03 死神のしもべ


まばたきのあいだに忽然と人が姿を現す、なんてことはまるで手品の類だった。しかし事実、彼女は一瞬にして月島たちの目の前に現れた。旭川市内にある鶴見の邸宅にとある資料を取りに行ったおり、何もなかったはずの中庭に忽然と洋装の女が現れた。
月島は咄嗟に鶴見の前に立ち、反対隣りに立っていた宇佐美が女に向けて小銃を構える。女は気を失っているのか地べたに這ったまま動くことはなく、宇佐美が警戒しながらにじり寄る。俯せになっているのを軍靴で軽く蹴って仰向きにさせ、屈んで様子を確認した。

「……二十歳前後の女です。意識を失っているだけで息はあるようです」

宇佐美が鶴見に向かって報告をする。洋装は土に汚れているが形はそこらで見るようなものとは違って見える。鶴見が月島の前に出て、地に伏した女に歩み寄った。首元の脈を確認する。女と言えど警戒は解けないが、襲い掛かってくるような気配はなかった。

「…この洋服の縫製……どこかの貴族か、いやそれにしても違和感がある」
「人を呼びましょうか」
「いや待て。これは……」

不審者の発見を知らせようとしてそれを止められる。鶴見は何ごとかに気がついたらしい。彼は女の横たわるそばからひらりと一枚の紙切れを掲げた。濃紺の鮮やかな色がついている短冊のようなもので、そこには「ナイトアクアリウム」の文字が銘打たれている。しかも日付だと思われるそれはいまより先の未来のものだ。

「何者なのか本人から聴取する必要がある。念のため目が覚めるまでは座敷牢に監禁しておけ」
「はい」

座敷牢に監禁したあと、身ぐるみを剥がしたが武器の類は持っていなかった。仕立てのいい洋服一枚にあの謎の短冊状のものだけが殆ど彼女の所持品のすべてだった。肉体は鍛えられているということはなかったが妙に傷痕が多く、その中には町娘が負うには生々しすぎる切り傷の痕や火傷の痕があった。

「何者ですかね、この女」
「まだ分からんが……とんでもないものを拾ってしまったかもしれんな」

鶴見が感情の読めない冷静さでそう言った。数時間でその女は目を覚まし、自分のことをミョウジナマエと名乗った。自分の置かれた状況jに戸惑い、夢か何かと思っていたようだが、鶴見の聴取により「未来人」であるということを認めた。まったく荒唐無稽な話だと思うが、鶴見がそうというのならそうなのだろう。
ひとまず彼女に部屋を与え、監視をつけることになった。鶴見の執務室に呼び出され、戸をコンコンと叩く。

「鶴見中尉殿、お呼びでしょうか」
「入りなさい」

鶴見の声を待って中に入れば、彼はナマエから押収した入場券をしげしげと眺めていた。「見てみろ」と促されて受け取る。短冊の表面はつるりとしていて絹のようにも見えなくもないが、これは紛うことなく紙である。印刷だってどこからどう見ても現代の技術では成し得ないもので、おまけに絵ではなく写真まで印刷されている。そして極めつけの日付だ。

「どう思う、月島」
「……私には…分かりかねます」
「──彼女は未来人である。にわかには信じがたい話だが…ほかに説明のしようもない。それに未来からきたということが事実だった場合、我々のほかに渡るのは避けたい」

未来からきた。それが事実であれば、彼女の持つ情報はどれも値千金である。大それた計画を遂行しようとしている彼らにとってこれほど有用な人物はいないだろう。しかしそれを差し引いても素性の知れない女である。そんな人物をそばに置いておいてもいいものか。

「このことは必要最低限の人間のみで共有すべきだ。私とお前、それから宇佐美だな。しばらくこの屋敷に留め置いて様子を見る。当面世話係はお前に任せよう」
「私ですか?」
「ああ。お前は面倒見がいいからな…それに、宇佐美よりもお前のほうが後々適任になるだろう」

鶴見の考えていることはわからない。いや、いままでただの一度も分かったことなどない。しかし彼の言うことなら間違いないし、月島にできることはただ頷くのみである。

「あの娘のことは捕虜としてではなく客人として扱いなさい。正確な情報というものは相手にこちらを信用させてこそ引き出せるものだ」
「はい。了解しました」

頼るあてもないのだから逃げ出すことも出来まい、と彼女は座敷牢に戻されることなく鶴見邸の一室に留め置かれることになった。夜中は宇佐美がその番をして、早朝に入れ替わるように月島は鶴見邸に向かう。

