02 落下と死神


遠くで雷が鳴っている。ビルの屋上から見る町はいつもより小さく見えた。見慣れたはずの大嫌いな街。まるで横顔ばかりを見ていた友人の顔を初めて正面から見たような、そんな気持ちになった。街の端からサイレンが聞こえる。消防車が通って、それを追いかけるように救急車が走る。
足元を見ると、冷たいコンクリートがどこまでも広がっていた。空模様は曇天だ。足が少し震える。けれど、引き返すくらいなら踏み出してしまうほうが、彼女にとってはよっぽど楽なことだった。

「ああ、これでやっと終わりだ」

足を一歩踏み出す。それは空を切り、身体が大きく外に傾いた。重力に引っ張られ、地面に向かってどんどん加速する。耳のそばで空を裂く音が聞こえ、目前にコンクリートが迫る。頭の砕ける衝撃は、いつまでも伝わって来なかった。


どくん。まるですぐそばで大太鼓を鳴らされたような衝撃を受け、ナマエはハッと目を開いた。首元と背中にじっとりと汗をかいている。ひゅうひゅうと肺から漏れ出すような息をして、徐々にそれを整えていく。

「は、ぁ……あ……」

ここどこだっけ。自分の部屋じゃない。木目をじっと睨みつけるようにして、途中でようやくここがどこだかを思い出した。そうだ、明治時代の将校を名乗る鶴見という男に倒れていたところを保護され、今度は座敷牢ではなく部屋を一つ貸し与えられたのだ。

「……あつ…」

どうやらここは明治時代らしい。となればもちろんのことエアコンなんて便利なものはない。蝉が鳴いていることからしてここもきっと夏だろう。現代人のナマエにとっては、寝苦しいことこの上なかった。

「ミョウジさん、起きているか」

不意に扉の向こうから声がかかった。鶴見でもないし、あのウサミという軍人でもない。ああ、そうか、座敷牢で目を覚ました時に一番に顔を見たあの男のような気がする。ナマエは慌てて居住まいを正し、扉の向こうにむかって「はい、起きてます」と答える。すると男が扉を開け、コツコツと靴の音を鳴らしながら入ってきた。

「お、はようございます。えっと……」
「おはよう。月島だ。暫定的に数日間君の身の回りのことを任された」

やはり昨日の彼だった。男は月島というらしい。今日もやはり随分な強面で、ほくろのウサミもかなり迫力があると思ったがちょっとその比ではない。現代で言うのなら任侠映画とか警察の組織犯罪対策課とか、そういうところに所属している人間のように思われた。

「食事を用意しているんだが…食べられそうか?」
「あ、は、はい……」

ナマエはとろとろと寝台を降り、月島の方へと歩いていく、月島はナマエがついてくるのを待ってゆっくりと歩き出した。頭を打つほどではなかったが天井はどこも低く、現代とは違うことをまざまざと思い知らされる。もちろん窓のサッシも金属製なんかじゃなくて、網戸なんかももちろんない。

「どうかしたか?」
「え、あい、いえ……見慣れないものばかりだな、と…」

あまりにもナマエがキョロキョロとしているせいか、月島がそんなことを尋ねてきた。隠し立てするようなことでもないので正直に言えば、月島は感情の読めない表情のまま「そうか」と言って歩き出してしまった。

「きみのいた時代とはかなり違うか」
「…はい、そうですね…建物のつくりとか素材とか……一般的な建物では見ないような感じです」
「例えば?」
「え、っと……天井が低いなとか…窓枠も木で出来てるんだな、とか……」

話が広がるとは思っておらず、なんとか頭の中の言葉を口にしていく。どこからどう説明したものかわからなかったが、結局月島は興味があるのかないのかわからないまま、食事の並ぶ洋室にたどり着く。
テーブルの上には一人分らしき食事が並んでいて、白米と焼き魚と汁物が並べられていた。器も中身も現代の標準からいえばかなり質素なものだと言える。

「あの……月島さんは……」
「俺は先に済ませている。食えないものでもあったか」
「いえ…そういうわけでは…… 」

席につき、置かれていた箸を持ち上げて白米を口に運んだ。普段食べていたものよりも少し固い。数回咀嚼するだけで顎が少し疲れてしまって、それはこの食事のせいではなく、そもそもナマエが食事そのものに慣れてないせいだった。

「食事が終わったらまた部屋に戻ってもらう。午後から鶴見中尉殿が聴取に来るので、その時までに部屋に置いてある着替えに着替えておいてくれ」

ナマエはこくこくと頷く。目下、問題というのは自分の身の振り方のことである。昨日話した通り、おそらくこのままここで鶴見の厄介になるのが一番安全のようだけれど、彼が欲しいのは「未来の情報」だ。それを提供してしまえば、自分は用無しになる。彼にとって必要な情報が出そろえば、邪魔な未来人は処分されてもおかしくない。だからと言って何も話さないままでも、有用性がないと判断されて同じことになりかねない。
全体的に薄味な食事を終えると、食器の類はそのままにしておくようにと言われて月島について部屋を出る。そしてまた寝台の置かれた部屋に戻った。

