04 息吹と死神


※強い暴力表現があります

がしゃん、と勢いよく飛んできた皿が割れる。破片が飛び散り、ナマエのすねを掠めて血が流れていく。血が流れるそのそばには少し前に出来た傷と、もう少し前に出来た傷が並んでいた。

「おいグズ、酒がねぇぞ、酒が!!」
「ご、ごめんなさい……」

父親はナマエに平気で手をあげた。バチンと容赦なく頬を打たれたし、いつも身体中が痣だらけだった。一度学校の先生に相談してみたことがあったけれど、学校から電話のあった日は普段よりも激しい暴力がナマエを襲った。その日から大人に頼るのは良くないのだろうと考えるようになった。
ナマエが父子家庭だということも、その父がロクでもない人間だということも周知の事実だった。だから「ナマエちゃんは悪い家の子だから」と遠巻きにされた。
誰も助けてくれない。誰も頼ることが出来ない。

「お前の母親は股の緩い女だったんだ、そのせいで他に男作って出ていきやがった。お前はそういう悪い血を受け継いでるんだよ、わかるか?」
「ごめんなさい…」
「謝れば済むと思ってんのか!このクソガキ!!」

空き缶が飛んでくる。ナマエの頭にがつんとぶつかり、少しだけ残っていた発泡酒がナマエの髪を汚した。アルコールの臭いが鼻をつく。目の前で怒る父が何に対して怒っているかなど分かった試しがなかった。だからいつもいつも父の気が収まるまで「ごめんなさい」と謝り続けることしかできない。

「お前のせいで俺の人生めちゃくちゃだ!」

ばちん。顔を殴られる。古いあざの上に新しいあざが上書きされていく。ナマエはもともと小さな体をなるべく小さく小さく丸め、嵐が過ぎ去るのをじっと待ち続けた。


ひゅっと変に息をのんで目を覚ます。今でも毎晩暴力を受けた日々のことを思い出している。ナマエにとって人生のほとんどが暴力だった。一度だけ高校の時に出来た恋人にも暴力を振るわれた。恒常化する暴力に感覚は麻痺していたし、彼の方がすぐに興味をなくしたから、さほど長い付き合いというわけではなかったが。

「……嫌な夢だ」

上体を寝台から起こしてこぼす。ここへ来た当初はこの生活こそが夢か何かだと思っていたのに、自然にこんな言葉が出るなんてなんだかおかしい。嘲笑のようなものが口から一緒に零れ落ちる。
この世界は死後の世界なのか。だとしたらナマエにとっては随分な極楽だ。明治時代らしきここにナマエが生きていた時代の文明はなく、当然のように不便極まりない生活であるが、ここには暴力がなかった。少なくとも、父のようにナマエを殴るような男はどこにも。

「……よし、朝ごはん準備しよう」

寝台から降りて着物に着替える。初めのころはひとりでは着ることの出来なかった着物も今は何とか自分で着付けることが出来ている。ナマエがここへ来て、一か月の月日が経過していた。

「えっと……この葉っぱにマッチで火をつけて……小さい木から順に燃え移らせて……」

厨は当たり前に釜戸式だった。ここに来るまで釜戸にはお目にかかったことがなくて、使い方は月島に教わった。月島は着付けの時と同じく「こんなことも知らないのか」と驚いた顔をしたけれど、馬鹿にするようなことは一度もなくて丁寧に使い方を教えてくれた。初めのうちは何度も失敗したが、今では簡単な料理なら出来るくらいになっている。

「あ、今日いい感じだ」

米が上手く炊きあがると嬉しかった。今までも台所には立っていたが、父と暮らしているうちはいつ怒号が飛んでくるかとずっと緊張していたし、ひとり暮らしの家では長時間の労働でそれどころじゃなかった。こうしてゆっくり自分のためだけに料理をしているのなんて生まれて初めてだ。
厨のすぐそばにある洋室に出来上がった簡素な食事を運び、庭先で鳴く小鳥のさえずりを聞きながら朝食をとる。

「いただきます」

白米にお新香、味噌汁と佃煮。現代に比べれば自分で作っても薄味で簡素なはずで、しかしあの頃よりももっと豊かに感じる。


基本的には月島が一日に一回は顔を出してくれる。彼も忙しい身分で毎日申し訳ない、とも思ったが、そもそも監視の意味合いもあるのだろうと思う。月島が来れない日は宇佐美という男で、彼のことは少し苦手だった。

