03 訳ありギューテ


師団通りを歩いていた時のことだった。ぽんぽんと肩を叩かれて振り返ると、知らない兵卒がニコニコと笑っている。

「あの、なにか?」
「お嬢さん、こんなところをひとりで歩いてどうかしましたか?」
「え?散歩をしているだけですけれど…」
「それはいい。旭川は迷いやすいですから、私がご案内いたしましょう」

兵卒が呼び止めてきて一体何の用だろう。ナマエが27連隊に所属する鶴見中尉の姪であると知っている兵卒はそれなりにいるが、この男もそうなのか。いや、そうだとしたら違和感がある。

「心配はご無用ですわ。慣れてますの」
「とはいえ、こんなところを淑女がひとり歩かれるのはよくありません。目的地までご一緒いたします」

男は食い下がって、どうにかナマエと話をしたいという様子だった。さて何と言って穏便に掻い潜ればいいのか。それを思案している時だった。

「その女性に何か用か?」

透き通った声が割り込む。背筋の伸びるような凛としたそれはナマエも充分に聞き覚えのあるものだった。はっと声の方向を見れば、きらきらとまるで後光でも背負っているかのような美丈夫が立っていた。

「は、花沢少尉殿ッ…!」
「彼女は鶴見中尉殿の姪御さんだが…何か話があるなら私が聞こう」
「いっ、いえッ!!なんでもありませんッ!!失礼しましたッ!!」

男は尻尾を巻いて、まるで脱兎のごとく明後日の方向へ走って行く。それを見送ると、花沢少尉と呼ばれた男の纏う雰囲気が和らいでナマエに向き直る。

「ナマエさん、こんにちは。何か無礼はありませんでしたか?」
「勇作さん、ごきげんよう。ご心配には及びません。声をかけられただけですわ」
「何事もなくて安心しました。どこかに行かれるなら、私がご一緒いたします」
「近くの西洋料理店で待ち合わせをしているだけなのですが…」
「では行きましょう」

ごく自然な流れでナマエの隣を歩く。彼の紳士然とした立ち振る舞いは育ちの良さを体現していた。花沢少尉こと花沢勇作は、この第七師団の師団長の嫡子である。眉目秀麗、成績優秀、陸軍士官学校を首席で卒業した逸材であり、連隊の旗手になるのではと噂されていた。

「お父上は息災にされていますか?」
「ええ。父のもとで任に就くとなると緊張しますが…」
「まぁ。勇作さんでも緊張なさるんですね?」
「私のような若輩は緊張してばかりですよ」

本来の彼の性質というのはこちらの方なのだろう。先ほどの威圧感のあるような態度は軍人としての作り物だ。穏やかで、男に使うのも何だかとは思うが、花のような人なのだと思う。少し歩けば、いつもの西洋料理店にすぐに到着した。「またご一緒させてくださいね」と愛想よくそう言って、彼は店のドアを潜ることなく踵を返した。爽やかな好青年だな、その背中を見送ったあと、すっかり勝手知ったる顔で敷居をまたいだ。

「おやナマエさん、お待ちしていましたよ」
「マスタァ、ごきげんよう。今日は篤四郎叔父さまと待ち合わせですの」

いつもの指定席に向かったが、まだ叔父は到着していないようだ。待つ時間も楽しいものだと思いながら椅子に座り、待つこと数分。軍靴が砂を踏む音が聞こえてきた。うきうきと顔を上げ、そしてムッと口を噤む。

「どうも」
「……宇佐美さん…」
「あはは、僕ではご不満ですか?」

どうして彼がここにいるんだ。叔父はどうかしたのか。いや、考えられる可能性としては叔父に急用があり、それを知らせに宇佐美が来たのだろうということだ。しかし、寄りによって一番馬の合わない彼だとは。彼は鶴見の非常に近しい部下であるし、こうして使者を言いつかるのも珍しくはないが、どこか気分がもやもや曇るのは否めない。不満と真っ直ぐ口にするわけにもいかないから黙ったが、沈黙は肯定に等しい。こほん、と意味があるかないかわからない咳ばらいをして、ここでは自分が尋ねる立場なのだからと思い直した。

