13 祈るユングフラオ


配られる号外には華々しい戦果が朗々と謳われる。遼陽会戦において日本軍が勝利し、遼陽を占領した。日本軍は旅順において総攻撃を仕掛け、間もなく旅順を陥落する。勇猛な白襷をかけた決死隊が猛々しく奇襲作戦に従事した。
自軍を賛美するものばかりのこの記事がどれくらい本当のことを言っているかはわからない。ただわかるのは、たとえ勝ち戦であろうともそこには戦死者がいるということだ。
第七師団が動員された後もナマエの暮らしはそう変わらなかった。一度父から実家に戻ってこないかという旨の手紙はあったけれど「ここで叔父さまの凱旋を待つのがわたくしの勤めですから」と理由を付けて断った。残された自分がジタバタしても仕方がない。今は勉学に励み、戦後の社会で能力を発揮できるように努力をすることこそが自分に出来る数少ないことだろう。

「アラお姫様、こんにちは」
「おタマさん、ごきげんよう」

師団の面々がいなくなると、旭川での知り合いは途端に少なくなる。自分の交友関係がいかに狭く、結局のところ叔父に頼っていたのだと痛感させられた。こんなことではいつまでも自立にほど遠い、と思うけれど、宇佐美に刺された釘もあることだし、あんまり迂闊な行動は出来ない。そんなことで出かける先といえば今もガレリィくらいのもので、話し相手はもっぱらタマと通いの女中ばかりだった。

「今日はなにか食べていく?」
「いえ、お紅茶だけいただけますか?」

マスタァはいないのか、タマが接客をしてくれる。食事時ではないということもあって、店内はがらんとしていた。それにこの店は旭川の富裕層が客層の多くを占め、立地上必然的にそれは軍の関係者であることが多い。一般庶民の生活はそう変わりはないけれど、軍の人間はやはり贅沢を控える傾向があり、旭川に詰めたままの将校も足が遠のいているのかもしれない。

「あたしも一緒していい?」
「はい、ぜひ」

タマはナマエの注文の紅茶と自分用の緑茶を持ってテーブルに戻ってきた。ふんわりと馨しい紅茶の香りは今日も変わらず優雅である。この香りは叔父と密接に紐づいていて、だから叔父のことを殊更強く思い出してしまう。

「ナマエちゃん、無理しないでね」
「え?」
「だって…出征が決まってからずうっとお顔が暗いんだもの。元気出してなんて言えないけど、ナマエちゃんを心配しないなんて出来ないわ」

タマがいつになく真剣な視線をナマエに向けた。あまり顔には出していないつもりだったけれど、見破られてしまうくらい顔に出ていたらしい。ナマエは自分の頬に手を当てる。

「ごめんなさい。気を遣わせるつもりはなかったんですけれど…」
「仕方ないわ。だって戦場に大好きな叔父さまが行くだなんて気掛かりで仕方ないでしょう」

タマが手を伸ばし、ソーサーに触れていたナマエの手をきゅっと握った。ナマエはそれに応えるためにカップとソーサーをテーブルに置くと、伸ばされたタマの手を握り返す。順風満帆、快進撃を続ける我が軍の報せ。だけど死者のいない戦争なんてない。そのひとりに大切なひとがなってしまうかと思うと、身を引き裂かれるような心地だ。

「鶴見様もお強い方だし、宇佐美さんだってそんな簡単にやられるお方じゃないでしょ?」

ね?と優しく言い聞かせるようにタマが言った。彼女のいう中に叔父だけではなく宇佐美が含まれていて、前までは否定をしたくなっていただろうけど、今はそんな気にならなかった。

「アラ、宇佐美さんは関係ありませんって今日は言わないのね?」

タマももちろんそんな変化にはすぐに気が付いて、きょとんとした顔になってそう尋ねる。ナマエは自分の頬に熱が集まっていくのを感じながら、タマをちろりと見返した。

「宇佐美さんには無事に帰って来てくださらないと困りますもの」
「アラアラ、まぁまぁ」

言葉の意味を理解したタマがにんまりと唇を歪めた。去年の秋、彼女に「好い人はいないのか」と聞かれたときに彼女が例えばと宇佐美のことを持ち出してきたことがあった。あのときはまさかあんな意地悪な人、と思ったけれど、タマからすればあの時から予感のようなものがあったのかもしれない。

