27 死神の選択


その日、月島が風呂を浴びようと診療所の外に出ると、馬場でもない場所に一頭の馬が繋がれていた。この馬は誰を乗せてきたのか。見当はすぐについた。月島は踵を返し、銃弾の装填を確認しながら階段を上った。インカラマッの病室は三階だ。カチャカチャと軍靴の音を鳴らしながら近づき、部屋の前まで到着すると音を鳴らしながら立ち去る。ある程度離れたところで軍靴を脱いで素足になり、気付かれないようにひっそりと部屋の前まで戻る。扉の取っ手が回転したのを確認し、右足で強く蹴りつけた。
忍び込んでいたのは予想通り谷垣だった。月島は巨体を蹴り倒すと、続いて谷垣の右手を蹴り、握っていた拳銃を落とす。

「お前がここへ来たということは、鶴見中尉の命令を反故にするということだよな?」

月島は銃口を谷垣に向ける。馬鹿なことを。邪魔をするなら排除するまでだ。

「お前の選択だぞ、谷垣一等卒」

インカラマッがすかさず月島と谷垣の間に割って入った。「離れていろ!」と谷垣は言ったが、インカラマッは強い瞳で月島を見つめ続けている。

「これが月島ニシパの正義なら私から殺しなさい」

月島の銃口はブレなかった。邪魔になるものは排除する。それだけ、それだけだ。でなければ今まで捨ててきたものはどうなる。月島が引き金を引こうとしたその瞬間、背後から押さえられて首筋にちくりと痛みが走った。注射器で薬と投与されたと気が付いたのは振り返ると同時だった。頭に血がのぼっていたのか、家永に接近されていたのに気付いていなかった。

「逃げて」

そう言う家永の肋骨の間を撃ち抜く。谷垣がそれを止めようとして、それに頭突きで応戦した。腹に膝蹴りをお見舞いする。そのまま谷垣を仕留めようと馬乗りになり、銃を構えたところで薬の効き目が顕著に表れる。ぐらりと視界が揺れ、耐えられなくなった月島はついにそこで力尽きた。谷垣とインカラマッがなにかをは話している。どうにか足止めをしないと、と月島が気力で立ち上がるときにはもう二人が外の馬に乗っていた。

「っ……くそ……」

小銃を構え、窓から馬を狙う。当たったか。いや、この視界で当てるのは難しい。はやく追いかけないと、と、そこでもう一度月島の意識は途絶えたのだった。


どれくらいの時間が経ったか、意識を取り戻した月島はすぐさま小銃を手に逃げた谷垣とインカラマッを追った。先ほどの狙撃でどこかに弾を掠めていたようで、血の跡らしきものが続いているから追跡は容易だった。
血痕は山に続いている。やつはマタギだ。山に逃げ込まれたら厄介なことになるに違いない。二人は街の外れの廃屋のひとつに逃げ込んだようだった。月島は谷垣が顔を出したところを見計らって小銃を撃つ。それは入口の戸を掠め、命中することはなかった。
廃屋に突入しようとしたところで拳銃を持った谷垣が応戦してくる。弾を屈んで避けると、そのまま太ももに体当たりをして押し倒し、馬乗りになって顔面を殴った。しかし谷垣に持ち上げられて投げ飛ばされ、その隙に馬に乗って二人が逃走を図った。すぐさま立ち上がり拳銃を撃つが、荷をかすめるだけに留まった。

「チッ……」

捜索をしているうちに夜が明けた。周囲を見渡せば、血痕がぽたぽたと続いている。山に入り、それをひとつひとつ着実に追った。しかし途中で左下肢に傷をつけられた馬に行きついた。

「馬の血痕を追わされたか…」

臨月の妊婦を抱えて行ける場所も、谷垣が行きそうな場所も見当がつく。この山はアシリパのコタンがある山だ。月島はすぐに目標を変え、山道を駆けだした。
しばらく走れば目的地が見えてくる。家から出てくることを予測し、銃床で谷垣を殴れるように体勢を整える。一番大きな家がアシリパの祖母の家だ。入口の死角から近づくと、飛び出してきた男を殴る。谷垣だ。

「えッ?なに!?」
「やめて!!」

家の中から知らない女とインカラマッの声が聞こえた。殴りつけた谷垣を蹴り倒し、出入り口を塞いで小銃を谷垣に向ける。

「俺だけ殺せ。インカラマッやフチたちには何もするな」
「谷垣一等卒…お前はずっとずっと前に選択を間違った。隊に戻らずその女や老婆に出会ったときから……」

月島は静かに谷垣を責め立てた。今更戻ることはできない。前に、前に進むことしかできない。裏切者を、生かしておくわけにはいかない。どす黒いものが頭と胸を浸食していく。

