09 その男ゼーロイバー


すっかり春めいてきた。日露戦争が開戦して二か月、ナマエの生活に実質的な影響はない。戦場は叔父の読み通り満州の地であり、第七師団も北の防衛を理由に動員命令は下されていなかった。
変わったことと言えば、号外の出される回数が増えたことくらいだろうか。わが日本軍は開戦直後の2月下旬、第一回旅順口閉塞作戦を行った。三月の上旬には日本艦隊がウラジオストック港を砲撃し、その月の終わりには第二回旅順口閉塞作戦が実施された。快進撃が続いていると号外では報じていたけれど、果たしてそれは本当だろうか。

「篤四郎叔父さま、その…」
「ナマエが心配するようなことはないさ」

いつものようにガレリィで待ち合わせをしたとき、叔父は穏やかにそう言った。このごろはこうして会える時間がぐんと減ったから、そこから推し測れるものというものがある。

「そうだ、今度一緒に団子を食べに行こうか。宇佐美が美味い店を探してきてくれたんだ」
「まぁ、それは素敵ですわね」

ナマエは精一杯笑顔を浮かべた。自分に出来ることはせめて普段通りの顔をして、強くここで立っていることだ。そこからは努めて戦争の事には触れず、ドイツ文学の話と甘味の話で盛り上がった。団子を食べに行く具体的な日取りは決まらなかったが、叔父と出かけることが出来るという話だけでわくわくした。


その日、ナマエは自宅で汲々と過ごすのが嫌になり、昼食を外で取ろうとひとりで出かけた。宣戦布告の直後は俄かに活気立ったが、街はすぐにいつもの空気を取り戻していた。叔父たちのことを思うと気掛かりではあるがナマエに出来ることはなく、なるべく平常心で生活しているというのがこの頃だった。
ガレリィに行こうと歩いている最中、ナマエの目の前にフイっと大きな影が落ちる。えっと思って顔を上げれば、長い髪がさらさらと揺れていた。随分大柄な彼はいつだったか街の路地でコロッケを分け与えた行きずりの男だ。

「よう、お嬢ちゃん」
「ごきげんよう。ええっと……」
「ああ、名乗ってなかったな。俺の名前は房太郎ってんだ」
「わたくしは鶴見ナマエと申します」

あの時は倒れているものかと思って焦っていたから名前を聞いていなかった。彼の名前は 房太郎というらしい。日本人離れした長身と艶やかな黒髪はやっぱり人目を惹く。

「ナマエか。いい名前だな。ここらじゃ見ない格好だけど──」

房太郎が何かを言おうとしたところでぐうぅと派手に腹の虫が鳴った。恥ずかしがるでもなく房太郎は「おっと」と言って腹に手を当てる。どうやら今日も彼は空腹らしい。ナマエは彼の端麗な容姿とは似ても似つかないその間抜けな音についつい笑ってしまった。

「笑うなよ、昨日から何も食ってねぇんだ」
「まぁ。それは大変。そうだ、一緒に料理店に行きませんこと?」
「残念ながら、持ち合わせがなくてな」
「お気になさらずに。丁度食事をしようと思っていたところでしたから、ご馳走します」
「そりゃ悪いね」

悪いね、と言いながらも、既に奢ってもらう気満々のようだ。これも何かの縁であるし、ノブレスオブリィジュというものである。ナマエはそのまま房太郎を連れ、ガレリィを訪れた。今日はマスタァもタマもしっかり揃っていて、ナマエと見知らぬ男の組み合わせに驚いているようである。叔父との待ち合わせではないが、いつも通りの窓際の席にかける。

「今日はお食事?」
「はい。わたくしはオムライスをいただきます。房太郎さんは何にされますか?」
「んんー、じゃあ俺もお嬢ちゃんと同じのにしようかな」

房太郎の返答を待ってナマエはタマに二人前のオムライスを注文した。房太郎は道端で倒れているくらいの謎の人物ではあるが、不思議と風格のようなものがあるような気がする。ひょっとして、こうして風来坊を装っていながらどこかしっかりとした出自でもあるのだろうか。

