10 獰猛なリーベ


自覚がないというのは非常に厄介なことであると思う。若い婦女子が軽率にひと気のないところを出歩くなんて何があるかわかったものじゃないし、しかも彼女は仕立ての洋服を来ているのだから、それなりの身分があることもわかってしまう。気をつけながら歩いているのならまだしも、自分の身は自分で守れるんだなんて言ってみせて、まるで危機管理能力がなっていない。

「まったくさ、もう少し自覚すべきだと思わない?」
「なんだよ、お前の気持ち悪さをか?」
「違うよ馬鹿。ナマエさんのこと」

宇佐美は農具の片づけをしている最中に隣の尾形に向かって愚痴をこぼした。尾形は無表情だった顔を即座に面倒くささを主張するためにぐっと顰める。

「あの女のこといつの間に名前で呼ぶようになったんだ?」
「は?」
「この前まであの女あの女と呼んでいただろう」

指摘されて初めて気が付いた。宇佐美は今まで何だか癪だという曖昧な理由でずっとナマエの名前を呼ばずに「お嬢様」だとか「あなた」だとか、本人不在のときには「あの女」だとか口汚く呼んでいた。しかし今初めて彼女を「ナマエさん」なんて名前で呼んでしまったのだ。しかも無意識で。
宇佐美が黙ったことで尾形がにやにやと口元を緩める。これは面白いおもちゃを見つけたとでも思っているに違いない。

「ははぁ、どういう心境の変化だよ?」
「ハァ?べつに。名前くらい呼ぶでしょ」

ぐに、と唇が変に歪むのを自覚した。おかしなことは言っていない。名前を呼んではいけない高貴なお方というわけでもあるまいし、話題にした時に名前が出てくるくらい当然のことだ。やましいことなど何もないはずなのに、なぜこんなにも居心地が悪いのだろう。とはいえこれ以上尾形のおもちゃになるのも御免だと宇佐美は視線を逸らしてさっさと兵舎の方へと戻っていった。


明治37年2月。緊張関係にあった日本とロシアは国交の断絶に至った。つまりは今後敵対国となり、戦争をするということだ。開戦直後の2月24日には第一回旅順口閉塞作戦が決行された。戦場は満州である。
宇佐美の属する第七師団はというと、北方の守りを固めることを理由に動員令はかからなかった。しかし上官の鶴見の読みによれば、動員されるのも時間の問題だろうとのことだった。

「よう色男」
「あ?なんだよ、百之助か」

耕作作業のあと、菊田の命令でちょっとした野暮用をこなしていた。菊田のことは第一師団から異動してきたということもあり、なんだか鼻持ちならない男だと思っていたが、上官は上官である。命令されたからには無視するというわけにもいかない。その野暮用の最中、自分だけはと難を逃れた同輩の尾形が戻ってきた。

「さっき中島遊郭の近くであの女を見たぜ」
「はぁ!?」

思わず自分でも驚くくらいの声が出てしまって、予想していなかっただろう反応に尾形が目をカッと開いた。まるで驚いた猫のビビビと逆立つ毛が見えるようだ。
なんでナマエはそんなところにいるんだ。まさか売られたなんてことは考えづらいが、社会勉強と称して見学になんて行っている可能性もなくもない。女がうろついていればマトモな見世にとっては邪魔ものであるし、不届き者にとっては格好の餌食だろう。宇佐美は苛立ちを隠しもせずに舌打ちをした。

「冗談だ。正確には中島遊郭じゃなく牛朱別川のほとりだ」
「……お前、そこなら別に近くもないだろ」

牛朱別川のほとりなら対岸じゃないか。別にあそこならそこまで目くじらを立てて言うほどの場所でもない。もっとも、そもそも彼女は身なりもいいのだし独り歩きをすること自体が良くないことであると思うが。

「お前のことを気にしていた」

じろっと尾形を睨みつける。また適当なことを言っているに違いない。すると、尾形は宇佐美の言わんとすることを察知したのか「今度は本当だ」とわざわざ付け足す。まぁ、彼女とは良好どころか犬猿と言ってもいいくらいのやりとりもしているし、悪い意味で気にしているのなら充分理解の範疇である。

「お前、ナマエさんに変なちょっかいかけるなよ」
「なんだよ、まるで亭主みたいなことを言いやがる」
「別にそんなんじゃない。あの子になんかあったら鶴見中尉殿に迷惑がかかるだろ」

