくださってありがとうございます」
「まぁ、鶴見中尉殿のお耳に入ったら困りますから」

予想の範疇の言葉を残し、宇佐美は踵を返す。今までならなんて嫌な人だろうと思ったに違いないが、今日はそうとは感じなかった。自分の見る目が変わったのか。いや、きっと心が少し弱っているせいだろう。そうだ、そうに違いない。それ以外の理由は絶対に認めたくない。






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