23 約束と死神


登別での騒動は、有古の離反であるらしかった。彼はアイヌであり、連中にそそのかされてアイヌの未来のためにと刺青人皮を手に逃げ出そうとしたらしい。
その際に敵勢力に「土方歳三」という名前が出てきてギョッとした。ナマエが思っている土方歳三と一緒なら、戊辰戦争で死んだはずなのに。

「あは、裏切り者なんてどこに潜りこんでるかわかりませんからね」
「えっ…と…?」
「ほら、百之助とかそうでしょう。尾形百之助」

宇佐美が忌々しそうに吐き捨てた。そう言えば尾形は脱走したのち、あまつさえその土方歳三の陣営に組しているらしい。しかし宇佐美の言葉には何か未だ裏がありそうに感じて、言葉が続くのかと待ってみたが続けられることはなかった。
宿の一室でそのまま宇佐美と二人でなんとも言えない空気を抱えながら待っていると、しばらくの時間ののちに鶴見がやってきた。

「ミョウジくん。我々も樺太に向かうよ」
「えっ…ほ、本当ですか…」
「ああ。先遣隊は無事目標を確保しているようだ。大泊という街で合流する手筈になっている」

ナマエは自分の声が思わず明るくなったのを感じた。月島に会える。秋に別れ、実に4、5ヶ月というところか。「その、月島さんは……」と尋ねると鶴見は「途中怪我を負ったようだが、いまは回復しているそうだ」と返してきた。どんな怪我だったのだろう。回復しているというなら過剰に心配することではないのかもしれないけれど、出来るだけその怪我というものが軽いものであればいいと願わずにはおれない。

「ミョウジさん、本当に月島軍曹が好きなんですねぇ」
「え、えと…その…」

隣で宇佐美がくすくす笑う。好きという単純な言葉では不十分なくらいにいろんなものが混ざっているような気がするけれど、既存の言葉で一番近しいものを選ぶとするならそうなるのかもしれない。


樺太・大泊への道のりは、小樽に戻るところから始まった。小樽の港へ大湊要港部の駆逐艦を呼び寄せ、鯉登の父である鯉登少将の航行で樺太に向かう。これが一番速い。駆逐艦を利用したのは網走監獄での一戦以来だが、あの時ナマエは現場にいたとはいえ陸路での移動であったから、駆逐艦に乗るのは今回が初めての事であった。

「あ、あの…私も駆逐艦に乗って、いいん、ですかね…?その…後続の船とか、でも…」
「構わんさ。鯉登少将には私が話をしておくし、それに何より、早く君と月島を会わせてやりたいからな」

鶴見はにっこりと笑ってそう言ってみせた。気を遣わせてしまうのを申し訳ないと思いつつも、早く月島に会いたいというのは本心だし、これはお言葉に甘えておいた方がいいだろう。小樽に到着すると、ほどなくして鯉登少将率いる駆逐艦が到着した。雷型駆逐艦はやはり雄々しく迫力がある。
鶴見の先導で駆逐艦に乗り込み、甲板へ並び立って手すりを持って揺れに耐えた。鯉登少将率いる水兵がいるため、人慣れのしないナマエのためなのか鶴見はナマエのそばにいてくれた。

「あ、あの…大泊までは、どのくらいかかるんですか…?」
「そうだな。小樽から駆逐艦を使えば半日くらいさ。船には乗ったことがあるかい?」
「い、いえ…初めて、です」
「そうか。思いのほか揺れるからね。なるべく遠くを見るようにしているといい」

ナマエはそう助言を受け、海原に目を向ける。海は寒々しく、しかしおそらく、ナマエの生きていた時代とそう大差はないのだろうと思われた。幸いにも、船酔いの程度は大したことがなかった。多少気持ち悪くはなったけれど、吐くほどもないまま大泊までの航行を終えることが出来た。


大泊港に到着しました!という報告を受け、鶴見が「上陸用意」と乗組員に声をかける。鶴見の後ろには宇佐美と菊田が続き、ナマエは隊列の一番後ろについた。少し歩いたところで列が止まる。前方から鶴見の声は聞こえるが、話の内容までは聞こえてこなかった。兵卒たちの背に隠れて見えないが、この先に先遣隊がいるのだろう。
途中で少女の声が漏れ聞こえる。明らかに子供の声に聞こえて、そんな子供が同行していることに内心驚いた。

