11 指先のヒッツェ


宇佐美にあんな態度を取られて、もうどんな顔をすればいいのかわからなかった。あんなのまるで房太郎に妬いていたかのように見える。しかも、その答えをこっちに丸投げなんてあんまりじゃないか。なにもかも言葉にすることが美しいとは思わないが、それにしたって他人の気持ちを正確に察するなんて無茶な話だ。
追い詰められるような空気は少し怖かったけれど、彼の人差し指が頬に触れる感覚は胸がどきどきした。彼の気持ちを名付けてしまいたくて、その方がいくらも簡単に楽になることができる。でもそんなことしてもいいのか。

「自分で考えてみては…なんて」

はぁ、と大きくため息をつく。ガレリィに行けばうっかりタマに相談してしまいそうで、なんだか足を運ぶのも憚られる。屋敷に籠っていくらか本を読んでいたけれど、集中できなくなって仕方なく外に出ることにした。
ガレリィとは反対の方向に足を進め、少ししたところで見覚えのある男に出くわした。宇佐美の同輩の尾形である。

「ごきげんよう、尾形さん」
「……おう」
「任務からお帰りですか?」
「ああ。お前はまた散歩か?」

任務にして身軽そうだが、彼らの任務の内容なんて知る由もない。それに開戦以降動員がかかっていないとはいえ、第七師団にも特別な命令が下されているかも知れないなんてことは想像に難くない。

「そういえば、宇佐美がお冠だったぞ」
「え?」

思い出したように尾形が言った。一体何の話だろうか、と考え、すぐにそれが目下ナマエを悩ませたあの日のことを指しているのだろうことを理解するが、ナマエが口をはさむ前に尾形が続ける。

「色男と往来でねんごろにしていたらしいな。あの日は帰ってくるなり宇佐美が当たり散らして面倒だった」
「ねんごろだなんて、そんなんじゃありません!」

房太郎が色男であるかどうかは別にして、少なくともねんごろにしていたというのはかなり語弊がある。あれは房太郎が勝手にわしゃわしゃと撫でて来ただけであるし、もちろんナマエには下心なんてなかった。それはあの日に宇佐美にだって充分言ったはずなのに。

「あれは嫉妬深いし思い込みも激しいからな。せいぜい食いつくされないように気を付けることだ」

尾形がにやりと口元を歪める。そんなことを言われたってこちらではどうしようもないじゃないか。そんな言い方ではまるで嫉妬をするのが当たり前のような間柄みたいだ。「どういう意味です」と少し抵抗するように言ってみたけれど、尾形はにやにやと笑うばかりでなにも教えてくれない。

「まぁ、自分で考えてみろよ」

奇しくも宇佐美と同じような台詞で締めくくられ、尾形はすたすたと鷹栖橋のほうへと歩いて行ってしまった。彼はそもそも言葉の足りてないようなひとだとは思うけれど、今回も例に漏れないようだ。


ひとりでの散策を再開し、街の様子を見て回った。開戦から幾月も経っても、駐屯している第七師団が出征していないせいか旭川の町はいつもの顔をしている。
師団通りを南に向かって歩いていると、道の向こうに宇佐美の姿が見えて思わず近くの生垣に身を隠す。別に疚しいことなんて何もない、堂々としていればいいと思うのに、同時にどんな顔をすればいいのかわからなくもなる。

「……尾形さんとあんなお話をしたせいだわ…」

こっそりと顔を出して様子を伺うと、やはりそこに宇佐美がいる。大丈夫だ普通の顔をして「ごきげんよう」とでも言えばいい。それ以外に何がある。
そう思って意気込んで、さっそくそこで出鼻を挫かれる。町娘がひとりトトトと宇佐美に近づいて話しかけ始めたからだ。

