07 猫と死神


小樽の兵営というのは元々商店だった建物を利用しているらしい。それが果たして一般的なことであるかどうかはナマエには分からないことだったが、和洋折衷のような洋室に住まうよりはいっそまだ分かりやすい日本の建物のように思われた。
これから一緒に暮らすことになる兵士たちを前に挨拶をしなければならないときはかなり緊張して、けれどその中に月島の顔を見つけることが出来た時には安心することが出来た。大勢での暮らしに不安はあるが、月島も同じ屋根の下で暮らせると思うとやっぱり少し嬉しい。

「……俺も、ナマエさんがそばにいるのは安心できる」

月島と暮らせるのが嬉しいと思い切って打ち明けたら、月島はそう言ってくれた。彼からそんな言葉を聞けるとは思っていなくて、もう飛び上がるほど嬉しかった。顔にほんのりと熱が集まっていくのを感じる。

「わ、私、美味しいって言ってもらえるように、お料理がんばりますっ!」
「…ああ、期待してる」

釜戸式の厨の使い方もそこそこ覚えてきた。勿論自分が生きていた時代とは食材も調味料も違うけれど、飲食店に就職して良かったと、この時初めてそう思った。


本来軍での生活では、最小単位である班ごとに行動をし、食事もそれぞれが固まってとるらしいが、ことこの小樽の兵営ではその仕組みは効率が悪いと取りやめられた。最大でも30人程度しかいないし、任務によっては同じタイミングで食事をする人間が半分以下にもなる。だから一斉にとろうということで、襖を取り払った和室を食事の時間にはダイニング代わりに使うという寸法だった。

「あ、味どうでしょうか……」
「ん。いいんじゃないかな。美味い美味い」

今日は二十数人分の食事を用意しなければならない。流石にナマエひとりでというわけにはいかないので、一緒に厨に立つ人間は当番で決められた。今日の担当は三島という美青年だ。

「ミョウジさん慣れてるね、外国に住んでたときも厨に立ってたの?」
「えっ、と…あ、あんまり……あの、だから上手にできるか不安で…」
「そうなんだ。凄く美味いと思うよ」

三島は強面ということもないし、物腰も穏やかで兵卒のなかでは比較的緊張せずに接することが出来る。飛び入りで無理やり同居する身であるが、そもそも鶴見の縁者という」肩書がある以上、上っ面だけかも知れないが概ね反応は好意的である。

「じゃあ俺は重いもの運ぶからミョウジさんはこっち持って行ってもらってもいいかな」
「は、はい。わかりました」

三島がそう気遣って米のたんまりと入ったお櫃を持って行ってくれて、ナマエは膳をいそいそと運ぶ。ここで家事手伝いのような生活が上手くいっているのも、すべて鶴見の屋敷で月島があれこれと教えてくれたからだ。


概ね反応は好意的、と言っても、例外は存在する。この小樽の兵営での生活も三週間が経過しようとしていた頃、夕飯に使うための水を汲もうと敷地内の井戸をの覗き込んでいたら、近くからさりさりと誰かが歩いてくるような音が聞こえた。誰か帰ってきたのかと思って顔を上げると、そこには今日まであまり接点のなかった兵卒がじっと立っていた。

「え、と…あの…お疲れ様です…」

何か言わなければ、とどうにかそう言って見せたが、彼の名前は何と言ったか。黒く大きな目はなんだか猫のようで、こちらを見る視線にはなにか言い得ぬ引力のようなものを感じる。

「水汲みとはご苦労だな」
「あ、と、いえ……そんなことは…あの…」

名前を聞こうとして口ごもり、しかしいま聞かなければきっと後からでは覚えられないような気もする。掠れた声で「お名前は…」と聞くと「尾形」と返答があった。尾形はじっとナマエを見つめたままこちらへと歩み寄る。なにか妙な威圧感を感じて、一歩だけ後退ったが、変な印象を与えてはいけないとなんとか踏みとどまる。