「篤四郎叔父さまは何か急用が?」
「はい。鶴見中尉殿は本日司令本部より緊急の招集を受けています。そのためお時間を作ることが出来ないそうです」
「招集……」

過ぎったのは、北の隣国との緊張関係のことだった。つい先日もその話をしたばかりだ。会えるのを楽しみにしていたけれど、緊急の招集がかかったのならどうしようもない。

「そうですか。仕方ありませんね……」

かなり残念ではあるが、緊急のとなればいつ終わるかもわからない。そもそも忙しい鶴見の予定の隙間を縫うように自分と会ってもらう時間を作ってもらっているのであって、不測の事態が発生したのならその時間もなくなるだろう。今日のところは大人しく帰宅してドイツ語の勉強に励もうか。と、肩を落としたときだった。

「ですから、今日は僕がお相手します」
「え?」
「鶴見中尉殿からのお達しです。あなたに退屈をさせないようにと」

思いもよらない言葉にぱっと目を見開いた。申し出を受ける受けない以前に軍人である彼の時間を自分の私用のために奪うわけにはいかない。口ぶりからするに、屋敷に送り届けるよりも長い時間相手をするように言われているのではないか。

「…兵隊さまのお時間をいただくわけには参りません」
「ご安心を。今日は非番です」

ナマエの懸念を宇佐美が切り返す。非番なのにそんな面倒ごとを、というのは愚問である。叔父の命令に非番も何も彼には関係がない。そこから数回断りの旨を口にしてはみたが、鶴見至上主義の彼に通用するはずもなく、一杯の茶をいただいたあと、ナマエはどうしてだか宇佐美と二人暇をつぶしに旭川の街に出ることになってしまった。

「さて、どこかご希望はありますか?」
「特にはありませんわ。元々お出かけするつもりもなかったんですもの」
「そうですか」

弾まない会話に彼の横顔をそっと盗み見る。目鼻立ちがはっきりとしていて、黙っていればかなりの美形だ。通りの向こうの娘がちらりと宇佐美に視線をやった。それからぽおっと顔を赤く染める。宇佐美に見惚れているのは一目瞭然だった。確かに美形だと思うけれど彼は性悪なのに、と顔を赤くする娘に向かって心の中でぼやく。すると、声は頭の上から降ってきた。

「なにか?」
「えっ…!い、いえ、何でもありません…」

見透かされたと思ってどきりとした。「こちらをご覧になっているので、てっきり何かご用かと思いましたが」と付け加えられ、どうやって言い訳をしようかと頭の中を回転させた。視線が未だ注がれている気がして顔を上げることは出来ない。宇佐美が不意に立ち止まり、ナマエもそれにあわせて急停止する。顔を上げざるを得なくて顔を上げると、宇佐美はナマエの予想に反して明後日の方向をみていた。

「甘味屋に行きましょうか」
「か、甘味屋、ですか…?」
「はい。女性はお好きでしょう」

好きかどうかよりも、考えてもなかった提案に追い着くのが精一杯だ。頭でいろいろと考えている間にいつの間にか頷いてしまっていて、宇佐美が「でしたらこちらに」と師団通りの南を手で指し示す。そして流されるままにあれよあれよと甘味屋に辿り着いてしまった。

「ここは蜜豆が評判だそうです」
「で、ではそれを…」

勧められた蜜豆を注文すると、愛想のいい店員が茶を持って出てきて、おまけだといって串団子までつけてくれた。その際彼女の視線があからさまに宇佐美に注がれていて、隠された下心を何となく察する。宇佐美自身は気が付いているのだろうか。

「なにか?」
「えっ…」
「先ほどと同じです。僕の方をご覧になっていましたので、なにか御用だったかと」

宇佐美に指摘され、自分が十数分前と同じように彼を無意識に見つめてしまっていたのだと気がついた。宇佐美の丸く黒い目がじっとナマエを見つめている。ふたりとも座っているから、いつもより視線の高さが近い。
均等に曲線を描く目のふち、くるりと主張するまつ毛、通った鼻筋を辿れば、つんと尖った唇に辿り着く。口を動かすたびに両頬のほくろが動くのが独特の魅力を持っている。

「……う……宇佐美さんこそ、あまりしげしげ女性を見るのは礼を失するのではありませんこと?」
「それは失礼いたしました」

苦し紛れにそう言ってはみたが宇佐美の優位は変わらない。彼の視線はまだじっとナマエに注がれていて、居心地悪く店内を見回しているうちにふたりのもとへ蜜豆が届いた。つやつやと輝く小豆をくちに運ぶと、先ほどまでの不機嫌は現金なもので途端になりを潜めてしまう。器の半分ほどを食べ進めたところで、宇佐美が不意に口を開いた。