「月島軍曹殿」
「おう。どうだ、中の様子は」
「静かなもんですよ。昨日の感じからしても手練れというわけでもないようですし」
「お疲れ。ここからは俺が代わる。鶴見中尉殿が兵営でお待ちだ」

夜通しの番を終えた宇佐美をねぎらいつつ用件を伝えれば「鶴見中尉殿ッ!!」と叫び声だか喘ぎ声だか分からない声を上げて宇佐美はその場で「ヒヒインッ」と悶絶した。寄りにもよってこの男と秘密の共有かと思わなくもないが、この男も数少ない鶴見が全幅の信頼を寄せる相手なのだから仕方がない。
宇佐美を見送って鶴見邸に足を踏み入れると、厨に立って魚を焼いて白米と汁物を作る。それからナマエの眠る部屋に足を向けた。

「ミョウジさん、起きているか」
「…はい、起きてます」

扉に向かって声をかければ、おずおずと言った様子で返事があった。それを待って扉を開けると、寝台の上でナマエが正座をして小さくなっている。

「お、はようございます。えっと……」
「おはよう。月島だ。暫定的に数日間君の身の回りのことを任された」

そういえば名乗ってさえいなかった。鶴見の言いつけ通りになるべく丁寧な態度を心がけ、少し笑ってみせたが目をそらされてしまう。失敗だっただろうか。食事が食べられそうかと尋ねれば是の答えが返ってきて、月島は案内しようと半身を翻す。とろとろ覚束ない足取りのナマエを待ちながら部屋を出て、ゆっくりと歩き出した。ナマエはなにか物珍しいものでもあるのかずっときょろきょろしている。

「どうかしたか?」
「え、あい、いえ……見慣れないものばかりだな、と…」
「そうか」

やはり未来では見ないものがあるのだろう。あの入場券に書かれた西暦が正しいのならば彼女は120年近く未来の世界から来ている。彼女の生きている時代とはあらゆるものが変化しているだろうことは想像に難くない。

「あんたのいた時代とはかなり違うか」
「…はい、そうですね…建物のつくりとか素材とか……一般的な建物では見ないような感じです」
「例えば?」
「え、っと……天井が低いなとか…窓枠も木で出来てるんだな、とか……」

親密度を上げるためにも何か会話をしなくては、とその話を広げてみた。ナマエはどちらかと言えば口下手なタチらしく、同じく口下手な月島とでは会話が上手くつながらずにすぐ妙な空気になった。修繕できない空気感を抱えながら食事を並べた洋室に辿り着いてしまい、仕方なくそのまま茶を淹れてやって献立を完成させる。

「あの……月島さんは……」
「俺は兵舎で摂っている。食えないものでもあったか」
「いえ…そういうわけでは…… 」

ナマエはおずおずと椅子に座り、用意された食事を口にする。別に毒を盛っているわけではないが、少しも疑う様子もなく口をつけるところを見ると、命のやりとりをするような生活とはどこか無縁のように思われた。

「食事が終わったらまた部屋に戻ってもらう。午後から鶴見中尉殿が聴取に来るので、その時までに部屋に置いてある着替えに着替えておいてくれ」

なるべく優しい口調を心がけてそう言えば、ナマエはこくこくと黙って頷いた。昨日と今日と見ている限り、彼女は本当にただの無力な娘のように見える。
食事が終わって、何かあったら呼ぶようにと言いつけてナマエをもとの部屋に戻す。食器類を洗って片付けていると、自分を呼ぶ声がか細く聞こえてきた。もちろんナマエだろう。戻ってみれば、扉からひょこりとナマエが顔を出していた。

「どうかしたか」
「えっと、すみません。私、着物の着付け方を知らなくて……」

着物の着付け方を知らない、という言葉を理解するのに些か時間を要し、ではどうするかと案を逡巡する。着物がひとりで着られないなんて予想外にも程があるが、それをここでどうこう言ったところで仕方がない。しかしこの屋敷にはナマエと月島の二人きりで女手がないのだ。着せてやると言っても自分がやってやるほか選択肢はない。

