14 はためくファーネ


戦場は苛烈を極めた。まずもって上層部の強行作戦がいただけない。旅順の要塞攻略は順艦隊撃滅のために必須のことであるが、ここには遼東半島租借後にロシア軍によって建設された強固な半永久砲台が備えられている。
高地の要塞群に籠るロシア軍に対し、こちらは20センチ砲で堡塁を攻撃する必要がある。第二次旅順攻囲戦ではバルチック艦隊対策で国内の沿岸部に配備されていた28センチ砲台を引きはがして野戦にまで転用したが、それでもロシア軍の堡塁の完全な破壊には及ばなかった。

「突っ込めッ!!」

合図に怒涛の声が上がる。何よりの愚策は、歩兵による突撃を強行し続けたことであると小隊の人間のほとんどが考えていた。高台までは見晴らしのいい斜面が続くだけである。そこを歩兵で突撃しようなんていうのは格好の的であり、堡塁に潜むロシア兵を狙撃する技術も未熟であったため、突撃で自軍の兵の多くが命を落としていった。

「おい、慰問袋が届いたぞ」

そう言ったのは誰だったか。さほどなにも考えずに聞こえた言葉だったから、誰のものがもよく分からなかった。慰問袋とは恤兵部によって届けられるもので、部隊に対する支給品とは違って個人あてに届くものだ。これは兵卒にとって戦場における数少ない楽しみのひとつであり、同封された手紙を見ながら涙ぐむ兵卒なんかもよく見かける。
しかしこの慰問袋というものはこの日露戦争開戦以後に始まったものであり、まだ広く普及しているわけではなかった。聞くところによると東京や長野なんかでは徐々に増えつつあって、だからこの第三軍と呼ばれる部隊においては第一師団の連中が良く受け取っているものであり、北海道を拠点とする第七師団の人間宛てのものはほとんどない。だからどうせ自分には関係がないなとあまり深く考えないままでいると、不意に名前を呼ばれた。

「おい宇佐美、お前宛のものが届いているぞ」
「は……私宛ててありますか?」
「ああ。早く受け取っておけよ」

声をかけてきたのは上官である軍曹の月島だった。自分宛てだなんてはてさてどういうことか。もしかすると新発田でも慰問袋の試みがあり、実家から送ってくれたのかもしれない。新発田の第二師団は第一軍として開戦間もない時期から戦場に動員されている。

「宇佐美上等兵。来たか」
「鶴見中尉殿…月島軍曹から私宛ての慰問袋が届いたと…」
「ああ、これだ。受け取りなさい」

恤兵部の運んできた荷の運び込まれる天幕には鶴見がいて、木箱の上には晒し木綿の袋が乗っている。長男でありながらも家のことを任せきりにして出ていった息子にわざわざこんなものを送ってくれるなんて、と両親の顔を思い浮かべながら差出人の名前が書かれた荷札に宇佐美は目を見開いた。鶴見ナマエ。そこには確かに彼女の名前が書かれている。

「え…?」
「慰問袋の話を聞いて東京に住む兄弟の伝手で送ってくれたそうだ」

驚きを隠せない宇佐美を見ながら鶴見がなめらかにそう説明をした。なんで、どうして彼女が自分に送ってくるんだ。しかも旭川で募集が始まったのならまだしも、今の話では旭川で募集されたものではなく、彼女が独自に手を尽くしたということだ。

「受け取りなさい。ナマエから時重君への気持ちだ」

鶴見が肩をぽんと叩く。おずおずと木箱に乗るそれに手を伸ばした。宇佐美は慰問袋を抱えたまま、中身も確かめることが出来ずに自分の天幕へと戻る。移動中にかんかんと音がしたから、缶詰が入っているのかもしれない。

「おう、遅かったじゃねぇか」
「……なんでよりによってお前がいるんだよ」

天幕には尾形の姿があった。同じ小隊に所属しているのだからおかしなことは何もないが、なんで他の誰でもなくこの男がいるなんて運が悪い。目ざとく宇佐美の腕の中の袋に目をつけて「それ、慰問袋か?」と尋ねてきた。

「だったらなに?」
「誰からだよ。北海道じゃ始まってないんだろ?実家からか?」

揶揄うというよりは純粋な疑問から来る質問のようだった。しかし、答えを言ったら絶対に揶揄われることなんて目に見えている。だが誤魔化しようもないし、札を見られたらそれこそすぐにバレてしまうことだ。