「もし、兵隊さん」
「はい」
「私、道に迷ってしまいまして…」

娘はどうやら道に迷ったらしい。ナマエはもう一度隠れることも立ち去ることも出来なくて、思わず息をひそめてその場でなりゆきを伺う。

「どこに行かれるおつもりでしたか?」
「駅前の散髪屋です。父の遣いで…」

娘のほうはチラチラと宇佐美の顔を見ていた。あの視線にどこか覚えがある。そうだ、初めて二人で甘味屋に行ったとき、往来ですれ違った娘や、甘味屋でわざわざ串団子をオマケにつけてくれたあの愛想のいい店員と同じだ。

「駅前の散髪屋でしたら、この通りを真っ直ぐ南に向かって下さい。旭川駅の一本手前の通りを東に入ったところに散髪屋がありますよ」

宇佐美は愛想よくそう言ってみせた。どことなく口元にも笑みを浮かべているように見えて、なんだか口調だって優し気だ。自分にはこんな優しそうな顔なんて見せてくれたことないのに、と少し子供じみた考えが過ぎる。

「えっと、私その、道に疎くって……良ければ案内して下さいませんか?」

大胆な娘の言動に目を丸くする。師団通りを真っ直ぐ駅に向かって東に曲がるだけの道の何が難しいというのか。こんなのどこからどう見ても口実で、宇佐美を口説き落とそうとしているのか美人局なのかの二択でしかない。
宇佐美はきっと断るに違いない、と思っていたら、宇佐美は平然とした声で「良いですよ」と道案内を快諾する。

「ありがとうございます…!」
「いえいえ、町の皆さんのために働くことも我々の務めですから」

まるでそのままの好青年の顔をして、宇佐美は娘を案内し始めた。信じられないものを見ているような気持ちになり、開いた口が塞がらない。自分にはあんな顔も掛け値なしの親切もしてくれたことがないのに。
気付いたら、いつの間にか二人のあとをつけてしまっていた。声はあまり聞こえてこないが、なんだか宇佐美と娘は随分と楽しそうに談笑している。それが面白くなくて口角が無意識のうちに下がっていく。

「えっと、あの、私、三条通の蕎麦屋の娘なんです。よければ今度食べにいらしてください」
「そうなんですか。では是非同輩を連れて伺います」

三条通の蕎麦屋と聞いてムッと顔を歪めてしまった。三条通の蕎麦屋と言えばべつに散髪屋とそう離れていないじゃないか。しかもあの店の店主は開拓移民の出というわけでなし、この娘はきっとそもそも散髪屋の場所なんてわかっていたはずだ。宇佐美が蕎麦屋に行くのを想像するとそれだけで胸がもやもやする。
ついに散髪屋に送り届けるまで尾行をしてしまい、宇佐美が振り返る前にここを離れなければと慌てて踵を返す。しかしそれも虚しく背後から声をかけられてしまった。

「…ナマエさん?」

名前を呼ばれてびくりと肩を震わせる。ぎこちない動きで振り返れば、宇佐美が不思議そうな顔をして立っていた。

「…ご、ごきげんよう」
「こんなところでどうされました?」
「えと、その…え、駅に!駅に用事がありましたの!」

あたふたと言い訳を探す。いくらでも考えれば言い訳なんてあるはずなのに、こういう時に限って上手い言い訳なんてひとつも見当たらなかった。ナマエの渾身の言い訳を宇佐美はくすくすと笑う。

「つけて来てたのわかってましたよ。誰かまでは気付きませんでしたけど」

そう言われて羞恥に顔が赤くなるのを感じる。尾行に気づいていないような口ぶりだったから言い訳をしたのに、わかっていたのなら言い訳にもならないじゃないか。宇佐美は優位に立ったとばかりの余裕さでナマエに追撃をかけた。

「で、どうして尾行なんて慣れない真似を?」
「そ、それは…」

もごもごと言い淀む。普段ならナマエが黙ればいくらでも話しかけてくるくせに、今日に限ってナマエの言葉を待って何も言ってくれない。

「う、宇佐美さんが…」
「僕が?」
「その、えっと…し、知らない女性と…話していらしたから…」

だからなんだ、と言われてしまえば、もうその先に続けることのできる言葉は見つからないような気がする。ナマエは上唇と下唇をもごもごと合わせて、左手で右の指をぎゅっと握った。