「その口からはっきりと聞きたい!鶴見中尉の考える未来にアイヌは存在しているのか!?」
「もちろんだ。みんなが幸福になる未来を目指す。それは我々の意志と行動にかかっている。アシリパにもぜひ協力してもらいたい!」

ひときわ通った声で少女の言葉が聞こえ、そのあとで鶴見の声が続く。そこからいくつか言葉のやり取りが聞こえ、今度は鶴見の笑い声が聞こえた。

「ふふふふふ、ふふふふふ…」

その声は何かとても邪悪な、深く黒いものが滲んでいるような気がした。一番驚いたのは恐らく鶴見の部下たちで、みなギョッとした顔で彼の方を見つめていた。一体前方で何が起こっているんだろうか。

「アシリパ!何をしてるッ!」

月島の声が響き、続いて空高く無数の矢が放たれた。それは上空で失速すると、思い矢じりの方を下にして降りかかってきた。「毒矢だッ!かすっただけでも即死だぞぉ!!」と男の声がする。その声に反応して数人の兵卒が自分の身体を盾とすべく鶴見に覆いかぶさる。思わず身体が硬直したが、幸いにも隊列の一番後ろにいたナマエのほうまで矢は届かなかった。

「逃げたぞ!!」

鶴見の声ではっと隊列の成されていた向こう側を見れば、男と少女が一目散に駆け出していた。顔は見えないが、あれは杉元と先ほどの声の少女だろう。矢を避けて体勢を崩していた兵たちは一斉に二人のあとを追った。その中に月島の後姿が見える。
ナマエはこんな状況の中で自分には出来ることがないだろうと判断して、その場に残ることを選んだ。戦闘にでもなりそうな様子だったし、自分がうろちょろしていたら足手まといになる。遠くから銃声と派手な物音が聞こえてくる。

「やれやれ……ミョウジくん、無事だったか」
「は、はい……」

しばらくその場で待っていると、鶴見が戻ってきた。少しの違和感を覚えて、その正体にはすぐに気が付いた。呼び方だ。ナマエのことは遠縁の娘ということになっているから、宇佐美と月島以外の人間がいるときには必ず「ミョウジくん」ではなく「ナマエ」と呼ぶ。しかし今、鶴見は「ミョウジくん」と呼んだ。周りの人間に聞かれるかもしれないのに、だ。鶴見の様子が何かおかしい。理由はわからないが、それだけは確かだった。
ふとひとつ影が近づき、聞かれてしまったかと身構えたがその正体が宇佐美だったことにホッと胸を撫で下ろす。彼の顔面は真っ赤に血で汚れている。

「申し訳ありません。取り逃がしました」
「奴等は確実に北海道に戻る。どこかに潜んで帰還の機会を狙っている可能性もある」

鶴見と宇佐美が取り逃がした二人についてそう話をした。そのとき、パァンと乾いた銃声の音があたりに響き渡る。海の方からだ。鶴見がすかさず「海の方だ」というと、宇佐美はすぐに銃声の方へと走った。

「もうすぐ月島が負傷した鯉登を連れてくる。迎えを寄越すから、それまでここで待っていなさい」
「は、はい……」

鶴見は周囲の兵卒に指示を出し、先ほど乗ってきたばかりの駆逐艦に乗り込んでいく。十分もしないうちに街の方から担架のようなものを運んでくる兵卒の姿が見えた。片方は月島だ。

「月島さん……!」
「ミョウジさん!?」

ナマエがずっと隊列の後方にいたからか、月島はナマエがここまで来ていることに気付いていないようだった。再会するときはもっと喜ばしい気持ちで顔を合わせることが出来ると思っていたのに、この騒動のせいで圧倒的に心配が勝ってしまう。どうやら月島に大きなけがはなさそうだけども、問題は担架に乗せられている鯉登だ。