「……ナマエさんだよ」
「あの女がお前に?」

尾形が訝し気な顔をする。宇佐美自身だって驚いているのだ。彼女と自分の関係は何となく変わりつつあると思っていたけれど、まさかこうしてここまで手を尽くすほどでいるなんて想像もしていなかった。離れたところで知る彼女のまごころは、予想もできないほど宇佐美の胸をくすぐった。

「ははぁ。慰問袋までとは相当だな。おい、中身は何が入ってるんだ」
「僕もまだ見てない」

尾形が言外に中身を確認するよう顎で指す。なんでお前に、と思うも、なにかきっかけがなければ開けづらいような気もして、宇佐美は尾形の隣にドスンと腰を下ろすと慰問袋に手をかけた。口を開くと、ふわりと彼女の匂いが香ったような気がした。
それにどきりと心臓を鳴らしつつも、それを尾形に悟られないように平静を装う。尾形が勝手知ったる顔で中身を覗き込んだ。

「缶詰、缶詰、手拭い、薬、石鹸…なんだよ、おもしろいもののひとつでも入ってるかと思ったのに」

中身をひとつづつ尾形が読み上げる。そうか、この香りの正体は石鹸なのだ、と、少し遅れて気が付いた。彼女が手巾を返しに来たときに感じた香りと同じだ。きっと普段から使っている石鹸なのだろう。

「鮭缶ひとつくれ」
「は?なんでだよ」
「これだけあるんだからひとつくらい構わんだろう」

じろりと尾形をねめつけてみても、それくらいでこの男が怯むはずもない。尾形は「ケチな男だな」と一方的に文句を言って「お前が図々しいだけだろ」と返してやった。やれやれと首を軽く振ると、尾形は次の標的を決める。

「じゃあ石鹸分けてくれ。新しいものが粗悪で仕方がない」
「ダメ」

宇佐美は間髪入れずにそう言った。鮭缶より薬よりそれは絶対にダメだ。彼女と同じ匂いが別の男からするなんて有り得ない。

「鮭缶やるから大人しくしてろよ」

この石鹸を取られるくらいなら鮭缶を渡してしまったほうがいい。宇佐美は袋の中から鮭缶を取り出して尾形の手のひらの上にぽんと乗せる。尾形は自分から言い出したくせに明るいところに出た猫のような目をして手の上の鮭缶を見つめ、それから宇佐美に視線を移す。

「……お前、顔真っ赤だぞ」
「うっさい」

自分でもわかる。彼女と同じ石鹸の香りを嗅いでからどんどんと熱が顔に集まっているのだ。彼女の顔が目を瞑らなくたって想像できる。まかり間違っても他の連中にはこんな顔を見られてしまわないように、宇佐美はそそくさと天幕からひと気のないところへと移動した。


最後の現役兵力である第七師団が動員されたのは夏。それから季節が二つ変わり、今は冬の装いを増す12月になった。この地は北緯で言えば佐渡島と同じくらいの位置であるが、シベリアからの寒気が流れ込むためか、冬の到来は日本よりも早いような気がした。近頃は氷点下まで気温が下がることが当たり前になっていて、風を凌ぐために塹壕にもたれてそれをやり過ごした。

「あんなの単なる親の七光でしょ。みんな勇作殿を美化しすぎてない?」
「やっぱそうだよな?」

塹壕から尾形が小銃を構え、堡塁に潜むロシア兵が頭を出した瞬間を狙って狙撃する。腹立たしいことだが、この男ほど腕がいい狙撃手はいない。

「化けの皮を剥がせば鶴見中尉殿も気が変わる。一皮むけばみんな同じだ」

尾形はとうとうと腹違いの弟である勇作のことを語り続けた。この手の話はいままで何度も何度も聞かされていたが、出征してから頻度も深度も増した気がする。

「宇佐美、お前ロシア兵を殺しても悪かったなって思わないよな?」
「思わない」
「殺されるのはそれなりの非があるからだ」
「うんうんわかる」

ばかばかしい。敵兵を殺すことに罪悪感なんてあるものか。ごちゃごちゃとそう言うやつからここでは死んでいくのだ。敬愛する鶴見のために働く。戦闘はそのひとつにしか過ぎず、だからこそ宇佐美は迷いなく戦場を駆ける。

「誰だって罪を犯しうるんだ。そいつらを殺したって罪悪感なんてわかないだろ?」
「ないね」

尾形は何に縋るつもりなのか、いつもよりも饒舌に罪悪感について話していた。尾形はどうしても勇作の化けの皮とやらを剥いでしまいたいらしい。勇作が消えれば花沢中将を操り、師団を完全に掌握出来ると言っていた。せっかく面白くなると思ったのに、肝心の勇作を引き込むことも出来ず、人望の厚さだなんだと殺す話も立ち消えた。

