番外編 契約と死神


※明確な表現、別ヒロインは出ませんが短編「素敵な愛が始まる予感」の出来事を前提にしています。



金塊争奪戦の事後処理についての細々とした実務作業は、流石にナマエの助力がどうのこうのという領域を超えていて、役に立っているような実感はない。もっぱら今までの通り食事や洗濯をして彼らの日常生活をサポートするのが日々の役割だった。

「よし、天気もよかったし、洗濯ものも乾いたなぁ」

洗濯もののシワをパンパンと両手で引き延ばすようにして、綺麗に整うように畳んでいく。仮宿の中に戻って、今度は薪で火を起こして湯を沸かした。そろそろ月島が戻ってくる時間だ。特別頼まれているわけではないけれど、彼が戻ってくる時間に合わせて温かい茶を淹れるのが日課だった。ガラガラと引き戸が引かれる。

「いま戻った」
「おかえりなさい!」
「ミョウジさん、変わりなかったか」
「はい」

いつも通りの挨拶をして、いつも通りに彼の荷物を受けとる。ナマエは現在、月島と二人で暮らしていた。


旭川に早急に戻る、という手もあったが、それよりは列車事故の事後処理だなんだかんだと理由をつけて出ている方がマシだった。根回しを済ませて旭川に戻り、そこから中央に大博打をうとうというのが現在の作戦である。
ナマエは残党一同が仮宿にしている商家の一室で鯉登と月島に呼び出され、今後のことを含めた話を聞いていた。

「ちゅ、中央政府?から追手とか…そういうの来たりしませんかね…?」
「それほど動きは速くないだろう。そもそも鶴見中尉殿をハナから処分するつもりなら、ここまで鶴見中尉殿を野放しにしないはずだ。中央政府も馬鹿じゃない」

では、何か目的があって泳がせていたというのか。確かに、いくら鶴見が異常なまでに頭が切れる人間だとしても、中央政府だって鈍い連中ばかりじゃないだろうし、それなりに策を弄しているだろう。

「中央政府はアイヌの利権や金塊を諦めていないだろう。菊田特務曹長からの連絡が途絶えてそろそろ焦り始めるだろうが…それでもすぐに行動を起こせないのは我々残党からその情報を得るためだ」

鯉登がごく落ち着いた声でそう言った。ふむ、と考える素振りで頭の中でいくか算段する。中央政府はそもそも、鶴見にアイヌの金塊を探し出させたところを横から掠め取るつもりだった。鶴見が金塊の在り処を特定していた場合、それを聞き出すまでは手が出せない。せっかく何年にも渡ってした根回しが水の泡になる。

「じきに函館での騒動も耳に入ったとしても、中央政府は鶴見中尉の生死と情報が確認出来ない限り大っぴらに動けん。その間にこちらもこちらで地盤を固めなくてはな」
「何か策はあるんですか?」
「そうだな……」

鯉登の言葉に対し月島が切り込み、鯉登がまた「ふむ」と考えを巡らせる。まともにいけばクーデターを率いていた将校である鯉登は最悪の場合銃殺刑に処されるだろう。そうなればナマエとしてもこの世界における最後の後ろ盾を失うことになる。

「まず口説き落とすなら淀川中佐だろう。あの人もハナから鶴見中尉の計画に加担していたんだ。証言なんていくらでもとれるし…あの人なら中央だって切ることを躊躇わん。だから命惜しくばとこちら側に協力してもらう」
「なるほど…確かに現実的ですね」

もちろんナマエはその中に入れるほどの情報も知識もない。むしろここに呼ばれているのも意味がわからないくらいなのだ。鯉登と月島の事の成り行きをただ見守ることしかできなかった。鯉登がさらに思案した。

「淀川中佐を説得出来るだけの後ろ盾が何か作ることが出来れば良いんだが…」
「そうですね。淀川中佐の家系はたしかさほど太い家柄ではなかったと思います。政治的な繋がりがなにか作ることが出来れば強味にはなると思います」

つまりは家柄や人脈で外堀から固めて攻めていくことも可能だということだ。いつの時代も政治的な戦略というものは、大して変わりがないようである。


脚絆を脱ぎ、土間から板張りの床に上がる。少し顔が土で汚れていることを指摘すると、顔を洗ってくる、と言って厨にある甕の水で顔をぬぐって戻ってきた。

「月島さん、お茶用意出来てますよ」
「おう、いつもすまん」

戻ってきら月島に湯呑を差し出し、ほやほやと湯気の向こうで月島の顔が少し緩むのが見える。出会った頃に比べてこういう柔らかな表情を見せてくれるようになった気がする。月島はナマエの斜め向かいあたりに腰を下ろし、湯呑を持ち上げるとズズズと茶を口に含んだ。

「はぁ、ミョウジさんの淹れてくれる茶は美味いな」
「喜んでもらえて良かったです」

未だにナマエの吃音気味なところは変わらないが、月島の前だとそれはかなり改善していた。函館での生活ももう半年だ。この時代についてからは二年の月日が流れ、日々を暮らすことには差支えのない程度の技術と知識は身につきつつある。湯呑の半分ほどまで茶を飲むと、月島がナマエのほうに向き直った。

