26 逃走と死神


二階堂は情緒の不安定な状況が続いていて、出会ったころのつんけんとした様子はすっかり見られなくなっていた。今日もシーツを各部屋に運んでいたら、病室からずいぶんと元気な二階堂の声が聞こえてきた。

「おはようございます!!鯉登少尉殿!!月島軍曹殿!!」

ひょっこりと病室を除けば、いつになくシャキシャキした様子で二階堂がぶんぶんと頭を振っている。鯉登も驚きを隠せずに「おお、二階堂一等卒、いつに無くシャキッとしておるな」と言っていた。

「ハイッ!有坂閣下から頂いた新しい薬のおかげであります!!鯉登少尉殿、月島軍曹殿、おはようございますッ!」
「新しい薬?」

こっそりと部屋の中に入り、月島に会釈をした。新しい薬とは何のことだろうか、と思っていると、鯉登と月島と二階堂以外にも人がいたようで、髭を生やした中年の男がぬるっと現れた。この男は有坂。兵器開発の天才であり、鶴見の貴重な協力者の一人だ。

「私の友人の薬学者である長井くんが開発したメタンフェタミンという薬だ!!」
「有坂閣下おはようございますッ!!」

きーんと耳をつんざかれるような声のボリュームに思わず顔をしかめた。この声の大きさは有坂の特徴のひとつである。話によれば、長きにわたる兵器開発で耳を悪くしたらしい。有坂が机を取り出すと、そこに二階堂が義手の右手を乗せて、箸で指の間を高速で突いていく。こういう度胸試しのようなものが現代でもあったような気がする。

「この薬は売れるよ絶対!!元気のなかった二階堂くんもおかげでハツラツとしておる!!昨日はこれを6時間くらいやってた!!」

ドドドドドと凄まじい音がする。すごい集中力だ。これはなにかヤバい薬なのではないか。いや、もっとも、時代背景的に取り締まられるようなものではないのかもしれないが。そうこうしているうちに続いて家永がトコトコと巡回に現れ、鯉登の問診をする。

「鯉登少尉殿、経過は良好ですね。やはり若いというのは素晴らしい。傷の治りも早いし肌にも…ハリがあって…」

言葉の後半から不穏になって家永は口をあんぐりと開けると鯉登の右腕に噛みつこうとする。すかさず月島が頭に拳銃を突きつけて「お前も刺青人皮にしてやろうか」と脅しをかける。その後ろで二階堂がダダダダダと勢いよく走り出した。

「私の刺青の写しは鶴見中尉も土方歳三さんも持っているので、わざわざ引っ剥がしても使い道は御座いませんけど」
「じゃあ財布にする」

さすがは肝が据わっているというか、月島の言葉に家永はすこしも怯える様子はなく、むしろ多少面倒くさそうな様子さえ見せた。家永は女性の身なりをしてい老爺と聞いているが、近くで見てもあまりそれを感じさせない。

「採血しますねー、鯉登少尉殿」
「若い患者から必要もないのに血を抜くのはやめろ。お前が逃げずに軍病院にいる目的はそれだろ」
「医者の代わりはいくらでもいますが、私のような名医はめったにおりません。鶴見中尉殿もそうおっしゃっていたでしょ?」

堂々と家永が言った。確かに、家永は頭を撃たれた杉元の手術を成功してみせた。この時代の医療技術ではめったになせることではない。そうして月島と家永が攻防を続けている間にも二階堂はダダダダダと部屋の中を走り続け「ウンコしたあとの猫みたいに走っとる!!」と有坂が手を叩いて喜んでいた。何とも取っ散らかって表現の難しい光景に黙ったままでいると、家永がナマエに目をつけ、じっと見つめる。

「ナマエさんは本当に綺麗な目をしていますね。ぺろりと舐めてしまいたいくらい」
「えッ……!」

矛先が急に自分に代わってナマエがたじろぐ。すると月島がもう一度拳銃を家永のこみかみにぐりぐりと当てて「おい」と凄んだ。

「ミョウジさんに余計なことをするならタダじゃ置かないぞ」
「いやだ、冗談じゃありませんか」

やっぱり家永は凄まれても少しも怖気づかずに、フフフと優雅に笑ってみせた。


ある日のことだった。今日もあれこれと雑用を手伝っていると、二階堂の声が聞こえたきた。「ない!!ない!!どこにも無いッ!!」と、どうやら何かを探しているようである。
探し物であれば彼の欠落した手足では難しいだろう。手伝ってやらなくてはと急いで病室に向かった。