「あー…すまんがあんたを鶴見中尉の許可なく他の人間に合わせることができない。俺でよければ手伝うが、女手はこの屋敷にないんだ」
「よ、よろしくお願いします……」

彼女がそう答えざるを得ないだろうということは予感していたために驚きもせず、月島は部屋に入ると、箪笥の上に用意しておいた着物たちを端から説明していく。着付け方を解説するにあたって名前を知らないのは不便だろう。裾よけ、肌襦袢、長襦袢、足袋、腰紐、伊達締め、帯…。説明をしながらナマエの顔をちらりと見てみたら、絵にかいたように目を白黒させていた。これはまだ何度か説明しないと覚えられないだろう。
どうやって説明をしようか一瞬悩み、もう着せていくしかないだろうと結論付ける。とはいえ流石に裾除けも肌襦袢を着けていない女に触れるのは憚られる。まずはこの二つを彼女自身で着せるしかない。

「まずこの肌襦袢と裾よけを素肌に着てくれ。あー…こうして、こんな感じで」
「わ…わかりました」

肌襦袢と裾よけを手に実演してみせて、ナマエがそれらを着るあいだ背を向ける。ごそごそ衣擦れの音がして、少し待てば「あの、出来ました……」と声がかかった。少し気まずいものを感じながらも振り向き、今度は生成りの長襦袢を手渡す。ナマエがそれを羽織った。迷いのない動作だし、着物という名称そのものを知らないわけではなさそうだし、存在そのものがないというわけではなさそうだ。

「ああ。じゃあ次にこの長襦袢を着る」

襟元を右前にして合わせ、軽く襟を抜くと、そのかたちが崩れないように伊達締めを手早く締めていく。女の着付けなんぞしたことがないから力加減がわからない。

「苦しくないか?」
「は、はい……」
「じゃあ次だな」

とりあえず問題がないらしいことを確認すると、そこから着物と帯とを着付けていく。やればなんとかかたちにはなるものだ。ひと段落をしたところでナマエを見れば、月島の手際に随分と感心しているようだった。彼女の時代にも着物はあるのだと思うが、早々着ないものなのだろうか。

「あんたたちは着物は着ないのか」
「そ、そうですね…洋服が主流です…着物は冠婚葬祭とか、特別な時に着る印象が強いです…」
「なるほど…確かに縫製の技術も発達していたようだしな」

確かに忽然と現れた際に着ていた洋服も随分としっかりした生地で、縫い目も細かく揃ってつくりもしっかりしていた。これからの日本はああいう洋装が主流になっていくらしい。

「あ、の…ありがとう、ございました……」
「たいした手間じゃないが…あんたも男に着付けられてばかりは嫌だろう。早く着付けを覚えるといい」

おずおずと言うナマエにそのまま伝えると「が、頑張ります」と生真面目な声が返ってくる。敵意はない。もちろん害意も。
それから月島は持ち込んだ執務を終わらせるために別室へと引っ込み、ナマエも与えられた部屋で静かに過ごしていた。午後に鶴見が訪れて面会をし、その間月島は部屋の外で待機をする。そのうちに中からナマエのすすり泣くような声が聞こえてきた。


邸内にある鶴見の私室に呼び出され、宇佐美と交代してからの経過を報告する。とはいっても問題が起こっていないのだから、報告できることは他愛もないことばかりだった。

「月島、どうだ、彼女は」
「……まだ分かりかねますが、刺客の類いでないことは確かかと思います」
「やはりそうか。しばらくは逃亡の恐れもないだろう。自分の置かれた立場を理解する賢い娘だとみえる」

彼女に行く当てなどない。役人の類に訴え出たところで妄言か気違いの類いだとと思われてしまうだろうし、この時代に頼れる場所などあろうはずもない。鶴見は両手を組んで机に肘を置き、芝居がかった調子でため息をついた。自分の前でそんなことなどしてくれなくてもいいのに。

「彼女に自死へ至る経緯を聞いたが、非常にかわいそうな話だ……彼女は元の時代で随分と哀れな身空だったらしい。実の父親に暴力を振るわれて育ち……そしてついには自らの命を絶ったと…」

月島がピクリと反応をする。そうすることを鶴見は良く心得ている。彼はそういうお人だ。組んだ手を解いて机に手のひらをつき、それから人差し指でトントンと天板を軽く叩いた。

「月島、お前ならきっと彼女に寄り添える。何せ同じ痛みを知る人間だ……そうだろう?」
「………はい」

鶴見の口角がゆるりと上がる。果たして同じと言えるだろうか。いや、同じかどうかなど本質的に関係がない。鶴見がそうと言うのなら、頷くだけである。彼女も随分なところに流れ着いてしまった。行く先が地獄だったほうが、まだ幸せだったかもしれない。







- ナノ -