「月島ッ!!もういい、月島やめろッ!」

月島の思考を引き止めるように鯉登の声がした。見れば鯉登が馬に乗って追ってきていた。ここまでつけてきていたのか。

「谷垣たちが無事に逃げられるか私をつけてたんですか?」
「そのふたりを殺したところで何になる。谷垣に頼るのがアシリパを見つける唯一の方法では無いだろう!?逃げたいものは放って置けばいい!!」
「脅しとは実行しなければ意味がない。他の者にも示しがつかない」

この二人を逃がせば、他の連中だって触発されるかもしれない。そうなったら収拾がつかなくなる。月島は谷垣とインカラマッに小銃を向けたまま左手の拳銃を鯉登に向ける。

「邪魔をするなら殺すと言ったでしょう。あなたも鶴見中尉を裏切ったということでいいですか?」

月島の光のない瞳が鯉登を見つめる。鶴見の命令に逆らうのであれば、何者であろうとも排除する覚悟がある。引き金を引いて、鯉登の胸に穴をあけることに躊躇いなどない。

「鯉登少尉はどっちですか?親子共々利用されたことで鶴見中尉に不信感を抱く造反組ですか?」

鯉登が黙り、月島を強く見返す。人差し指にわずかに力がこもる。彼ら親子を利用した現場にいたのは他でもない自分だ。どんなふうにして、どう仕組み、どう操作したのか。いまでも勿論鮮明に思い出すことが出来る。

「銃を下ろせ。これは上官命令だ」

鯉登の声は普段よりも力強く、それでいてどこまでも冷静だった。上官命令という言葉を鯉登が自分に対して使うことがあるとは思わなかった。

「私は鶴見中尉殿と月島軍曹を最後まで見届ける覚悟でいる」

その強さに月島は少しだけ目を見開く。鯉登の言葉が黒いものを有耶無耶にしながらじわりと月島の心の中に沁み込んできた。鯉登はそれに気が付いているのか否か、依然言葉を続けた。

「月島…お前は鶴見中尉殿の行く道の途中でみんなが救われるなら別に良い…と言ったな。私も同意見だ。そのために私や父が利用されていたとしてもそれは構わない」

それは大泊での話だ。誰かを救おうなんていう崇高な精神は持ち合わせていないが、何もかもを蹂躙したいという破壊的な思想を持っているわけではない。鶴見の目的の、自分たちの行動の、その中で救われるものがあるのは別に摘み取るようなことでもない。それは紛れもない月島の本音だった。

「ただ私は、鶴見中尉殿に本当の目的があるのなら見定めたい!!もしその先に納得する正義がひとつも無いのならば…後悔と罪悪感にさいなまれるだろう……だからこそ我々はあの二人だけは殺してはいけない!」
「私にはもうない!!」

月島は鯉登の言葉に間髪入れずに声を荒げた。もうない。何もかも、何もかも捨ててここまで来た。戻れない地獄への道をひた走ってきた。今更どんな道があるというのか。他に何が選べるというのか。

「たくさん殺してきた…利用して死なせてしまった者もいる」

敵兵だけではない。囚人も、その騒動にまつわる犯罪者も。そして夕張では、鶴見への敬愛を生まれて初めての生きがいにした若い命さえ。そして今だって、頼る辺のない女を死神にした。鯉登が「まだ遅くないッ!!」と月島を引き止めるように言った。

「本当に大切だったものを諦めて…捨ててきました…私は自分の仕事をやるしかない」

父親を殺して、本当は死刑を待つ身だった。それを鶴見に救われた。あの子の遺髪だと思っていたものは遺髪ではなかった。生きていた。自分を救い出してくれた鶴見の演出だった。演出。なにもかも、そう、なにもかも。それでも。

「その厳格さは捨てたものの大きさゆえか?月島…!!」

ずっと縋っている。あの子は生きているという、鶴見中尉の嘘かもしれない言葉に。だからナマエにだって生きていると言った。本当のことを悟っていても、口に出したくなかった。第二師団の人間があんなところにいるはずがない。自分が種明かしをするところまで彼の算段だったのだろう。だから、あの子は、春見ちよは、もう。

「あの子は…」

本当に生きているのか、幸せになってくれたのか。いや、そんなことを聞いてどうする。自分でももうよくわからなかった。インカラマッが月島にむかって手を伸ばし、丁度そのとき陣痛が始まった。アイヌの女が慌ただしく近寄り、インカラマッを奥に運んでいくと、立っているものは親でも使えとばかりに谷垣と鯉登と月島に用事を言いつけた。
インカラマッの呻き声が聞こえる。アイヌの女たちが慌ただしく行きかい、外に追い出されたかと思えば中に呼ばれておまじないという臼転がしをさせられた。月島はアイヌの赤ん坊を抱かされていて、突然始まった大騒動に赤子は驚いているようだった。この赤子はどこかで見たような気がするけれど、赤子の見分けなど容易につくはずもなかった。
ああそうだ、彼女も子供を抱いていたことがあった。あの時は抱くように言いつけられなかったし、悪人の子供という自分との妙な共通点に気おくれした。彼女は不器用に笑ってあやそうとしていた。