「何かあったら呼んでくれ。外にいる」

月島はそう言い、今度は部屋に入ることなくそのまま踵を返す。さて、特別やることはないが、着替えておくように言われていた。浴衣と思われる寝巻きのままで鶴見に会うわけにはいかない。不可抗力とはいえ、月島にはみっともない姿を晒してしまった。

「あっ…着替えって、これ…?」

寝台の近くに置かれたタンスの上に置かれていたのはどこからどう見ても着物だ。そうか、この時代の平服はまだ和装なんだ、と盲点を突かれたような気分になった。着物なんて生まれてこの着たことがない。成人式にだって参加しなかったし、なんなら七五三もろくに経験していない。
複数の帯と反物を広げてみるが、さっぱり着付けの手順などわかるはずがなかった。試しに反物に袖を通して和装女性を思い浮かべながら襟を右前、左前、としてみたが、一体どちらが正解だったか。
もうだめだ。ここでまごついていても着られるわけがない。ナマエは扉を開け、月島を探すことにした。

「つ、月島さん……」

呼びかけても返ってくるものはない。この屋敷の全貌さえ知らないのだ。右か、左か、勝手に歩き回っていいものだろうか。そのまま屋敷の中に「月島さん」「月島さん」と呼びかけていると、右手の方からカタンと物音がする。別室から姿を表したのは月島だ。

「どうかしたか」
「えっと、すみません。私、着物の着付け方を知らなくて……」

ナマエが正直にそう言うと、月島は驚いたように目をパチパチと瞬かせる。まともに着付けも出来ないなんてこの時代の人間からしたら相当珍しいことだろう。月島はいくつか逡巡し、真一文字に結んだ口から小さくため息を吐き出した。

「あー…すまんがきみを鶴見中尉の許可なく他の人間に合わせることができない。俺でよければ手伝うが、女手はこの屋敷にないんだ」

なるほど、軟禁に近い状態と言うわけだ。昨日の今日で信頼など得られるはずもない。着付けを手伝ってもらうとなれば女性に頼みたい話だが、ここでそんな贅沢は言えないだろう。月島が手伝ってくれると言うなら頼る他ない。

「よ、よろしくお願いします……」

月島は部屋に入ると、重ねられている着物たちの名前から説明をしてくれた。裾よけ、肌襦袢、長襦袢、足袋、腰紐、伊達締め、帯…。他にも細々と色々なものがあり、あと2回くらいは説明を受けないと名前を全て覚えきれそうにない。

「まずこの肌襦袢と裾よけを素肌に着てくれ。あー…こうして、こんな感じで」
「わ…わかりました」

肌襦袢と裾よけをまず自分で着るように実演して見せて、ナマエに自分で着るように言った。それを受け取ると月島が背を向けて、一番下に着るこれらを纏う間、こちらを見ないようにしてくれているのだという気遣いを理解する。
ナマエはあまり待たせるわけにはいかないと見様見真似で肌襦袢を着て裾よけを巻く。これがこの時代の下着の代わりなのか。だとしたらかなり心許ない。

「あの、出来ました……」
「ああ。じゃあ次にこの長襦袢を着る」

月島は少し気まずそうに振り向き、生成りの長襦袢を手渡した。それを羽織ると月島は襟元を右前にして合わせていく。それから襟を軽く抜き、伊達締めを形が崩れないように締める。

「苦しくないか?」
「は、はい……」
「じゃあ次だな」

そこから着物と帯とを流石に手際よくナマエを着付けてみせた。ナマエからしてみれば着物なんてハレの日に着るような特別なものだが、ここでは一般的なものである。ナマエにとってのワンピースやジーンズを纏うような感覚に近いのかもしれない。

「きみたちは着物は着ないのか」
「そ、そうですね…洋服が主流です…着物は冠婚葬祭とか、特別な時に着る印象が強いです…」
「なるほど…確かに縫製の技術も発達していたようだしな」

月島が感心したようにそう漏らす。うっかり話してしまったが、縫製技術の向上なども充分未来に関する情報だ。いや、それはワンピースを見られているのだから今更の話だろうか。

「あ、の…ありがとう、ございました……」
「たいした手間じゃないが…ミョウジさんも男に着付けられてばかりは嫌だろう。早く着付けを覚えるといい」
「が、頑張ります」