「案外似ているんですね、鶴見中尉殿と」
「当然ですわ。姪ですもの」

振られた話が叔父のことだったから思わず弾んだ声を返してしまった。自分は叔父ほどの美しい造形をしているとは思っていないけれど、目元は似ていると思う。芋づる式に実家の兄や姉を思い出し、ほんの少しの郷愁を感じていると、宇佐美がまた尋ねてきた。

「ご兄弟いらっしゃるんですよね?皆さん似ていらっしゃるんですか?」
「そうですね…それなりに似ていますけれど、三姉さまが一番篤四郎叔父さまに似ているかもしれません」

兄と姉の顔を頭の中で全て並べてそう答えた。それなりだけど、三女の姉がとくに似ているような気がする。ナマエが思ったままを答えれば「へぇ。鶴見中尉殿似の女性かぁ」と宇佐美は興味津々だった。なんだか胸のあたりが煙を吸い込んだみたいにもやもやする。

「……ご興味がおありになっても、姉はみんな人妻ですからね」
「あは、別に何も言っていませんが」

気が付くとそんな言葉が飛び出ていて、宇佐美は愉快そうにそう返した。そうだ、別にだから会わせてくれとか口説きたいとかそんなことを言われたわけじゃないのに、なにをここまで警戒しているんだろう。文脈を読み違えてもおかしくはなかったとは思うけれど、先走ったのは恥ずかしい。

「姉はみんな…ということは、あなただけ結婚してないんですねぇ」
「今は勉強が楽しいんです。家督なんて兄が継ぎましたし、わたくしが鶴見家の娘として出来ることなんてもうないんですから」

自分では振り切ったつもりでいるけれど、これはナマエの心に小さな傷をつける問題のひとつだった。二男四女。しかもいずれも健康で優秀で、与えられた役目のそれ以上を実現している兄と姉。もちろんナマエだって良家に嫁ぐことで貢献出来ることはあるだろうが、なんとなくのしかかる重要度というものは違うような気がしてならない。

「まぁ、いいんじゃないです?僕も長男ですけど、家業は弟に任せて軍人に入ってますし」

どんな皮肉が飛んでくるかと思ったのに、飛んできたのは皮肉でもなんでもなかった。むしろナマエに同調するような内容で、優し気なその口調にぽかんと少しのあいだ呆ける。知らなかった。叔父しかり他の兵然り、基本的に軍に入るのは家督を継がない次男以降の男が多い。特に長男は家のために徴兵も免除されているというのに、宇佐美はわざわざ自分で北海道まで出向いているのだ。

「ご実家は何をなさっているんですの?」
「米農家ですよ。もうじき弟が継ぐと思いますが」

宇佐美の言い方はさっぱりしていて、特に未練がましさは感じない。ナマエの長兄なんかは鶴見家を継ぐことに誇りを感じているようだったけれど、そうでもない男というものもいるのか。今日の宇佐美はいつにない穏やかさで、なんだか彼の違う側面を見ているような気分になる。残りの蜜豆はやけに美味しく感じて、その理由がなんだかはよくわからなかった。


一時間と少しそうして時間を潰し、宇佐美は叔父の言いつけによってナマエを屋敷まで送り届ける流れになった。この前よりもなんとなく、距離が近づいたような気がする。顔を合わせた瞬間こそいつもの憎たらしい態度を見せていた宇佐美だったが、その後はずっと紳士的な態度だった。普段からこんなふうにしてくれればいいのに、と、おうとつのはっきりした彼の横顔を盗み見る。
普段なら煩わしいと思える無言の時間も今日は短く感じ、気が付くと屋敷の前に辿り着いていた。

「あ、あの…今日はありがとうございました。蜜豆、美味しかったです」
「そうですか、それは良かったです」

別れ際、ナマエはいつにない緊張を感じながらそう口にした。彼のことを同族嫌悪的な潜在意識から苦手だと思っていたが、これは見直すべきではないか。そう思った矢先、思考の塔はトンカチでがつんと殴られた。

「子守りひとつ出来ないなんて鶴見中尉殿に思われるわけにはいきませんからね」

では、とニッコリ余所行きの笑顔を浮かべ、宇佐美は踵を返す。全部、全部彼の作戦だったとここになってようやく気が付いた。なんてことだ。紳士的で嫌味を言わなかったのはここでこの一言を放つための作戦だったのだ。

「……やっぱり、嫌なひと…」

してやられたようなふうになって悔しいやら情けないやらでムカムカする。いや、勝手にナマエが勘違いしたことであると、充分わかっていることなのだけれど。宇佐美は鶴見至上主義であるからどんな命令だって喜んでこなすだろう。それはいけ好かない小娘の相手だったとしてもだ。






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