「両親からの愛の有る無しで人間に違いなど生まれない」
「そのとーり」
「やっぱりオレはおかしくないな」

そんなことは知ったことじゃない。が、ここで賛同しておけば面白いものが見られる。尾形が勇作の化けの皮を剥がすために捕虜を殺させることを思いついた。宇佐美はそれに協力し、捕虜の一人を天幕から離れたところにこっそりと連れ出した。
その夜、尾形は大事な話があると言って勇作を連れ出した。この戦争が始まってから誰も殺していない勇作に捕虜を殺させる算段であったが、思いのほか壁は強固であり、勇作は捕虜を殺さなかった。それどころかあまつさえ尾形に対して「罪悪感のない人間などいない」とまで言い、大いに尾形を混乱させた。

「まいったな。やっぱり俺がおかしいのか?愛の無い妾の子だからか?」

勇作が先に天幕へ戻って行って、尾形はぽつりと言葉をこぼした。宇佐美はそれをじっと聞く。

「いや…待てよ。実は俺も父上から愛されていたとすれば?その場合俺と勇作殿との違いは何も無いってことだよな?清い人間でも何でもなくて、あいつだって人を殺して罪悪感なく生きられる素質があるということだよな」

こういうときの尾形は、まるで小さな子供だ。なにか幼いころのまま変わることのできていない部分が露出するような、そういう不気味さがあった。宇佐美にとって尾形の子供のような部分が露出することは些末なことであったが、これはこのあと面白いことを言いそうだ。

「じゃあ父の愛を確かめるためには?」

母を求める子のように、父に認められたい子のように、宇佐美にとってはもうずいぶん前に乗り越えたはずの場所で尾形は足踏みをしていて、いまだそこから抜け出すことが出来ていない。

「勇作殿がいなくなればいい。そうだよな?」

尾形がじぃっと視線を宇佐美に向ける。捕虜のそばの穴に隠れていた宇佐美は「そうだね」とそれを肯定した。そうだ、それでいい。戦闘のさなかで死んでしまうことはよくあることで、まして彼は連隊の旗手である。これできっと、当初の計画の通りになる。


いよいよ第三次総攻撃が始まり、先日は白襷隊という決死隊が構成されて夜襲をかけたものの、結局指揮官を失い、五時間近い激戦も空しく撤退をした。その後、攻撃目標を要塞正面から203高地へと変更することと相成り、本格的な203高地の攻略が始まった。
27日から始まった203高地攻略戦も苛烈を極め、一部を占領してもそれを奪取される、一進一退の状況が続いた。
12月4日早朝、攻撃は開始された。耳をつんざくような銃声、地響きのような28センチ砲の轟音、呻き声はもう仲間のものか敵のものかも分からなかった。

「進め進めェッ!!」

鼓舞する声が聞こえる。前方には勇作のぴんと伸びた背中とひらひら靡く軍旗が見えた。はるか後方ではあるが、尾形が小銃を構えているはずだ。前から飛び込んでくるロシア兵に応戦する。30年式歩兵銃よりも細い銃剣が宇佐美に襲い掛かり、それを寸でのところで避け、敵兵を返り討ちにする。次だ、と思って視線を前に向ける瞬間、自分の軍衣の物入れのあたりを引き裂かれたことに気が付いた。ダメだ、そこには彼女から貰ったお守りが入っている。すっかり汚れてしまった白いお守りが顔を出し、ぽろりとこぼれ落ちた。

「っ…くそ!」

宇佐美はお守りに気を取られて思わず手を伸ばす。何をしてるんだ、目の前の敵を殺さなければ次に落ちるのは自分の命だ。お守りに伸ばした手を引っ込めて体勢を整えるその瞬間、自分が立っていたはずのところを銃弾が通り抜ける。あれは体勢を崩していなかったらきっとそのまま撃ち抜かれていた。

「このやろうッ…!!」

宇佐美は襲い掛かってきた敵兵に向かって銃剣を突き立てた。拾い損ねたお守りはもうどこに行ったかも分からなくなってしまったが、文字通りあれに守られたようだ。宇佐美は口元に笑みを浮かべる。
翌5日10時、27連隊は203高地の占領に成功する。突き立てられた旗が威風堂々たる貫禄で風になびいた。






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