尾形の悪ふざけをつんとした態度で突っぱねる。ただでさえ虚を突かれて居心地が悪いのに、これ以上向こうの調子にのまれるわけにはいかない。丁度農具小屋の向こうから菊田が姿を現し「あ、尾形もいるじゃねぇか」と声をかけてきた。そのまま尾形も雑用を言いつけられ、ざまあみろと口角を上げる。

「あは、人をおもちゃにして遊んでるからこんなことになるんだよ。逃げるならもっと長いこと外にいるべきだったね」
「勇作殿に会っちまったんだよ」

尾形が面倒くさそうにそう言った。どうやら話によれば、時間を潰そうと出て行った先でうっかり腹違いの弟である勇作に居合わせてしまったらしい。それはお気の毒なことだ。菊田の雑用と勇作との会話なら、尾形にとって圧倒的に後者の方が面倒くさいだろう。それはご愁傷様なことだと思っていると、追い打ちをかけるように鷹栖橋の方向から声がかけられた。

「兄様!」
「チッ……」

この声は間違いなく勇作である。というか、この兵営の中で兄様なんて甘ったれた呼び方をするのは勇作しかいない。尾形はわかりやすく顔を歪めたが、新任とはいえ上官だ。逃げることも出来ずにその場に留まった。

「兄様、こちらにいらしたのですね」
「その呼び方はおやめください。規律が乱れます」
「あっ、申し訳ありません。兄様にお会いできると嬉しくてつい」

嬉々としてそう言う顔はあまり尾形とは似ていない。尾形は父である花沢中将に似ていると思うが、勇作は母親似なのだろうか。

「よろしかったのですか、いまごろ彼女と意気投合しているかと思いましたが」
「ナマエさんのことですか?先ほどまでお話をしていましたが、私も兵舎に戻ろうかと思っていたところでしたので」

ぴくりと耳が反応した。勝手に頭の中でナマエと勇作が並んでいるところを想像してしまい、すぐに頭を振ってそれを振り払う。なるほど、牛朱別川でナマエを見かけたところに勇作が来たから尾形だけ逃げて来たのか。

「申し訳ありません、菊田特務曹長殿に言いつけられた作業がありますので、失礼します」
「そうでしたか……お引止めして申し訳ありません…」

勇作の方が上官だとはいえ、菊田は古参の兵だ。彼は引き下がることしか出来なくて、すたすたと歩いていく尾形を名残り惜しそうに見るにとどまるようだ。自分もさっさと退散しようと勇作に敬礼をして尾形の後を追う。
市街地とこちら側を繋ぐ橋の向こうにひらりとスカートが揺れた。華やかな洋装なんて珍しくて、だからひときわ目を引いたし、そうでなくでも宇佐美は彼女を見つけていた自信がある。彼女の隣には同じ年頃の娘が並び立っているのが見える。あれは西洋料理店ガレリィの給仕の娘だ。
あの場所に勇作が立っていたのかと思うと、肋骨の隙間をえぐり取られるような、なんとも名状しがたい痛みが走って行くのを感じた。


鶴見に言い渡された任務を巻きで終えて兵営まで戻る途中、ガレリィの近くを通って、中に彼女がいるのを見つけた。今日は鶴見は非番ではなかったはずだから、彼女がひとりで来ているのだろうか。そんなことを考えながら中を見て、思わず足を止めてしまった。

「……は?」

彼女はひとりじゃなかった。相手はしかも男で、宇佐美も見たことのない男だった。座っていても分かるくらいの大柄な男で、ナマエはにこにこと楽しそうに談笑しているようだ。腹の底の部分がスッと冷やされていくような気がした。なんだ、あの男は。なんであんな顔をするんだ。自分にはそんな顔なんて一度も見せたことがないくせに。
ふつふつと腹が立ってきて、宇佐美はナマエが出てくるのを待ち伏せた。店から出てきたナマエは男と並んで少し南に歩き、いくつか話をした後であろうことか親しげに頭をなでさせ、そのあと男がふっと路地に消える。尾行していた宇佐美は彼女がひとりになったところで思わず声をかけた。

「……こんな往来で何をしてるんですか?」
「っ……!」

ナマエはひどく驚いた顔をしている。先ほどの楽しそうな顔は少しも残っていない。どうしてそんな反応なんだ。いや、いままでの振る舞いのことを考えれば相応の反応なのだろうが、腹立たしいことには変わりない。