「鯉登少尉が結婚するらしい」
「えっ」

ほんの世間話のノリで言われた言葉にぎょっとする。まぁ確かに鯉登は若いが、二十歳も過ぎているしこの時代の人間であれば結婚するとして若すぎるということはない。この忙しない中でよくそんな話がまとめられたな、と驚くと同時に、いつの間に恋人を、と思った。いや、この時代に恋愛結婚はないだろうと後半の疑問は打ち消す。

「随分急なお話ですね…」
「御母堂から見合いを勧める手紙が届いていたらしくてな…この前東京に行ってただろう。あの時帝国ホテルで見合いしていたんだ」
「なるほど」

確かにここ最近二度ほど鯉登が東京に行く機会があった。他の所用もあっただろうが、どうにもメインはその見合いであるらしい。この時代の身分事情を正確に理解しているわけではないが、鯉登はかなり良い家柄の跡取りだと聞いたことがある。きっと相手も良家の御令嬢に違いない。

「お相手は東京の方なんですか?」
「ああ」
「あの、そういう場合ってこの時代、お嫁さんがこちらにみえる…んですよね…?」

見合いの場所が東京なのならその相手も東京の人間だろうと思ったが、鯉登は遥か遠く離れた北国に所在する身である。嫁入りと言うと文字通り花嫁が花婿の家に来るものだけれど、東京の女性だということはひょっとして東京に鯉登が行くことも考えての話なのだろうかと考えた。

「相手は子爵家の御令嬢だからな…流石に鯉登家よりも家格が上だし、普通鯉登少尉が転勤なりなんなりするんだろうが、今回はその御令嬢たっての希望で北海道に移住なさるらしい」

子爵家、と聞いて未来人の自分にもわかりやすい高貴な身分に眩暈がしそうになった。良家の御令嬢とは思っていたが、これはそもそも鯉登という男自体、元々自分のいた世界では関わることもなかっただろう身分の人間なのじゃないだろうか。

「な、なんだか凄い方とご結婚されるんですね…」
「まぁな。海軍と強い結びつきのある家柄だし、鯉登少尉の現状と今後を鑑みても良い相手だろう」

月島が濁した言葉の裏側を読み取ってしまって、少し心臓がきゅっと掴まれたような気分になった。現状と今後。これはそのものを利用するための計算づくの見合いであり結婚。気持ちとか愛情とか、そういうものは二の次だということだ。この時代の人間にとっては当たり前のことだったかもしれないが、ナマエにとっては複雑なものが残る。

「ミョウジさん?」
「あ、いえ……」
「何か気になることでもあったか?」

月島がこちらを気遣って言葉をかける。自分の思考の中身を彼に言ってしまうのは流石に憚られる。ナマエが曖昧に濁すと、月島は少し黙ってから唇を躊躇うように擦り合わせ、それからゆっくり開いた。

「……君には、しっかりとした身分を与えることが出来なくてすまない」
「え?」
「流石に戸籍を用意するのはまだ難しくてな…」

自分の思っていたのとは明後日の方向に話が飛んで、一体何のことだろうと思考を巡らせる。確かに未来からやってきた自分にそんなものを用意するのは困難なことだろうし、戸籍なんて用意してもらえるなんて考えたこともなかった。

「え、えと…」
「結婚の届け出をするには戸籍がないと話が始まらないだろう」
「た、確かにその通りなんですけど……」

月島が渋い顔をした。言っていることは理解できる。自分はこの先もしっかりとした身分を得られることはないだろう。自分はそもそも本来ここにいるはずのない人間である。幸い元々生きていた時代より個人情報だとか本人確認だとかの概念は薄い世の中だから、なんとかなるのかも知れないが。

「俺はミョウジさんのそういう希望を叶えてやれないから…」
「あっ、えっ……」

月島の言葉にナマエは彼が何を意図して話をしていたのかを理解した。鯉登の結婚から自分の結婚を連想して、それを叶えることが出来ないということを申し訳ないと言っているのだ。そこまではいい。しかし問題は、ナマエの結婚の相手の中に当然のように彼が自分自身を勘定しているということだ。

「わ、私…あの、そばにいてもらえれば、そんなのなくって平気です、から…」
「おう…」
「結婚、とか…その……」

私と考えてくれているんですか。と、言葉に出来たような、出来てないような、自分でも緊張し過ぎて分からなかった。恐る恐る月島のほうを見れば強面の顔が真っ赤に染まっていて、手にしていた湯呑がごろんと床に落ちた。

「つ、月島さん火傷っ…!」
「いや、大丈夫だ」
「拭くもの何か持って──」

手拭いを持ってこようと立ち上がろうとして、月島も同じタイミングで動き出したから二人の距離がぐんと近づいた。拳一個分もないだろう距離で月島と視線がかち合う。捕えられたように動けなくなって、次の瞬間ぐっと引き寄せられた。

「……すまん」

何に対しての「すまん」なんだろう。そう思っている間に月島の顔がそっと近づいて、ナマエの唇にそっと触れた。床にこぼれた茶がナマエの着物の裾にじんわりと染み込んだ。早く拭かなきゃ、とそう思うのに、まだ彼の腕の中から離れることが出来ない。


鯉登の妻になる女性を迎えて数年後、彼女と鯉登との愛が芽生えたような頃にようやくナマエはこの日の自分の複雑だった思いを月島に打ち明けると、まったくの見当違いで自爆していたことを知った月島は真っ赤な顔で「忘れてくれ」と顔を覆った。紙切れ一枚の証明書はどこにもなかったけれど、それでも確かにナマエの日々の隣には月島がいた。







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