「ナマエといったか…鶴見中尉殿の縁者というのにこんな下働きのようなことをすることもあるまい」
「い、え…そんな…住まわせていただいている…身なので…」

一歩分だけの距離を残し、尾形はナマエの前に立ちはだかった。なにも罵倒されているというわけでないのに、同じような緊張が走り、背中を冷たい汗が流れ落ちていく。真っ黒な目には吸い込まれそうになった。

「ナマエ。どうしてこんなむさくるしいところに住んでんだ?特別設備が良いわけでもない…小樽に住むにしたってもう少しマシなところがあるだろう」
「に、日本での生活に慣れて…いなくて……」
「なるほど。つい最近までアメリカにいたんだったか」

尾形の手がすっとナマエに伸びる。反射的にびくりと身体が震えた。尾形の手は一度速度を落とし、そのあと意思を持って再びナマエに伸びてきた。どうすることも出来ないまま身体を強張らせていれば、彼の指がナマエの左肩に触れて軽く指の腹で撫でた。

「………こんな綺麗な娘が男所帯で生活するとなれば不安もあるだろう…困ったときは俺を頼ってくれればいいんだぜ」

口説かれているような内容で、しかしまるで首根っこを掴まれて脅されているような気分になった。言葉の裏になにか違うものが潜んでいるような、そんな予感だ。ヒュウっと変なふうに喉が鳴り、血の気が引いていくのが自分でもよくわかる。怖い。どうすればいいんだろう。助けて。

「ナマエ」

尾形の低い声がナマエの鼓膜を揺らす。恐ろしいものに狙いを定められている。身体が硬直して息も出来なくなった。助けて、助けて、と心の中で助けを呼ぶ。尾形が笑みを深め、手に力を込めて引き寄せようとしたときだった。

「おい、そこで何をしている!」

場を制したのは鋭い声。しかしその声に恐怖は感じなくて、むしろその声がかけられたことに安堵した。月島の声だ。どうにか彼の名前を呼ぼうとしたが、口のかたちだけは「つきしまさん」と動くのに、声がひとつも出てこない。ナマエの肩を掴む尾形という図をどう解釈したかはわからないけれど、月島は血相を変えて飛んできた。

「尾形貴様、鶴見中尉殿の親戚の御令嬢だぞ、何をするつもりだった?」
「そんなおっかない顔をせんで下さいよ。俺はただナマエさんがあまりにお美しいんでお近づきになりたくて話しかけていただけです」
「そんな穏やかな風には見えなかったが」
「ははぁ、それは心外ですな」

上っ面の言葉だと詮索せずともわかる。見かけたから口説きましたなんて、そんなことをされるほど魅力的な女であるはずないとナマエ自身が一番よくわかっている。ならば彼はどうしてそんなことをしたのか。単純にからかっただけなのか、それとももっと別の目的でもあるのか。

「こんなお美しいご令嬢とあらば口説かない方が男が廃るってもんです」
「まっ!……また適当なことを……」

月島が声を荒げそうになって、咄嗟に声のボリュームを絞ったのがわかった。先日二階堂たちを指導したときの声でナマエが気を失ったことを覚えていてくれているのだ。月島がナマエと尾形の間に割って入り、ナマエを庇うように背に隠す。ナマエは思わずぎゅっと月島の軍衣の裾を握った。それを目ざとく尾形が見つけ、にやりと口を歪める。

「ははぁ、なんだ、あんたらそういう…そりゃあ失礼しました」
「……尾形、これ以上ミョウジさんに無用な手出しをするようなら相応の対処をする」
「肝に銘じますよ」

尾形はそう言うと、踵を返して兵舎の方へと消えていった。彼の姿が見えなくなってようやく呼吸をすることが出来る。月島が振り返って「何かされなかったか」と尋ねた。

「い、いえ……か、肩を掴まれたくらいで、その…他にはなにも…」
「そうか、それなら良かった」
「す、すみません…それくらいで私こんなに大袈裟な……」
「いや、よく知りもしない男に詰められれば怖いに決まっている。無理はしなくていい」