「う、宇佐美さん……べ、べつに何でもありませんわ!」
「はぁ、何でもない…なるほどなるほど」

ぷいっと顔を逸らしてナマエはツンっと言い放った。苛立ちのせいで右の口角だけが不自然に上がる。なんでもないってなんだよ、と言いたくなる気持ちをなんとか飲み込む。宇佐美の胸中など知る由もなく、ナマエはあまつさえ「わたくしが何をしていようと宇佐美さんには関係ないことではなくて?」と跳ね返した。

「はぁはぁ、なるほど……」

自分でも思いもよらないくらい冷たい声が出てしまった。けれどそれに構っていられなくて、頭の血がどんどんどんどん下がっていくような感覚に陥る。もう我慢していられない。宇佐美は先ほどの見知らぬ男のことを問いただした。

「あの男、誰です?」
「え。ぼ、房太郎さんという方で、お腹を空かしていらしたからご馳走したんです。おかしなことはなんにもありません」

位高ければ徳高きを要すというやつか。身分の高い人間の考えることはイマイチ理解できない。というか、持てる者は与えるべきだとして、良く知りもしない男と談笑しながら料理店で食事をとるものか。しかもそのあと、あんな無防備に頭まで撫でられて。眉間にぐっと力が入る。

「じゃあ聞きますけど、あなたは往来で家族でもない男に親し気に頭を撫でられることが、なんでもないことだって仰るんですね?」

宇佐美は苛立たし気に一歩足を進めた。こんなふうに距離を詰めることなんて今までなかったから、ナマエが驚きながら後退る。それがまた癇に障ってもう一歩進む。。二歩、三歩、四歩と進むと、ナマエの背中がつい家屋の塀にぶつかった。
宇佐美が目の前に立ちはだかると、ナマエは逃げる機会を伺っているのか視線を右に投げる。反射的に逃げ道を断つように左の手のひらを塀につけた。

「僕、前に注意しましたよね?この町はあなたが思っているよりずっと危険が多いんだって。ホントに、なんでそんなに無防備なんですか?」

何かがあってからでは遅いというのに、どうしていつも彼女は無防備なままなんだ。自分の身は自分で守れるなんて言ったけれど、今だって腕一本で退路を断たれ、仮にこのまま組み敷いたりなんかしても抵抗することさえ出来ないだろう。ナマエの肩は怯えたように震え、先ほどまでの跳ねっ返りはなくなった。

「そういうの、腹が立ちます」

気が付くと、宇佐美の右手が彼女の頬に伸ばされていた。人差し指が頬骨を撫で、そこから顔の輪郭をなぞるようにして顎まで下がっていく。丸くて柔らかくて、触れた部分から壊れてしまいそうだと思った。

「なんで、宇佐美さんが…そんなこと……」

からからの声でナマエがそう尋ねた。そんなのこっちが聞きたい。自分でもこの行動が何に起因しているのか掴み切れていないのだ。宇佐美は答えを求めるナマエに対し「ご自分で考えてみては?」と突き放す、しかしその声音は今までよりも丸くなっていた。
彼女の逃げ道を奪っていた左腕を取り去ると、ナマエから距離をとる。心臓のあたりがぎゅっと握りつぶされるような気分になった。

「召集がありますので」

自分でも制御のできない行動と言動に舌を打ち、これ以上余計なことは言うまいと適当にそう言うと、兵営の方へと踵を返す。するとナマエが宇佐美の背中に声をかけた。

「わ、わたくしが思った答えが…正解、なんですの…?」
「さぁ、僕が聞きたいくらいですよ」

顔だけで彼女の方を振り向いてそう突き放し、もうここにいたら墓穴を掘るだけなのだからとそそくさと歩き出した。幸いにも、ナマエはそれ以上宇佐美に声をかけてこなかった。

「ハァ…僕があの子になんて……嘘でしょ」

顔が熱くなるのを感じる。元に戻してから兵舎に戻らねば、尾形から怒涛の如くいじられるに決まっている。頭の中に浮かんだ「好き」という言葉を肯定するのは気が進まないが、あいにくとそれ以外の言葉で今日までの行いの動機を説明することが出来ないようだ。なんでだ。世間知らずでいけ好かなくて、あんなにも馬が合わないなんて散々思ったはずなのに。






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