「僕がさっきの女性に口説き落とされると思って心配になったと」

宇佐美が直接的な表現を口にして、思わず顔を上げれば余裕の笑みを浮かべたままの宇佐美と目が合った。そう言われてしまうとその通りなのだけれど、それを肯定してしまうのはいかがなものなのか。

「…私にだけ行動を制限させるようなことを仰って、それで宇佐美さんは何にもなしだなんて、そんなの不公平です」
「あれ、やきもちですか?」
「違います!」

咄嗟に否定をしたけれど、そうでなければなんだと言うんだろう。頭の中で色んな感情がぐちゃぐちゃになっていく。こんなに乱される。彼を前にするといとも簡単に。

「う、宇佐美さんが先ほどの女性に私とはあまりに違う態度をお取りになるから気になったんです!紳士たるものどの女性にも分け隔てなく対応するべきでなくて?」

息を全部吐き出してしまうような勢いでそう言った。八つ当たりのような論でもう自分でも何を言っているのかわからない。売り言葉に買い言葉でいいから早くなにか言ってくれと指先を更に強く握った。

「ナマエさんと別の女性に、同じ態度取るなんて」

そんな言葉とともに宇佐美の手がナマエへと伸びる。そしてナマエの指先に触れ、強く握る手をゆるゆると解いていく。かさついた指先が人差し指の輪郭を撫で、驚いて動きを止めるとその隙をついて手を取り去った。

「そんなの、出来るわけないですよね」

じっと宇佐美がナマエを見つめた。少し前までなら「そんなに私のことが気に食わないのか」としか思っていなかったはずだ。なのに今は彼の一挙手一投足がどうしようもなく胸を高鳴らせる。

「屋敷にお戻りになるならご一緒します」

宇佐美はそう言って指先を解放すると、西洋の紳士がするがごとく自らの腰に手を当て、ナマエにそこへ掴まるように促した。恐る恐る手を伸ばし、そっと触れたのを確認してゆっくりと歩き出す。
あの娘よりもよほど知った仲だというのに、あの娘よりも会話が弾まない。それがもどかしくて、自分ばかりがそう思っている気になって嫌になる。
屋敷までの道のりも残り半分というくらいのところに差し掛かったとき、宇佐美がふと口を開いた。

「お国のための師団ですけど、町の住民に助けられていることは事実ですし、心象を良くしておくに越したことはないと鶴見中尉殿が仰っていたんです」
「え?は、はい…」

突然なんの話だろう。沈黙を破るためとしてはなんだかまとまりのない話題だ。ナマエ話の意図が掴めないまま相槌を打つ。すると、宇佐美が視線だけでナマエの方を向いて、それからすぐに真っ直ぐに戻した。

「あの女性に親切を働いたのは、そういう理由です」
「え、えと?」
「ハァ…なんでわかんないかな」

宇佐美の言葉が足りないように感じるが、もしかして足りないのは自分の読解能力なのか。そこから会話が一度途切れてしまって、ナマエは再開する機会を伺っていた。ざりざりざりと土を踏む音ばかりが響く。「あの」と口を開こうとした瞬間、ナマエの言葉を遮るように先に宇佐美が口を開いた。

「あの女性には第七師団の兵士として、必要ないだろうとわかっていても道案内をしました。でもあなたを屋敷まで送り届けるのは、住民の心象をよくするためじゃありません」

彼が足を止め、それに合わせてナマエの足も止まる。頭ひとつ分程度上からじっと見下ろし、そのぱっちりとした瞳がナマエを拘束する。

「この意味、わかりますか」

ほら行きますよ、と、ナマエの返事もなにもかも無視して歩き出してしまって、彼の腕に引っかかっている手が少しだけ引っ張られるような感覚を覚えながらそれについていく。好きなんて、好きなんて言葉を正解にしていいのか。わからないけれど、じわじわと赤くなる頬と耳の熱の理由を「恋」以外では説明が出来そうになかった。






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