15 ごきげんようリブリング


ナマエは慰問袋の話を広く報せるために新聞社の協力が仰げないものかと考えた。しかし自分にある最大の伝手である陸軍の将校は現在満州の地に出征している。ただの小娘が声を上げたところで門前払いだろう。

「なにか悩み事?」
「…おタマさん…」

ナマエはその日、気の紛らわしでガレリィを訪れていた。もうあの慰安袋は宇佐美の手に渡っただろうか。恤兵部に集められた慰問袋は多くの手順を踏んで戦地に送られる。到着したかどうかは送り主に知らされるわけではないのだから、当然自分の慰問袋が無事彼の手元に届いているかを確かめる術もない。

「はぁ…わたくしは無力だと途方に暮れていたところですの…」
「あはは、ナマエちゃんは志が高いからねぇ。あたしはそんなこと考えたこともないからちーっともわかんないわ」

けらけらタマが笑う。裏表のないからっとした言い方だから、少しも嫌な感じはしないから不思議だ。

「お姫様のお悩み聞かせて?」
「聞いてくださるの?」
「もちろん」

タマは店内に客がいないことをいいことに、ナマエの前に座ってこてんと頬杖をつく。ナマエは「じつは…」と慰問袋のことを話し始めた。東京をはじめとする陸軍の本営が置かれている場所で徐々に広まりつつあること、まだ旭川では広まっていないこと、どうにか広める手立てがないかと悩んでいること。

「ふぅん。誰かその辺で捉まえたらうっかり記者さんなんてことないかしら?」
「上手くいけば良いですけれど、沢山ひとがいるんですもの。そうは行きませんわ」

例えば「ごきげんよう」と声をかけたひとがたまたま新聞記者だなんてことがあれば取っ掛かりにはなるのかもしれないけれど、そもそもそう簡単にいくわけがない。答えを見つけるのも難しそうな問いを二人でうんうんと考えていると、マスタァが紅茶の入ったティーカップを持って現れた。

「北海タイムスの旭川版編集長がここのお客だよ」
「えっ…!本当ですの!?」

予想だにしていない情報に思わず立ち上がってしまい、はしたないことをしたと恥ずかしくなって楚々とまた椅子に腰かける。マスタァがくすくすと笑った。

「ああ。旭川本社の人でね、ポークカツレツを気に入ってくれて食べに来てくれるんだ。良かったら紹介しようか?」
「ぜひお願いします!」

予想だにしていなかったところから助け船が現れた。もちろんマスタァに紹介を受けたからといって思う通りの結果が得られるとは限らないが、それでも自分だけでは掴むことの出来なかった糸口には違いない。
ナマエはマスタァの伝手で北海タイムス旭川版の編集長との約束を取り付け、数日後、早速新聞社へと足を運んだ。

「ごめんください。お約束をしている鶴見ナマエと申します」

会社の受付でそう言うと、女が新聞社に何の用だとばかりの顔をされた。こんなことは日常茶飯事だ。訝しまれながらも編集長に取り次いでもらうことが出来て、ナマエは応接室のソファに腰かけた。

「お忙しいところお時間頂戴しましてありがとうございます」
「構いませんよ。マスタァのご紹介ですから。いやはや、北鎮部隊の将校さんの姪御さんだとか」
「はい。歩兵第27連隊の鶴見中尉の姪です」

編集長は受付の人間のようにナマエを訝しむような態度は一切見せなかった。マスタァの伝手というものはやはり強い。あそこは先進的な西洋料理を提供するいわば高級店であり、銀座のカフェーしかり、そういう場所は特別な社交場になり得る。マスタァの人柄も手伝って、社交場の信頼は厚いのだ。

「今日はご相談事と伺っていますが、一体どんなご相談でしたかな」
「じつは、北海タイムスに広告を出せないかと考えているのです」
「ほう、広告ですか…」
「ええ。慰問袋というものをご存知ですか?」

ナマエの言葉に編集長は頷いた。ナマエはそこから、東京や名古屋では婦人会を中心に広まりつつあること、未だ第七師団を有する旭川では浸透していないこと、ぜひその普及を推し進めたいと考えていることを話した。

「叔父の縁もありまして、わたくしには第七師団にたくさんのお知り合いがいます。みなさま優秀で誇り高い兵隊さんですけれど、その身を案じるのは当たり前のこと…私のように内地で待つことしか出来ない人々の、力になりたいとう気持ちを後押ししたいのです」
「なるほど…」