「無いーーッ!!」
「どうした二階堂」
「こ、浩平さん、探し物ですか?」

顔を出せば、丁度月島が二階堂に話しかけていて、ナマエもそれに便乗した。浩平はいつものヘッドギアをつけてふらふら病室の中を歩いている。インカラマッも同じ部屋に来ているようだった。

「朝起きたら義手がどこにもないのです!!」
「誰かが隠したんじゃないのか?いつもあれでうるさいから」

ベッドに座ったままの鯉登がクスクス笑う。いつものあれとは何だろうかときょとんとしていると鯉登がナマエに受かって「箸で指の間をドンドンとするアレだ」と補足をした。なるほど。まぁ確かにあれは騒々しいが、この言い回しではまるで鯉登が隠したように聞こえる。

「私の千里眼…ウエインカラで探しましょうか?」

インカラマッがそう提案をする。二階堂が礼儀正しく頭を下げて「おねがいします、インカラマッさん!!」と頼んだ。彼女はおもむろに自分の右手を見ると、いくつかの間をたっぷりと取った。千里眼も何も鯉登にどこへ隠したか聞くのが早いのではないか。

「鯉登ニシパの方角から強く感じます」

インカラマッがまるで何かを読み取ったかのようにそう言って、すると鯉登は心底驚いたという顔をしながら自分の掛け布団の下から二階堂の義手を取り出した。やはり鯉登が隠していたらしい。二階堂が「あったー!!」と言って義手の方へと飛びつく。

「驚いた…!!なんでわかったんだ!!不思議だ!!」
「私でも見当つきましたが」

驚愕する鯉登に対して月島が冷静にツッコミを入れる。確かに今のは占いも千里眼も関係なくわかる気がする。鯉登は懐から何かを取り出すと、ガジガジガジと噛みだした。あれは前にインカラマッから見せてもらったことがある。何という名前だったか。

「インカラマッはすごいんだぞ月島ぁ。なんでもズバズバ当ててくる。怖いくらいだ」
「なに噛んでるんですかそれ」
「魔除けのイケマの根。一本1円20銭だ」

そうだ、イケマの根だ。以前ナマエに勧めてきたときは60銭だった気がするが、倍に膨れ上がっている。「オイ…鯉登少尉から金を巻き上げるのはやめろ」と月島が言ってもインカラマッはニコニコ笑うばかりで否定はしない。

「全然信じておらんな?疑うなら試しにお前も見てもらったらどうだ!!」
「結構です」

鯉登の言葉を月島が突っぱねる。彼には珍しく子供のようにプイっと顔を背けた。インカラマッが月島に向かってゆっくりと右手を差し出す。

「見てさしあげましょうか?月島ニシパ。見つからないものとか…探しているものはありませんか?」
「オレを手懐けようなんて思うなよ」

ゾッと背中を冷やすような声音だった。この瞬間までの騒がしいお道化た雰囲気のすべてを凍り付かせる。インカラマッは手を引っ込めて、それから何かを考えるような間のあとで口を開いた。

「北海道へ返ってきたはずの谷垣ニシパがここに来れないのは私が人質だからですか?」

谷垣は鯉登や月島と一緒に樺太に行った。そしてナマエも会話こそしていないが、大泊でその姿を見ているし、あのあと北海道へ戻っているのは間違いないだろう。それでもインカラマッのもとへお腹の子の父親であるはずの谷垣は姿を見せない。それは見せたくないのではなくて「見せることが出来ない」のだ。
鶴見たちはナマエにとって悪人ではないけれど、目的のために手段を選ばない人間であることは心得ている。谷垣を利用することで得られるものがあるのなら、そのために妊婦をも人質に取ることは厭わないだろう。

「あれ?お箸が出てこない!!中に何か詰まっている!!」

黙り込んで停滞する空気の中に二階堂の大きな声が反響する。そう言えば彼が探し物をしていると思って来たんだった。見つかった義手を着けてやらねばと彼の方を見れば、義手の中指の部分を覗き込んでいる。あそこがお箸入れになっているのは有坂のアイディアらしい。
二階堂がふるふると義手を振ると、中指のところから端ではなくてなにかヌロッとしたものが飛び出てきた。

「羊羹だ」

鯉登が得意げに笑う。なんでそんなところに羊羹を詰めようと思ったのか。羊羹では指の間をドンドンドンとは出来ないが、これじゃ今から今度は隠されたお箸探しが始まるに違いなかった。


