24 死神の引き金


樺太での任務はアシリパの確保である。ロシア語をここまで使うのは久しぶりだった。敵同士で、しかも元々反りの合いそうにない鯉登と杉元の面倒を見なければいけないのは骨だ。チカパシというアイヌの子供がうっかり荷に紛れ込んでついてきたが、チカパシの方が鯉登や杉元よりもよっぽど手がかからないのではないかと思われた。

「なぁ、ミョウジさんって看護婦じゃねぇんだろ。なんであんな場所にいたんだ?」
「…お前たちには関係ないだろう」
「そうだけどさぁ」

つれねーの。と言って杉元が拗ねたように唇を尖らせる。対外的な彼女の身分は鶴見の遠縁であり、それを杉元に公表しても問題はないが、明かさなくていいなら明かさない方が安牌である。どうせ網走ではロクに話もしていないだろうし、わざわざ長々と説明してやることもあるまい。


樺太に来て自分でも驚いたのは、想像以上に自分が彼女のことを考えてしまっているということだった。いままでも、ふとした瞬間に彼女はどうしているだろうかと考えることはあった。しかしこれほどまでの頻度ではなくて、離れる距離と比例するように彼女のことを考える時間は深く長くなっていた。命の危機に瀕する今もだ。

「月島ァ!!」

熱い。首が燃えているように熱い。どうしてだ、何があったんだ、と思考回路の全てが一瞬飛び、走馬灯かの如くナマエのことを思い出した。そうだ、鯉登が谷垣の小銃を持ち上げて、それがが仕掛け爆弾の起爆になったのだ。谷垣や杉元の話によればキロランケは工兵だったらしい。材料さえあればこれくらいの仕掛け爆弾を作るのは造作もないことだろう。
鯉登は、鯉登は無事なのか。月島は右の首から流れ出る血液をどうにか押さえながら鯉登を確認する。

「鯉登ッ少尉殿…怪我は!?」

鯉登はすぐに立ち上がり、キロランケを殺すべくずんずんと進む「ひとりで行くな!!」と止めたって止まってくれやしない。肝心な時にこのひとはいつもそうだ。

「おのれ…!!」

月島はどうにか這いずり、ふらふらと立ち上がる。吹雪く中を血痕が続く方へとどうにか足を進めて鯉登を追った。死ぬわけにはいかない。上官を危険に晒したままでこんなところで。北海道へ帰って、ナマエのもとへ、それで未来の情報を引き出して、ミョウジさん、ミョウジさん、おれは。

「ミョウジ、さん…」

朦朧とする意識をどうにか繋ぎ止めながら歩いていると、鯉登とキロランケが掴みあっているのが確認できた。谷垣が月島に合流する。

「おぉのれッ!よくも…私の部下たちをッ!!」

鯉登が叫び、マキリをキロランケに向けるが、寸でのところで止められる。キロランケは逆に馬乗りになって鯉登の右腕を貫通させながら胸に向かってマキリを突き立てた。キロランケの上半身を谷垣と月島の二人で撃ち抜く。ただでさえ手負いだったキロランケはぐらりと体勢を崩し、仰向けに倒れた。

「鯉登少尉殿…!」

顔面を真っ赤に染めた鯉登は立ち上がると、自分の腕に刺さっていたマキリを抜き「手出し無用。私が仕留める」といって自分の軍刀を手にしてキロランケに向かった。軍刀で接近戦をすることもない。あと数発小銃を撃ち込めば済む。そう諭そうとした瞬間、背後からシュッとなにか金属が擦れるような音がした。これは、と一瞬考え、振り返りざまにそれが手投げ爆弾だと気が付いた。間に合わない。鯉登を守らなければ。身体を動かす間際、月島より速く鯉登が動いた。鯉登は軍刀で手投げ爆弾を二つに切り裂き、爆発を阻止する。

「谷垣撃て!!」

今しかない。そう谷垣に声を荒げた瞬間「待って!!」と少女の声が割って入る。アシリパだ。杉元が追いに行ったアシリパと無事に合流することが出来たらしい。谷垣はアシリパに止められたことで小銃を下ろしてしまい、アシリパなそのままキロランケを庇うように間に入る。

「どけッ!そいつは手負いの猛獣だ!!」
「離れてッ!殺したらわからなくなる!!」

キロランケが傍にいるアシリパにぼそぼそと話しかけた。どのみちあの傷では助からないだろう。月島は警戒を解くことなく二人を見つめた。キロランケはアシリパにふっと笑いかけ、いくつかの言葉ののち、そのままゆっくりと動かなくなった。キロランケニシパと何度もアシリパが呼ぶ。流氷に反響する。吹雪は止んで、雲の隙間から伸びる光がまるで天使の梯子のように差し込んだ。


それから一行は亜港に戻り、体勢を整えてからもと来た道を大泊まで戻った。その途中の樺太アイヌの村で鯉登から「バルチョーナク」の意味を聞かれたときに、嫌な予感は既にあった。この樺太の旅でそんなことを言われる機会はなかったし、言われるような上流階級の子供にも出会ってはいない。強いて言うならば鯉登だけれども、彼も子供と言うには些か難しい歳である。