ナマエは自分が東京の兄を通じで慰問袋を送ったことを話した。中身として相応しいと言われているものはどんなものなのか、梱包はどんなふうにすればいいのか。事前に書き留めてきた紙を編集長に渡せば、編集長は興味深そうにそれを眺めた。

「素晴らしいお志です。今は国民一丸となって我が国の勝利に貢献しなければなりません」
「それでは…」
「ええ、早速広告を打ちましょう」
「ありがとうございます…!」

編集長は第七師団の恤兵部と連絡を取り合い、細かな部分を詰めるようだ。ほどなくして北海タイムスの旭川版に慰問袋の広告が掲載された。噂によれば広告の掲載以後、恤兵部には慰問袋の申し込みが殺到したらしい。自分もこの広告の、彼らの一助になることが出来ただろうか。そうだとしたら、これほど嬉しいことはない。


日露戦争は明治38年、最後の戦いとなった樺太作戦の終結を受けて終戦に至った。7月の終わりのことである。日本中が我が国の勝利に沸き立ち、また東の小国が列強に勝利したことは世界中に大きな衝撃を与えた。戦場からの死亡通知はなかった。叔父も宇佐美も生きていてくれている。勝利よりもそのことを喜んでしまうのは非国民と呼ばれてしまうだろうか。
終戦から四ヶ月と少し。すっかり寒くなった北海道でナマエは第七師団の凱旋を待っていた。噂を聞いた民衆が師団通りに集まり、道の両側をこれでもかとばかりの人数が埋め尽くしている。

「帰ってきた!北鎮部隊だ…!」

群衆のうちの誰かが通りの遥か向こうに姿を現した第七師団の隊列を見とめて声を上げた。ナマエもそれにつられて南に視線を向ける。馬上には師団長の花沢中将、それから師団の上級将校が連なった。宇佐美は、叔父はどこにいるのか。
凄まじい熱狂のなか、第七師団は英姿颯爽なさまを民衆に見せつけた。ラッパが鳴る。待望の帰還に、なかには泣き崩れる者もいた。

「万歳!万歳!!」
「ばんざい!」
「万歳!」

どこからともなく聞こえた少年の声がどんどんと伝播していく。上げられる声は最初こそバラバラだったが、繰り返されるうちに不思議と一体感を増していく。誰に訓練されたわけでもないのに、まるで訓練された兵士の掛け声のように揃っていった。
隊列が続き、半分近くに差し掛かった時だった。まず和田の姿が見え、そのあとに叔父の姿が見えた。額に大きく包帯を巻いている。自力で歩けるようだけれど、とんでもない大怪我をしているらしい。ぞっと背中を冷たいものが伝う。彼は、彼はとはやる気持ちを抑えながら隊列を見ていたら、鶴見の少し後ろから行進してくる宇佐美の姿を確認することが出来た。

「宇佐美さんっ……!」

思わず名前を呼んだ。しかしこの歓声の渦の中ではかき消されてしまっているだろう。彼は随分と土や砂埃に汚れていたが、包帯の類いは見当たらなかった。良かった、と思ったその瞬間、宇佐美と目がばちりとかち合う。まさかこの歓声の中で名前を呼んだのが聞こえたというのか。彼は口の動きだけで「またあとで」と言うと、隊列の流れに沿って師団通りを行進していった。無事でよかった、生きててくれてよかった。その気持ちが溢れ、ナマエは彼が出征してから初めて涙を流した。


彼はまたあとで、なんて言っていたように見えたけれど、一体どこで待っていたらいいんだろう。いつ出てこられるかも分からないけれど、興奮冷めやらぬなかで屋敷で待っていることなんて到底出来なくて、行進を見送り多少人混みが減った中をかき分け、鷹栖橋の近くに向かった。ここならきっと彼に会うことが出来る。
あたりは息子や夫の帰還を喜ぶ家族で溢れ、今日ばかりは兵卒も自由に外を出歩いていた。もちろん群衆の中には息子の戦死の報せを聞いて泣き崩れているものもいる。多大な犠牲を払った戦争であった。ナマエはその人々を眺めながら、これから自分に出来ることは何だろうかと考えた。自国を強くして、国民を豊かにすることは重要なことである。しかし国というのは人である。いくら国の名が残ったところで、そこに暮らす国民がいなければ意味がない。自分には一体何ができるのか。