「どうかした?」
「いいえ。なんだか房太郎さんに威風堂々たる雰囲気を感じましたの」
「あはは、そりゃ、俺は王様になる男だからな」

嘘か本当かわからない様子で房太郎がくすくすと笑う。王様だなんてどんな冗談なんだろうかと思ったけれど、房太郎の飄々とした様子を見ていると本気と言われてもおかしくないような気がした。丁度オムライスが運ばれてきて会話がそこで止まり、二人は匙を前に手を合わせる。食事の作法が多少雑だったから、由緒ある出自という線は少し薄れた。

「美味いな。こんなに美味い飯は初めてだ」
「あら、お気に召していただけて嬉しいわ。ここは私のお気に入りのお店なんですの」
「へぇ、いい趣味してるな」

かちゃかちゃとささやかに食器の音を立てながら食事が続いた。房太郎との話は穏やかだ。このところ宇佐美に関連する話のたびに緊張していたから、無関係の彼と話すのは気が楽だった。

「お嬢ちゃんは旭川の出身なの?」
「いいえ、さとは新潟です。旭川の第七師団に叔父がおりまして、その伝手を頼りにここで社会勉強をしているので」
「……へぇ」

一瞬だけ房太郎の声の調子が低くなったように感じたが、すぐに次のひとくちを運んでしまって、それが確かであったかどうかがわからない。それからすぐにオムライスを平らげ、ナマエと房太郎はタマに見送られながらガレリィのドアを潜る。房太郎はぐぐぐっと大きく伸びをした。本当に彼は大柄だ。そこから少しだけあてもなく南に歩いた。

「房太郎さんは、まだしばらく旭川にいらっしゃるんですの?」
「いいや、灯台下暗しと思っちゃいたが、そろそろ出ていくよ。今度は十勝にでも行っていようかな」
「まぁ、十勝ですか」

結局彼の素性はわからないが、行きずりの相手である。強く追及するのも無粋だろうとそれ以上は何も言わなかった。房太郎の手がすっと伸びてきてナマエの頭をなでなでと撫でる。大きな手にはまるで頭がそのまま掴まれてしまったような気分になる。ふと、目の前の道を兵卒が歩いて行った。見たことはない兵卒だったが、旭川の市街地を歩いているということは恐らく第七師団の所属なのだろう。房太郎が足を止める。

「さて、さすがに見つかりそうだな」
「え?」

房太郎が何かを言ったけれど、身長差があり過ぎて小さな声は聞き取れない。聞き返してみたものの、房太郎はにっこりと笑みを返すばかりだ。

「お嬢ちゃんには二度の飯の恩があるからな。金も入用だったが…まぁ別の方法で手を打つよ」
「えっと、何か……?」
「なんでもない。じゃあな、お嬢ちゃん」

何が何だかよくわからないが、房太郎がひとりで納得をしている。疑問符を浮かべるナマエに答えを与えることはなく、房太郎はナマエの頭を包むほどだった手をどけると、踵を返して街の雑踏へ消えてしまった。

「変わったおひと……」

ナマエは去っていった背中を見送り、自分の頭にそっと手をのせてみた。ほんの一時だったから体温も何も残っているはずがないのに、なんだかそこに房太郎の手のひらを感じるような気がする。彼は話をしていて「もっと知りたい」と思わせるような人だったけれど、それと同時に進めばもう戻れないような奇妙な引力を感じさせた。だから踏み込まないほうが正しい選択だったのだろうと思う。

「どうしよう。お屋敷に戻ろうかしら」

昼食を取りに出かけたものの、それ以降の予定は何も決めていない。せっかく外に出て来たし、書店でも巡ってみようか。

「……こんな往来で何をしてるんですか?」
「っ……!」

ぼうっとどこともない場所を眺めたまま突っ立っていると、背後から声をかけられてびくりと肩を震わせた。この声をもう聞き間違えることはない。これは宇佐美だ。ナマエは勢いよく振り返り、するとそこには軍装の宇佐美がしかめっ面で仁王立ちをしていた。