「ミョウジさーん」

ぎくり、と表からかけられた声に肩を震わせる。このところ数日間月島が来てくれているからそろそろタイミング的にそうかと思っていたけれど、今日は宇佐美が顔を出す日らしい。ナマエは急いで玄関に向かい、宇佐美を招き入れる。

「う、宇佐美さん…お疲れ様です…」
「変わったことはありますか?」
「い、いえ……とくには…」
「そう。それは良かった」

にっこりと宇佐美が笑った。彼は慇懃な態度を崩さないし、言葉も勤めて敬語で笑みを絶やさない。しかしその笑みがどうにも苦手なのだ。なんだか奥底に恐ろしいものが隠れているような気がしてならない。

「これ、鶴見中尉殿からの差し入れです」
「あ、ありがとうございます…」

ひょいっと包みを渡され、それを両手で受け取る。パッと見てもなんだかよくわからなくて、宇佐美に「こ、これなんですか…?」と恐る恐る尋ねれば「金平糖ですよ」と返ってきた。

「金平糖、知りません?未来にはないんですかね?」
「い、いえ、あります…あの、包みに慣れていなくて…」
「ああ、そうですか」

宇佐美はこうして何かと尋ねてくる割に興味があるようには見えなかった。こちらを探るような意図があるのか。そうだとしたら甚だ納得できる。保留にはなっているが、ここでの生活の見返りはナマエの持つ未来の情報である。

「え、と…あの…お、お茶とか飲んで…行きますか…?」

どうせ断るだろう。彼は食材や日用品の配達をして、玄関先で帰っていくのがいつものパターンだった。しかしまぁ大人として社交辞令の一つも言わないのもなんだしな、と毎度この言葉をかけている。宇佐美は少し黙ったあと、つんと尖った唇を笑わせて言った。

「せっかくだから、ご馳走になります」
「えっ、あっ…はい…」
「お邪魔しまーす」

予想外の答えに動揺している間に宇佐美はスタスタと屋敷の中へと上がりこむ。立場上客人のはずの宇佐美をナマエが追いかけるという珍妙な図になりながら居間に到着し、彼は勝手知ったる顔で椅子に腰かけた。
自分から声をかけた手前、今更帰ってくださいなんて言えるはずもなく、ナマエは湯を沸かすとなるべく丁寧に茶を淹れて宇佐美の元まで運んだ。

「ど、どうぞ……」
「いただきます」

宇佐美に茶を出した後はどこに座れば正解なのかが分からずにそのまま脇に立って彼の「座ってくださいよ」の言葉でやっと向かいの椅子に腰かけた。

「はぁ、美味しいなぁ。流石鶴見中尉殿の選んだ茶葉だ」

宇佐美が独り言のように漏らす。ここは鶴見の邸宅で、勿論日用品から食材まで鶴見が指示して月島や宇佐美に運ばせているものだ。だから彼の発言におかしなところはないが、茶ひとつで恍惚とした表情を見せるのはどこか常人離れして見える。
世間話でもするべきなのだろうか。あいにくとナマエはコミュニケーション能力が低いからこういう時にどんな話題を振ればいいのか皆目見当もつかない。まごついていると、先に口を開いたのは宇佐美だった。

「そういえば小耳に挟んだんですけど、ミョウジさんって随分ひどい暴力を受けて育ったとか」
「えっ……」
「父親がクズだったんですよね?」

あまりに一気に踏み込んだことを言われて一瞬怯む。鶴見には話していたのだから情報は共有されていて然るべきだろう。宇佐美は第一発見者のひとりであるようだし、ナマエが未来人だということも知っているはずだ。ゆっくりとまばたきをしながらそこまで飲み込み、ナマエが返す。

「は、はい…父に虐待されて育って…その、お酒と博打が好きな人で…」
「毎日殴られてました?」
「そ、そうですね……」

ずけずけとプライベートなことを聞いてきているが、やはり宇佐美は「ふぅん」とどこか興味は薄そうで、だから失礼な人だという感情よりも「なんでそんな話を振ってきたんだろう」という疑問のほうが強く出た。いくらコミュニケーション能力の低いナマエでもこれが世間話に向いている話題でないことくらいは分かる。

「男を怖がっているように見えるのも…そのせいですかね?」
「えっ……ご、ごめんなさい…な、なにか失礼な態度を…?」
「いや、失礼っていうより異常に怯えているように見えたので。まぁ、目覚めて突然座敷牢だったし当然といえば当然ですけど」