月島が自分も距離を取ろうとして、ナマエは掴んだ手を一度離して今度は彼の袖口を軽くつまんだ。月島がその手を見つめる気配がする。

「あ、りがとう…ございます……」

息が詰まりそうになるのは、先ほどのような恐怖のためじゃなかった。


数日後、同じように井戸で水を汲んでいると、ひょこりと尾形が姿を現した。恐らく何かの遣いのようで、手には数枚の紙切れを持っている。先日のことが脳裏に過ぎり身を固くして、尾形はそこでようやくナマエの存在に気が付いたようだった。

「今日もご苦労なことだな」
「お、お疲れ様です……」
「はは、警戒するなよ。お前に興味はない」

この前とは全く反対のことを言って、言い方だってきついはずなのに今日の方が裏側にある恐ろしさのようなものを感じなかった。これが彼の本音ということだろうか。無遠慮に距離を詰めることもなく、腕二本分ほどの距離が空いている。間合いという意味では尾形にとって一瞬で詰められるような距離なのだろうけれど、それでも目の前に立たれるよりはよっぽど呼吸がラクだった。

「まさか月島軍曹殿と好い仲とはな。世話を焼いてるとは傍目から見てわかっていたが…」
「つ、月島さんが優しい、から…と、特別とかそういうのじゃ、ない、です…」

自分で言っていて悲しいけれど、月島が変に誤解されるのは困る。ナマエの言葉を聞き、尾形は坊主頭にさりさりと触れる。相変わらず目は何処を見ているのかもわからない。

「何言ってんだ。月島軍曹は鬼軍曹だぜ。誰彼構わず優しいことがあるもんかよ」

そんな鱗片は覗いていたけれど、彼は部下にもそう言われる程の厳しい一面を持っているらしい。誰彼構わず優しくするタチではないということは、ナマエに優しいのは特別ということだ。いや、何故特別かなんてわかりきったことで、ナマエの持つ情報のために親切にしてくれているのだけだ。

「つ、月島さんにご迷惑になるようなことは…言わないで、ください…」

でも、もしも、それだけじゃなかったらどうしよう。この生活の中でナマエが彼に対して思いを寄せつつあるように、彼もまた、ナマエに対してなにか特別な感情が芽生えていたら。身の程知らずにもたいがいにしろ、と頭の中の自分が警告するけれど、もしもと夢を抱いてしまう気持ちは止められない。

「ほぉ。てことは、お前自身は迷惑じゃねぇわけか」
「え、えっ……!」

完全な図星だが、それを尾形の目の前で肯定してしまうのは憚られる。くちをもごもごと動かし、なにか適切な言葉を探そうと試みるが、そんなものが上手出てきたためしは一度もない。尾形はニヤニヤと笑みを深めた。

「しかしまぁ、お前のオジサマは随分狡猾老獪な男だ……ははぁ、せいぜい巻き込まれないように気をつけろよ」
「こうかつ、ろーかい?」

耳慣れない四字熟語を思わず復唱した。狡猾はわかるが、老獪の意味がピンとこない。彼の言う「オジサマ」とはこの場合鶴見を指すのだろう。意味はわからないなりにも尾形が鶴見のことを褒めていないということだけはなんとなく察することが出来た。

「ど、どういう、意味ですか…」
「じきにわかる。こうして同じ屋根の下で暮らしてるんならお前も何か知っているものかと思ったんだが…その様子じゃ期待はずれだな」

勝手に期待をしたくせに勝手に期待外れと言われても困る。思わせぶりな尾形の言葉の真意を知りたいけれど、推察しようにも情報が足りていなさ過ぎてさっぱりわからない。

「少し話し過ぎたか…まあいい。俺とここで話したことは誰にも言うなよ」
「わ、わかりました……」

尾形は最後にそう口止めすると、すたすたと兵舎の方に歩いていってしまった。巻き込まれないように、なんて、一体何に巻き込まれるというのだろうか。ぼうっと尾形の行く方向を見つめていると、背後から「ミョウジさーん」とナマエを探す声が聞こえた。この声は今日の食事当番の谷垣のものだ。いけない、早く水を汲んで戻らなければ。ナマエは慌てて滑車を引き、釣瓶桶を引き上げた。







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