「鶴見中尉殿は明日到着するようです」

大泊で鶴見の到着を待つ間、月島は電報で得た情報を鯉登に報告した。鯉登は先日からなにか随分と思い悩んでいるような様子であり、懐から出した鶴見と自分のお手製合成写真をじっと見つめている。

「随分浮かない顔ですが…」

鶴見が来ると聞けば、もっと大はしゃぎをするものかと思ったが、恐ろしいくらいに静かだ。何か不安要素でもあるのか。

「鶴見中尉殿が来られる前にお前に聞いておきたいことがある」
「……はい」
「亜港の病院で、尾形は逃げる直前…私になんと言ったか」

バルチョーナク。ここで話が繋がった。まったく余計なことを言ってくれたものだ。尾形は鯉登を引き込むことになった事件を知るたった四人のひとりである。亜港の病院に行ったときは月島も満足に動ける状態ではなく、まさかあの男がそんなことを言っているなんて知らなかった。

「奴はさらにこういった。今度鶴見中尉に会ったら…満鉄のことを聞いてみろ…と」
「………」

南満州鉄道株式会社。日露戦争後、ポーツマス条約によってロシア帝国から得た満州の鉄道権益。その本質は鉄道会社の経営という仮面を被った東北アジアへの日本領土の拡大である。計画そのものは日露戦争の途中で既に始まっていた。

「しかし陸軍内部では経営は上手くいかないと激しく抵抗する者がいた。元第七師団長、花沢幸次郎中将だ」

元第七師団長、花沢幸次郎。日露戦争後、多大な犠牲の責を被って自刃した。そして自刃に追い込んだのは他でもない第七師団であると、第七師団の陸軍内における冷遇が始まった。しかし真相は自刃などではないと、月島は知っていた。

「花沢閣下は父の親しい友人だ。満鉄のことは父からも聞いている。花沢閣下が自刃することによって満鉄の計画は突き進んだ」

当然のこと、反対派だった花沢幸次郎が死んだことで議論は推進に傾く。傾けばどんどんと勢いが増していく。鉄道経営はもとより、農産物を一手に支配して炭鉱開発、鉄鋼、発電、牧畜、ホテル…いくつもの事業を担い、それは満州の植民地化を具体化するためのものだった。

「鶴見中尉殿は日露戦争から帰還されてこう言っていたな?戦友たりは今も満州の冷たい土の下、満州が実質的に日本の地であれば彼らの骨は日本眠っているのだ、と」

兵士の遺体の多くは、日本に運んでやることは出来ない。満州の地が日本である限り、死んだ仲間をせめて自国で眠らせることが出来る。鶴見が兵士たちの仲間意識を煽るためによく使う文句だ。鯉登はじっと月島を見つめた。

「花沢閣下の死に鶴見中尉殿は関わっているということなのか?」

ああ、どう言ってやろうか。月島は頭の中であらゆる可能性と言葉を組み合わせては崩していく。鯉登を失うということは、鯉登の父である鯉登少将を失うということだ。駆逐艦を有する鯉登少将までもを失うことは絶対にできない。

「尾形百之助は父親を自刃に追い込んだ中央に不満を持ち、鶴見中尉殿の政変計画に加担していたがどこかで真相を知り、謀反を起こしたと考えれば辻褄が合う。そして尾形がなぜそれを私に伝えたのか…」
「我々を混乱させるためならあいつは何だって言いますよ。どうしていまさら尾形の言うことを真に受けるんですか」

月島は内心を悟られないように努めて冷静な声でそう言い返した。

「バルチョーナク。函館で私を拉致監禁した覆面の犯人の中に尾形がいたはずだ」
「尾形?あの覆面はロシア人ですよ。あなただって死体を見たでしょう?」
「あの覆面の中にはお前もいたのか?月島!!」

──いた。鯉登をあの建物に監禁するのは自分の担当だった。しかしそれを知られるわけには行かない。月島は両方の手のひらを鯉登に見せるようにしてなだめる。

「冷静になってください鯉登少尉殿。完全に尾形に操られています」
「私たち親子に芝居を打ったんだな?救出劇で恩を売り、来たるべく政権転覆のコマとして父上の大湊水雷団を利用したかったのだろう?尾形が私に満鉄のことをほのめかしたのは花沢閣下と尾形百之助…あの親子のようにわたしたちも鶴見中尉殿のコマのひとつにされているのだと知らしめたかったのだ!そうだろ月島!!」

それに月島は「馬鹿げた被害妄想です」と御そうとしたけれど、鯉登は「もういい!!直接本人に聞く!!」と取り合うつもりはないようだった。しまいには「父上の前で全部明らかにさせるッ」と吐き捨てた。ああ、ああ、ああ、面倒くさい。

「あなたたちは救われたじゃないですか」

押しとどめていた言葉がズルリと顔を出した。月島の異様な雰囲気に鯉登も驚いた様子を隠しきれない。「……なに?」と、恐る恐る月島の言葉の意味を求める。

「尾形も満鉄と花沢閣下の関係まで知っていたとは。てっきり鶴見中尉を中央に差し出すつもりかと…何が不満なのか…父親を殺せてアイツも満足したはずだ」
「尾形が…殺した?」
「私もやられたんです。随分と手間のかかった芝居を……」