「…やっぱり今更だって笑ってしまうかしら?」
「笑ったりなんかしないわ。あたしはお似合いだと思うよ」

タマが悪戯っぽく言った。自分でもなんでこんなことになっているのかよくわかっていないのだ。あれだけ目の敵にしていた相手にこんな感情を抱くことになるなんて考えたこともなかった。

「どんなところが好きなの?」
「…わかりません。でもその…う、宇佐美さんを見てたらこう…自分が自分ないような…そんな心地になるんです…胸が苦しくなって、姿を見かけるだけで高鳴って…」
「うふふ、それは間違いなく恋ね」

恋だなんて、想像したこともなかった。いや、自分はいつか親の決めた相手と結婚するんだと、そういう答えがあったから想像することを打ち止めされていた。タマに握られている手にじっとりと汗をかいたような気がする。

「尚更無事に帰って来て貰わなきゃ困るし、帰って来た時にナマエちゃんが倒れてたなんてことになったらもっとダメよ?」
「そうですわね、おタマさん、ありがとうございます」

それからいくつか季節のことや西洋料理のことなど、なるべく気がまぎれる話題を選んでおしゃべりに興じた。十数分ほど経ったところで「そうだ」とタマが何かを思い出したように足り上がる。

「今日は珍しいものがあるの」
「面白いものですか?」

待ってて、と断って、タマは厨房の方へと一度引っ込むと、ほどなくして手のひらに一寸程の大きさの四角い粒がいくつか乗せて戻ってきた。あれは何だろうか。包み紙に書いてある文字を読むのと同時くらいにタマが口を開く。

「キャラメルよ。父ちゃんがこないだ東京に行ってね。そのとき買ってきてくれたの」
「まぁ、初めて見ましたわ」

先日新聞広告に載っているのを見かけた。戦地慰問傷病兵への贈答品としての広告だった。話には聞いたことがあったけれど、本物を見るのは初めてだ。差し出されたそれは引き紙に包まれ、上部には会社名とミルクキャラメルの文字、それからこの会社の商標であるラッパを吹くエンゼルが描かれている。

「二粒持っていって?」
「えっ、そんな、悪いです」
「いいの。ホラ、宇佐美さんが帰ってきたら一緒に食べてよ。ね?」

キャラメルを差し出され、ナマエはおずおずと手のひらを出す。タマの手から自分の手に渡ったキャラメルは心なしか輝いて見えた。


東京では、慰問袋というものの呼びかけがあったらしいと噂で聞いた。自分もそれに参加することが出来れば、戦場で戦う彼らの力になることが出来るかもしれない。慰問袋は従来の恤兵部への寄付とは違い、個人から個人へ送ることが出来るそうだ。これは画期的なことである。もちろん相応しいものを選んで入れる必要はあるが、やはり我が国のために戦う兵士たちになんとか支援をしたいという国民感情に応えたものであった。

「婦人会…東京……」

主に呼びかけているのは東京のとある婦人会であるらしい。東京と言えばナマエの二番目の兄がいるはずだ。ひょっとしたら口をきいてくれるかもしれない。ナマエは早速筆をとり、便箋に向かった。
内容が内容だったからか、兄からはすぐに返事が来た。よい心がけだ、感動した、と感嘆の意を添えられ、また婦人会にも働きかけてくれたおかげで慰問袋を送る経路を得ることが出来た。

「宇佐美さんはどんなものがお好きなのかしら…」

聞いたこともなかった。彼が好きなものは叔父その人であるが、そのほかの趣味嗜好はあまり知らない。無難に役に立ちそうな日用品を届けるべきだろう。

「うんと…食べ物もお送り出来るのね。缶詰…あとはお薬?」

兄から言われた慰問袋に相応しいものの中には食料や薬、衣料品などが書かれていた。ちり紙や石鹸などの日用品も好ましいようだ。彼に宛てたものだけれど、なるべく広く使うことの出来るものを送るほうがいいかもしれない。
ナマエは晒し木綿でできた袋に手拭いや薬品、鮭や海苔の佃煮の缶詰、それから自分のお気に入りの石鹸を詰める。手紙を添えようとしたけれど、何を書いたらいいのか分からなくなって諦めた。