「眉間にシワ、寄ってますけど」

斜め後ろから声をかけられ、ナマエは勢いよく振り返った。そこには先ほどよりも若干小奇麗に顔の泥を落とした宇佐美が息を切らせて立っていた。ここまで走ってきたくれたのだろうか。ナマエはたまらなくなって、宇佐美の胸元の飛び込んだ。

「上等なお召し物が汚れますよ」
「そんなの構いませんわ」

泥と煙と、それから汗や血のようなにおいがする。生きているにおいだ。帰ってきてくれた。本当に、本当に彼が帰ってきてくれたのだ。

「…よかった、無事に、帰ってきてくださって…」

宇佐美の手がそっとナマエの肩に回された。彼の大きな手のひらを感じる。しばらく言葉も見つからなくて、ナマエは何と言ったらいいか、どこから話せばいいかをぐるぐると考えた。
どれくらいそうしていただろう。宇佐美がそっと身体を離し、じっとナマエを見つめる。

「慰問袋、わざわざ東京の兄君まで頼って送って下さったと聞きました」
「は、はい…なにか出来ることはないかと思って…お役に立てていたら良いんですけれど…」
「役に立ったどころじゃありませんよ。石鹸の匂いであなたを思い出して、ますます死ねなくなりました」

良かった。慰問袋は無事彼に届き、戦場で役立ててくれたようだ。自分に出来ることはほんのちっぽけなことだけだけれども、微力でも力は力だ。些細だって彼のためになれたのならそれでいい。冗談めかすような宇佐美の声音は少しいつもと違って聞こえて、ひょっとすると彼も凱旋の熱に浮かされているのかもしれなかった。

「そうだ、ナマエさんのお守り、役に立ちましたよ」

それを聞き、ナマエは更にパァっと顔を明るくした。自分のお守りが彼の役に立ったなんて、恥ずかしさを押して彼のためにお守りを渡してよかった。宇佐美が「戦闘の中で失くしちゃったんですけど」と言ったけれど、そんなの構わない。

「じゃあ、じゃあわたくし、また作りますわ!」
「ああ、でも、多分もう効かなくなりますからね」

宇佐美が当たり前のようにそう言った。効かないとはどういう意味だろう。ああいうお守りは一回しか意味がないということだろうか。そんな話は一度も聞いたことがない。彼の言う意味がわからなくて、ナマエが「どうしてですの?」とそのまま尋ねると、宇佐美が少し意地の悪い笑みを浮かべた。

「だってアレ、処女の陰毛だから効くんです。ナマエさんのそれ、僕がもうすぐ貰っちゃいますから」
「え?……え!?なっ……!!」

言われてすぐは意味がわからなくて、一拍遅れてそれを意味を理解する。なんてことを言うんだ。しかも往来に人が溢れていて、誰に聞かれているかもわからないのに。ナマエは自分の顔が真っ赤になっていくのをありありと感じた。宇佐美はそんなナマエを見つめ、人差し指の背でナマエの頬をすぅっとなぞる。

「こ、こんなところでなんてことを…!」
「あはは、流石の箱入りお嬢様にも意味が通じました?」

宇佐美が片方の目だけをぱちんと瞑る。前までなら馬鹿にしているのかと憤るようなところだったけれども、今はそんな気持ちにもならない。彼の言うことがやぶさかではないんだから、自分も大概なのだろう。

「僕はあなたがいなくても生きていけますけど、あなたがいないと毎日がつまらなくてしかたないんですよ」

なんて言い草だ。婦女子に言うような言葉じゃないだろう。だけどどこまでも彼らしくて、これくらい言う方が彼と自分らしい関係のようにさえ思えてしまう。

「…本当に、なんて失礼な方」

ナマエはふっと笑った。昔何度か同じ台詞を言ったことがある。だけどあの時とは全然違う。愛おしくて仕方がないという気持ちが滲み出ていて、宇佐美はもちろんそれに気が付いてくすくすと笑った。
キャラメルは屋敷の自室に大事に保管してある。彼を招いて話をしながらお茶と一緒にいただこう。きっと叔父の自慢話が山ほどあるに違いない。






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