「う、宇佐美さん……べ、べつに何でもありませんわ!」
「はぁ、何でもない…なるほどなるほど」

宇佐美はいつもの厭味ったらしい口調でそう言って、右の口角だけを不自然に上げる。何が不満だというのか。べつに今日は彼にとって不利益になるようなことはしていないはずだが。顔を合わせたらどんなふうに話せばいいだろうとあれほど悩んでいたのに、想像よりもすらすらと口が動く。もっとも、中身はいつも以上に跳ねっ返りであるが。

「わたくしが何をしていようと宇佐美さんには関係のないことではなくて?」
「はぁはぁ、なるほど……」

呆れたような宇佐美の調子に内心焦る。返答を間違えて彼に嫌われたくない、という思いが頭の奥の方でぴょこぴょこと飛び跳ねている。いや、そもそも彼との仲は良好と言えるかわからないのだから、下がる株もないのかもしれないが。

「あの男、誰です?」
「え。ぼ、房太郎さんという方で、お腹を空かしていらしたからご馳走したんです。おかしなことはなんにもありません」

目の前で腹を空かした人間がいれば施すのが道理だろう。西洋で言うところのノブレスオブリィジュの精神であり、持てる者は与えるべきである。ただそれだけの話であり、妙なことは何もないし変な関係でもないと宇佐美に弁明したものの、宇佐美の眉間のシワはむしろ濃くなった。

「じゃあ聞きますけど、あなたは往来で家族でもない男に親し気に頭を撫でられることが、なんでもないことだって仰るんですね?」

ずいっと宇佐美が歩み寄る。驚いて後退って、すると彼はまた一歩距離を詰めた。二歩、三歩、四歩と後退ると、あっという間に背中が家屋の塀にぶつかってしまった。普段からナマエのことを小馬鹿にしているような雰囲気はあるけれど、今日はなんだかいつもと違う。怒っているような、苛々しているような、そういう空気を感じる。
宇佐美が目の前に立ち塞がり、横から抜け出そうと考えてちらりと視線を右に投げると、彼の左腕がそれを阻むように塀につけられてナマエ逃げ場を奪う。

「僕、前に注意しましたよね?この町はあなたが思っているよりずっと危険が多いんだって。ホントに、なんでそんなに無防備なんですか?」

宇佐美の目がじっと細められる。普段ビックリするほどまん丸なのに、今日は切れそうなほど鋭い。気圧されてしまって、すっかり何も言えなくなってしまう。宇佐美の右手が伸びてきて、びくりと肩が震えた。

「そういうの、腹が立ちます」

着地した指先は、言葉とは裏腹に柔らかかった。彼の人差し指がナマエの頬を撫で、顔の線をなぞるようにして顎までするすると下がっていく。触れられた場所のすべてが熱くなって、まるで指の軌跡を導火線として燃えていくようだった。

「なんで、宇佐美さんが…そんなこと……」
「ご自分で考えてみては?」

宇佐美は少しだけ眼光の鋭さを緩め、逃げ道を塞いでいた左腕を取り去ると、ナマエから距離をとった。どくどくどくと心臓が鳴るのは、普段と違う彼の様子が恐ろしかったからだろうか。最後に宇佐美は舌打ちまでして「召集がありますので」と勝手に兵営の方へ踵を返す。

「わ、わたくしが思った答えが…正解、なんですの…?」
「さぁ、僕が聞きたいくらいですよ」

宇佐美は素っ気なくそう言って、今度こそすたすた歩いて行ってしまう。そんなのこっちに丸投げされても困る。だって自分の答えが正解だったとして、それなら彼の気持ちが「そう」だということで、それはつまり、自分と同じということになる。

「……好き…なんて…」

こんなの、ひとりで勝手に考えて決めろなんて、あんまりじゃないか。普段思いつくような反論は何もかも喉の奥に追いやられ、きゅっと唇を閉じることしかできなかった。どうしよう。失礼でいけ好かなくて、あんなにも馬が合わないなんて散々思ったはずなのに。






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