「お嬢様、失礼いたします」

木綿の袋を前にあれこれと考えていると、女中が声をかけてきた。何かあったのだろうかと「どうぞ」と部屋の中に招き入れる。

「どうかなさいました?」
「申し訳ありません。石鹸を探しておりまして…先日買い置きを用意したはずなのですが」

女中の言葉にナマエはハッと気付いて慰問袋のなかから詰めたばかりの石鹸を取り出す。彼女の用意した買い置きとはこれのことだろう。

「すみません、ここに。その、慰問袋を用意しておりまして」
「慰問袋、ですか?」

女中は耳慣れない言葉に首を傾げた。やはりまだ慰問袋の認知度というものは高くない。もっと北海道でも広報をしていろんなひとに知ってもらうべきだろう。戦場に夫や息子を送ることになった女たちは何か自分にも出来ることを、ともどかしく思っているに違いない。

「陸軍の恤兵部への寄付とは違ってね、こうして袋に詰めたものを個人に宛てて送ることが出来るんです」
「まぁ、それはようございますね」

女中からの好感触にナマエは少し得意な気分になった。彼女はとくに家族に軍属の人間を持っているわけではないが、それでもこうして賛同してくれるのだ。女中はいくつか考えるようにしてから口を開いた。

「旦那様にお送りなさるのであれば、何か甘いものを添えたいですね」
「えっ……」

思わず短い声を上げてしまう。そうか、彼女からすれば、同然のように叔父へ渡すものだと思われて然るべきだろう。女中は短い声を上げたナマエにきょとんとした視線を向ける。

「な、なんでもありませんわ。そうですね、叔父さまなら飴か…金平糖なんかも日持ちがしていいかもしれません」
「ええ、そうですね。そうだ、飴売りが来ていないか見て参ります」
「お願いします。あと、石鹸も」
「かしこまりました」

女中はにこやかな笑みで返事をすると、早速踵を返して遣いに出かけて行った。そうだ、叔父にも送るのが自然だ。叔父のことをないがしろに思うわけでは決してないけれど、叔父に対して自分が出来ることなどないだろうという気持ちがそもそもあるからか、慰問袋の件はまったく頭の中から抜けていた。

「…もうひとつ用意しなくっちゃ」

ナマエは晒し木綿の生地を取り出すと、適度な大きさに切ってちくちくと袋を縫っていく。叔父の慰問袋にも手拭いやちり紙などの日用品と、薬を入れよう。それから女中の買ってきてくれるだろう甘いものを詰めれば、きっと喜んでくれる。叔父の慰問袋には手紙を入れることにした。宇佐美の時と違って少しも迷うことなくすらすらと書くことが出来た。


翌日、ナマエはすっかり準備の終わった慰問袋を抱えて旭川の駅に向かった。女中が「お兄様宛てのチッキなら私が出してきますよ」と言ってくれたが、宇佐美宛てのものがあることもあって「自分で行く」と譲らなかった。
晒し木綿の袋そのままとはいかず、二つをまとめて麻の袋に入れてぎゅっと紐で縛った。これで二つがばらばらになることはないだろう。

「もし、小荷物をお願いしたいのですけれど」

旭川駅に着いたナマエは貨物取扱所に真っすぐ向かい、小荷物の発送受付をする。東京の兄の最寄りの駅の名前を書き、係員に麻袋と記入を終えた荷札を渡す。あとで兄にはチッキを発送したと電報を打っておこう。自分の慰問袋が彼の手元に着くのはいつになるのだろうか。

「荷受人はご家族ですか?」
「ええ、東京で働いている兄ですの。どうぞよろしくお願いしますね」

係員といくつか話をして、ナマエは旭川駅を後にする。宇佐美も甘いものがそこそこに好きなようだし、とは思ったけれど、タマから貰ったキャラメルは入れなかった。あれは彼が帰ってきたときに一緒に食べるのだ。






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