月島は先ほど出てきた部屋で執務をしているらしく、何かあったら声を描けるようにと言われた。しかし声をかけるようなことも特にはなく、ナマエは与えられた部屋で寝台に腰掛けて外を眺める。蝉が鳴いていて、だけど元いた世界よりよっぽど涼しい。明治時代の日本ではあるらしいが、ここはいったいどこなのだろう。そんなことを考えるうちに時間が過ぎて、約束の午後になった。
月島がナマエを呼びに来て、初日に通されたのと同じ洋室に連れていかれた。そのうちに靴音が近づき、扉を開けて鶴見が入室する。

「やぁ、待たせてすまないね」
「い、いえ……」

ナマエは一度起立をし、鶴見に促されてから椅子に腰かける。鶴見はさて、と早速話を切り出した。

「申し訳ないが、まだしばらく君をこの屋敷の外に出すわけにはいかない。何かと不便だとは思うが、困ったことがあれば月島に聞くといい」

ここから出られないというのは覚悟の上のことだった。そもそも逃げ出したとして行く当てもないのだからどうしようもない話ではあるし、彼らとしてもまだ素性の信用できない小娘を野放しにすることはできないだろう。意外だったのは「まだしばらく」と頭につけられたことだ。この先外へと出られるようになったりでもするのだろうか。

「今日は、君がここへ来た因果関係を調べたい」
「因果関係、ですか…?」
「そうだ。過去を遡れるような技術が、君の時代にはあるのかな?」
「いえ…私も聞いたことはありません……漫画とか小説とか…そういうフィクション……そういう創作の世界の話です」

ナマエがここに来た理由はナマエ自身も知るところではない。タイムスリップなんてフィクションの話でしかない。鶴見はナマエが嘘を言っていないか見定めるようにしたあと質問を続ける。

「君は…身投げをしたと言っていたね。そのままこの時代に?」
「は、はい……ビル…落ちたら絶対死ぬような高い建物から飛び降りて、死んだと思ったらここで目を覚ましました…」

まだ鮮明に頭の中に残る光景。当たり前だ。一日と経っていないのだ。踏み出してすぐは足が下になっていて、けれど頭のほうが重いから空中で反転する。そして落下する間ずっと空間を裂くように進み、すぐそばでこぉこぉと風が鳴る。ばちんと、そのまま地面にへばりつく予定だった。それなのにどうしてだか、こんなところで奇天烈な額あてをしている軍服の男と向かい合って座っている。

「君のように若い女性が……相当つらい思いをしたんだろう。どうしてそんなことをしたのか、話を聞かせてくれないか」

鶴見がじっとナマエを見つめる。その視線は疑いの類いを一切含んでおらず、ただただナマエの身空を憐れんでいるように見える。今思えば、こうして話を聞いてくれる誰かがいれば、自分は身投げなんてしなかったのではないだろうか。いや、そんなのはタラレバだ。自分を取り巻く現実が付きまとう限り、きっと同じ道を選んでいたに違いない。
それをはっきりと自覚すると同時に、なんのしがらみもないこの男には、話してしまっても良いようなことの気がした。

「……わ、私は父子家庭でした。母の顔は見たことがありません。幼少期から父の暴力を受けて育ちました。殴る蹴るは日常茶飯事で、機嫌が特に悪い日には真冬に裸足で追い出されたりとかも、して。いろいろと悪い噂がある男で、その、実際、稼いだお金も酒とギャンブルに費やしていて…」

ナマエの家庭はお世辞にも正常に機能しているとは言い難かった。父は絵に描いたようなダメ人間で、日雇いの肉体労働者だったが、その稼ぎのほとんどを酒とギャンブルにつぎ込むような男だった。母親は会ったことがない。幼いナマエを置いて家を出たらしいと、中学校に上がったころ知った。
片親の、暴力に脅かされる生活を送るナマエのことを、周りは腫れ物のように扱った。誰にも助けを求めることが出来なかった。高校を卒業して就職した飲食店もまともな会社とは言えず、毎日ふらふらになるまで働かされた。厳しい労働で得たわずかな給金さえ父親に無心されて掠め取られた。ナマエはぽつぽつと身の上話を続ける。鶴見は黙って聞き続けた。

「もうボロボロだった。解放されたかった。だから、だから私は──」
「つらかっただろう。もう大丈夫だ、君を害する父親は、もうここにいない」

鶴見が立ち上がり、ナマエのもとへ歩み寄って膝をついた。固く握られていた手を包み込む。想像よりも体温は温かく、酷く固着してしまったナマエの中の何かを少しだけ溶かした。

「今からでも遅くない。君は救われるべきだ」

目頭が熱くなっていくのを感じる。そんなことを言ってくれる人がいままでいただろうか。溢れた涙が頬を伝う。咽び泣くナマエの背を鶴見が何度も何度もなだめるように撫でていった。自分はまだ泣くことが出来たのだと、このとき初めて知った。







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