鯉登が口元を歪める。しかし月島の目にはもうそれは入っていなかった。思い出すのはあの子のことと、佐渡島での日々と、父を殺した時のことと、奉天で鶴見を庇ったことだ。それらがグルグルと頭の中を回っている。

「あの男…佐渡の人間しかわからん訛りであの男は本当に島の人間なんでしょう…でも戦後になって気付いたんです。新潟の第二師団の人間があんなところの野戦病院にいるはずがない」

野戦病院であの子を殺したのは月島の父親だと告げたあの男。あの男の肩章は第二師団のものだった。地元で徴兵されてから軍に入ったのだろう。しかし第二師団はあのとき第一軍として包囲していた奉天市街の反対側、第七師団とは遥か60キロ離れた山岳地帯にいた。
何も知らない鯉登は月島が何の話をしているのか理解できない。しかし月島の言葉は止めることが出来なかった。

「わざわざ9年越しに種明かしして…傷をほじくり返して疲れ果てたところに自分の愛情を注ぎ込む」

自分の戦死の話を聞いて身投げをしたと思っていたあの子が、本当は死んでいなかったと監獄で知らされた。監獄から裁判も無しに救い出され、このひとのために生きようと必死になってロシア語を勉強した。戦場で地元の人間という男に、月島の実家の床下から骨が出たと聞かされた。彼女が生きていると嘘の希望を持たされていたと知って激昂した。

「私を救うのにどれだけ労力を費やしたか訴えるわけです」

それはすべて鶴見が描いた筋書きだと言った。でもそれも本当かどうか月島にはもうわからなくなっていた。しかしそれでも、自分には帰る場所も待っている人もいない。彼のために生きるしかない。なぜそんな手間のかかったことをするのか。

「彼のためなら命を投げ出し、汚れ仕事も進んでやる兵隊を作るために」

愛で人を満たすのは鶴見の常套手段だ。命令よりも確かで、上下関係よりも強固な絆を作る。そうして手間をかけた自分の兵隊で、大いなる目的を目指す。

「でもまぁ…別に良いんです。利用されて憤るほどの価値など元々有りませんから。私の人生には」

どうしようもない男の子供として生まれて、悪童、クソガキと呼ばれて生きていた。何も持っていなかった自分のたったひとつであったあの子さえ、本当のところは生死もわからない。月島はどこまでも平坦な声で続ける。

「金塊を資金源に北海道の豊富な資源を活用し、軍需残業を育成。政変をおこし軍事政権を樹立。第七師団の地位向上。その先には我々の戦友が眠る満州を実質的な日本の領土に…大変よろしいじゃないですか」
「それがすべての最終的な目的なのか?鶴見中尉殿の…」
「本当の目的はわかりません。彼は甘い嘘で救いを与えるのがお得意ですので」

鶴見の嘘は、その人間にとって最も甘美なものを最も適切なときに与えられる。生きることに傷ついた若い女に理解の姿勢を示し、あるいは自分の技術と感性を認められなかった若い男にその腕が必要だと言ってみせる。

「でも…鶴見中尉殿が行こうとしている場所の途中に政権転覆や満州進出が必要不可欠ならば、彼について行っている者たちは救われるんだから…何の文句もないはずだ」

嘘だと知らなければ、そのひとにとってそれは永遠に真実であり続ける。いいじゃないか。嘘だとしても、救われたのは本当だ。
鯉登がごくりと唾を飲みこみ「月島、お前はどうして…」とまとまりのない言葉を吐き出す。

「だって…何かとんでもないことを成し遂げられるのはああいう人でしょう?」私は鶴見劇場をかぶりつきで観たいんですよ。最後まで」

だっていまさら引き返せない。自分には戻る道などない。地獄の底まで鶴見についていく。それが自分に残されたたったひとつの道である。

「今聞いたことはすべて胸にしまっておいたほうが賢明です。いざとなれば鶴見中尉殿はあなただって平気で消す。そしてその汚れ仕事をするのは私です」

月島は冷たい声でそう言った。犯人に仕立て上げるためのロシア人を殺した時のように、上官である和田を殺した時のように、あるいは無抵抗の看守を殺した時のように。その時が来れば、鯉登にだって銃口を向けるだろう。

「鶴見中尉殿スゴ―――イッ!!」

鯉登はそう叫んで昔鹿児島で会ったことも仕込みで、しかも自分を必要としてあれほどの誘拐劇を演出していたことに興奮を隠しきれない様子だった。しまいには「そんなに必要とされていたなんて嬉しいッ!!」と言ってその場の地面に寝ころんでグルグルと横回転を始める。

「あああ早く会いたいッ!早く鶴見中尉殿に会いたいッ!!」

この振る舞いは本心か、それともこの場を切り抜けるための嘘なのか。明日の朝には鶴見を乗せた船が大泊に到着する。引き金は、いつでも引くことが出来る。







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