男性恐怖症とまでは言わないが、男性に対して多少の苦手意識があるのは事実だった。それが透けて伝わって、何か失礼なことをしでかしていたのかと思ったが、そういうことでもないらしい。ナマエはこっそり胸をなでおろす。宇佐美はきゅるりと丸い目をナマエに向けながら言葉を続けた。

「ミョウジさんは、100年以上も前の世界に飛ばされてこれから先どうするつもりです?」
「え?」
「死のうと思ってうっかりこんなところに来ちゃったんでしょう。まさか帰りたいってことはないですよね。死んでるんだし。でもそれでも毎日ちゃんと生きてるの、どうしてかなぁと思って」

宇佐美が答えを求めてじっとナマエを見つめる。言われてみれば、確かにナマエは生きるのに疲れて全てをやめてしまいたくてあの日身を投げたのだ。しかし目が覚めてから咄嗟に取った行動は全て自分を生かすためのものばかりだった。

「じ、自分でもその…よく分かってなくて……」

戻る気なんてさらさらない。戻ったところで未練なんて何もないし、あんな生活に戻りたいと思うはずもなかった。しかしここでこの先どうしていきたいかなんて考えたこともない。正直な話、鶴見に協力していいものかどうかも結論は出ていないのだ。ナマエのもたらした情報は未来を変えてしまう。
わからないことや考えたくないことばかりのなかで、間違いなく言えることが少しだけあった。自分のために作る料理というものを、もう少し食べていたい。差し込む朝日で目を覚まし、冷たい水で洗濯をして、薪で沸かした湯に浸かっていたい。誰にも脅かされない部屋で外から漏れ聞こえる生活の音に耳を傾けていたい。

「……本当は…死にたくなかったのかも、しれません……」

それは生きるということだ。ナマエに今まで決定的に足りていないことだった。ここが夢の世界なのか地獄なのか極楽なのかは知らない。それでも、いまこの世界にはナマエの生活がある。

「良いと思いますよ。死んだような顔して生きてるより生きたいと思って生きてる方が何倍も」

宇佐美がまた口角をにゅっと上げて笑う。不思議とその顔は先ほどまでの底知れない恐ろしさを感じることがなかった。

「そうだ、でも鶴見中尉殿から優しくしていただいているからって勘違いしないでください」

途端に宇佐美が声のトーンを変えてそんなことを言い出した。心なしかふんふんと鼻息も荒い。綺麗に整った左右対称の顔が興奮で赤くなっていって、ナマエは気おされながら「は、はい…」と返事をする。宇佐美は止まらない。

「鶴見中尉殿の一番は僕ですから、特別扱いをされていてもそこは履き違えないで下さいよ」
「もちろんです…えっと、宇佐美さんは鶴見中尉殿のことが、とてもお好きなんですね…?」
「好きなんて生っちょろいものじゃないですよ」

この時代の軍人というものはそれほど上官を慕うものなのだろうか。正解は分からないけれど、少なくとも宇佐美の前ではなにかと気を付けたほうが間違いが無さそうだろうということは確かだった。


翌日、今度は月島が顔を出し、厨まであれこれと持って来た食材を運んでくれた。宇佐美に対する苦手意識は多少薄れたようなそうでもないようなといった具合だったが、やはり月島が来てくれる方が嬉しい。

「とりあえず今日はこのくらいなんだが…何か困っていることはないか?」
「え、えっと、とくには…」
「そうか。昨日は宇佐美が来ただろう。問題はなかったか?」

月島にそう聞かれ、はてどうしてそんなことを聞くのかと首をかしげる。すると月島にもそれが伝わったようで「ミョウジさん、宇佐美が苦手だろう」と付け加えられた。それは何だが語弊がある気がすると思い、ナマエは慌てて両手を振る。

「に、苦手とかそういうわけじゃ…」
「ならいいが。まぁあいつもクセの強い奴だから」

月島が何か苦虫を噛みつぶすような顔になる。ナマエからしてみれば少し怖いとも思うが、月島がいうほど癖があるのだろうか。いや、確かに鶴見に対する興奮度は少し気圧されるものがあった。何か宇佐美に対して悪い感情を持っているわけではないと分かってもらわなければ、と思ってナマエはどうにか言葉を捻りだす。

「う、宇佐美さんって…鶴見中尉殿のことがとってもお好きなんですね。昨日その、熱弁されてて…」

あせあせと焦りながらナマエがそう言えば、月島は苦々しい顔を更に濃くして「…余計なことを…」とため息をついた。怒っているというよりはどこか子供の悪戯に疲れた母親のようにも見えて、彼はこんな顔もするのか、とそっと横目で見つめることにした。







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