「月島、お前が捨てたものは自分の手に戻ることはないだろう。それでも…新しいものを手にして育てていくことは出来る」

最終的に家を追い出され、外でインカラマッの出産を待つ間、鯉登がそう切り出した。月島に向かって手を伸ばし、子供を抱くのを交代すると言っているようだった。子供は身分のへり下りなんて知らないから、自由に鯉登に手を伸ばし、すっと通った鼻筋を触って遊んでいる。

「ナマエさんがお前の帰りを待っている」

ぎゅっと赤子に鼻をつままれる格好のつかない状態のまま、鯉登がそう言った。何か返そうと口を開いたが、見計らうかのように家の中から産声が上がった。落ち着かない様子だった谷垣が一目散で家の中に入ってく。


酔い潰されていたという見張りのための小隊の兵士を叩き起こし、自分の怠慢を鶴見中尉に黙っておくかわりに一週間ほど街で頭を冷やすこと、それからこれまで通り異常なしと報告をし続けるようにと指示をした。
鯉登のことがまだ分からない。鶴見を盲信し、からくりがごとく迷いなく進んでいた時とは違う。樺太での経験で彼は確実に変わってきている。

「鯉登少尉殿…あれは本心だったのですか?それともあの場を誤魔化そうとしたのですか?」
「どちらとでも好きにとれ。ただ私は。鶴見中尉殿が皆を犠牲に己の私腹を肥やさんとしたり、あるいは権力欲を満たしたいだけの…くだらない目的を持つ人間とは到底思えないのだ」

樺太への帰還直前、鯉登は自分が利用されていたことを知って憤るどころかそれさえ賛美に変えた。

「あのひとの本当の目的…お前は心当たりがひとつもないのか?」
「本当の目的など…そんな物は無いかも知れません。嘘偽りなく戦友たちへの弔いと日本の繁栄のため……」

そこまで口にして、ある日目にした指の骨のことを思い出した。薄暗い部屋の中、鶴見がとても特別なもののように指の骨を撫でていた。思わず「指の骨…」と言葉に変える。

「指の骨を見たことがありますか?」
「誰の指の骨だ?」
「いえ…関係ないかも知れません」

自分が考える可能性など陳腐なものでしかない。結びつけてしまうのは早計だろう。しかし、あの指の骨は鶴見にとってまるで特別なもののように見えた。鯉登はじっと鶴見の写った写真を見つめる。

「同胞のために身命を賭して戦う。それが軍人の本懐だ!そうだろ月島。お前の鶴見中尉殿に対する姿勢は健康的ではない。私は鶴見中尉を前向きに信じる。月島はその私を信じてついて来い」

まったく光の塊のようなひとだ。こちらの事情などお構いなしに、陽だまりのほうへと引っ張っていってしまう。鯉登は懐から小さな鋏を取り出し、チョキチョキと動かす。それは月島の顔に自分の顔を貼り付けて鶴見と二人で写っているかのように見せかけるお得意の合成写真で、しかし鯉登の顔の下半分が切られることでその下に本来あった月島の顔が覗いている。「こういうことだ月島!!」と堂々言われたが、まったくもって意味が分からない。


一週間後、念のため見張りの兵が戻ってくる前に谷垣とインカラマッを出発させる段取りを組んだ。

「お前たちにはまんまと逃げられたと報告する。他の連中に出くわさないよう南へ向かえ」
「本当にありがとうございました。鯉登ニシパ」
「三人とも達者でな」

馬はここまで鯉登が乗ってきたものを使わせた。インカラマッは鯉登に礼を言うと「月島ニシパ」と自分に対して切り出した。

「あの時千里眼で見えたものですけど…」

陣痛の直前に見たもののことだろう。月島は右手を出して言葉を止めるような仕草をして「必要ない」とインカラマッの申し出を断る。あの時だって何を聞けばいいのかわからなかったくらいなのだ。見えたものを聞いてどうする。頭の中に今思い浮かんでいるのは、諦めたはずのあの子ではなく、今も病院で自分の帰りを待っている彼女のことだった。

「帰るぞ、月島!ナマエさんを待たせているからな!」

谷垣たちを見送って、鯉登が意気揚々と歩き出す。まったく、この太陽は眩しすぎて恐ろしい。隣にいると光で洗われるような気になってしまう。







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