病院での日々は穏やかに過ぎていった。今までの騒がしさや恐ろしさはなりをひそめ、静かに時間が進んでいく。ここにいるとこのまま穏やかな時間が続けばいいのにな、と到底実現不可能だろうことを、ついつい考えてしまう。
そうして病院での日々を過ごしていたとある夜。変化は唐突に訪れた。暗闇の中に銃声が鳴り響き、ナマエは間借りしていた病室の中で飛び起きた。こんなところにまで敵襲が来たのか。大きな物音が立ったときには勝手に外に出ないように言いつけられている。ナマエは息を潜めて部屋の隅にうずくまった。「インカラマッ!」と彼女を呼ぶ声が聞こえたような気がした。彼女に何か危機が迫っているのか。

「っ……!」

やがて銃声が鳴り響いた。乾いたそれが一回、二回。しばらくしてからまた一回。最後は恐らく銃の種類が違う。月島さん、月島さん、と心の中で唱えていると、ナマエの部屋をコンコンとノックする音が聞こえた。月島だ、と思って近づいたが、そこに立っていたのは月島ではなかった。

「こ、鯉登少尉……」
「ナマエさん、大丈夫か」
「は、はい。あの、なにかあった、んですか…?」

寝巻きの浴衣姿の鯉登は口を噤んだ。単なる敵襲なら口ごもる必要はない。何か恐ろしいことが起きたのかとひゅっと息をのむ。

「……谷垣が、インカラマッを連れに来た」
「え……」

インカラマッに何かが起こっていたことは間違いないようだが、相手は谷垣ときた。谷垣とインカラマッは相思相愛の仲であり、あのお腹の子の父親は他でもない谷垣だ。そしてインカラマッは鶴見たちにとっての人質である。谷垣には杉元に接触して暗号解読の鍵であるアシリパを確保するように交換条件を提示していたはずだが、それを反故にしたということは、今後彼らが一切容赦されないということを意味する。

「インカラマッさんは……」
「月島が追っている。私もすぐに後を追う」

そうか、先ほどの発砲も戦闘も相手は月島だったのだ。月島相手に妊婦を抱えてなんてよく逃げられたものだ。鶴見中尉との約束を反故にして逃げ出した人間の末路がどんなものかなんて火を見るより明らかなことだ。

「私たちには私たちの正義がある……私は月島にこれ以上後悔をさせない」

鯉登の声は少しもブレることがなかった。それを聞いて、ああ、彼はインカラマッと谷垣を助けるつもりなのだとわかった。本当に鯉登は変わった。堂々たるさまに風格を感じる。

「しばらく留守にするかもしれない。必ず帰ります」

ナマエはこくりと頷き、鯉登の背中を見送った。もうインカラマッは臨月だったはずだ。無事に子供が生まれると良いけれど、とと思ったところで、死神になる覚悟をした人間が何を今さら、と自分の頭の中を自嘲した。

「……月島さん…」

小さく彼の名前を呼ぶ。どうか彼の心の柔らかい部分が損なわれないように。そのことを願うばかりだ。窓の外を見てみたけれど、ろくに街灯もないのだからなにもかも見えるはずがなかった。


谷垣とインカラマッが逃げ出したあの日、家永が月島を引き止めようとして殺されたと知ったのは翌朝のことだった。鯉登が看護婦に知らせて応急処置にあたったらしいけれど、銃弾は肺を貫いていてもう手遅れだった。賑やかだったはずの診療所は嘘みたいに静かだ。もっとも、その方が病院としては相応しいのだろうけども。
騒がしい夜から一週間後、鯉登と月島が帰ってきた。谷垣とインカラマッはいない。ナマエは鯉登と月島に怪我がないことにホッと胸をなでおろす。

「おかえりなさい、月島さん」
「………ただいま」

月島は何かを噛みしめるような間をもって返事をした。谷垣とインカラマッはどうしたのだろう。何も言わないということは、きっと予定の通りに「処理」をしたということだ。そう思い、ナマエは自ら進んで聞くことはしなかった。

「……谷垣とインカラマッは逃がした。子供もちゃんと生まれたぞ」
「鯉登少尉!」
「いいではないか」

鯉登の言葉を月島が止めたが、鯉登は聞いてやらないという姿勢を崩さなかった。良かった。そうか、子供は無事に生まれたのか。自分にはこんなことを思う資格なんてないとわかっていても、安堵する気持ちは本物だった。

「しかし鶴見中尉殿にはまんまと逃げられたと報告する。ナマエさんもくれぐれも他言無用で頼む」
「…はい!」

以前なら、鶴見の望む通りの結末を提供していたのではないだろうか。少しずつ、何かの軌道が逸れつつある気がする。それがなにかを、言葉にするのは難しいけれど。







- ナノ -