「鶴見中尉殿が駆逐艦で杉元たちを追っている。俺たちはひとまず大泊で待機だ。鯉登少尉の介抱をしたいから、ミョウジさんもついてきてくれるか」
「はい、わかりました」

左肩のあたりに刃物を刺されたらしい鯉登はどこか呆然としている。傷を受けた衝撃だろうか。そこまでは推し測れるものではないが。月島の手配で近くの民宿のような場所に待機することなった。他にも負傷をしている兵卒の応急処置などが行われ、宿の中を忙しなく人が行きかっている。現代の応急処置もろくに知らないのだから出来ることなどなく、せめて邪魔にならないようにと部屋の隅に小さく丸まる。

「ミョウジさん」

一時間半程度経ったころだろうか。部屋の隅で小さくなっていたナマエに月島が声をかける。一通りの処置が終わったらしい。「少し外に出るか」という提案でナマエと月島は宿の外へと移動した。ナマエに役割を演じさせずに済むようにするためだろう。

「まさか駆逐艦に乗っているとは思わなかった。樺太で合流とは聞いていたが…見ての通り俺たちも帰るところだったからな」
「鶴見中尉が乗せて下さって……」
「目の前であんなことが起こって驚いただろう。俺も君がいると気付いていなかったから庇うことも出来なかった」
「そんな…その、お仕事優先ですから」

ぽつぽつと話す言葉はまるで一緒に生活していた頃と同じように流れていった。丁度いい温度で、丁度いい速度だった。月島にまた会えたんだ、とこの時より強く実感した。

「月島さん、お怪我されたって、鶴見中尉から聞きました。その…今は?」
「首をやられたが、幸い現地の医師に診てもらうことが出来た。今は大事ない」
「く、首…!?」

ともすると致命傷になりかねない位置への負傷だったことに冷たいものが背中を流れていく。怪我の事実は聞いていたが、思っていたよりもずっと酷いものだった。敵がどんな相手なのか、そこでどんな戦闘が行われたのかはわからないが、彼が怪我をするくらいなのだから苛烈なものだったに違いない。

「ミョウジさんは、怪我とかなかったか」
「はい…私はずっと鶴見中尉に同行させてもらっていた、ので…」
「そうか。ならいい」

ふっと月島が少しだけ口元を緩める。突然の戦闘と上官の負傷で厳しい顔をずっとしていたから、少しでも和らいだ彼の顔を見ることが出来て嬉しい。しかし心配なのは鯉登だ。大泊の医者を呼んで治療を施して貰ったようだが、結構な出血量だったように見えたし、ショックからか呆然としているようにも見えた。

「あの、鯉登少尉…大丈夫ですか…?」
「命に別状はないが、静養が必要だな。肩をやられたから、充分に剣を振るえるまでは少し時間が必要かもしれない」
「そう、ですか…」

先ほどの戦闘で負傷したということは、戦った相手は杉元なのだろうか。他に仲間がどれだけいるかは聞いていないから、敵が杉元だけとは限らないが。月島が無事でいてくれて嬉しいと思う反面、それだけでは済まない状況に何とも言えなくなってしまう。すると、何かを見透かしたように月島がナマエの頭を不器用に撫でた。

「…生きて、帰ってきたからな」

ナマエはその言葉にハッとして顔を上げる。手放しに喜べない状況であることを察してくれたに違いなかった。ナマエは何と言ったらいいかわからなくて、こくこくと必死に頷くことしかできなかった。


月島たちは数日後、鯉登少将の駆逐艦で小樽まで運ばれることになった。鯉登に病院で治療を受けさせるためだ。鶴見たちは北海道に渡った杉元たちの捜索にあたるらしい。ナマエは月島に付き添って小樽の病院で看護の手伝いのようなことをするのが仕事になった。とはいっても、看護の心得はないので食事の手伝いと話し相手になる程度のことであるが。

「お手伝い、がんばります、ね」
「ああ。二階堂がここに移されるらしいから騒がしくなると思うが、よろしく頼む」

どうやら、登別で別れた二階堂も静養のためにこの小樽へ運ばれてくるらしかった。楽しみと言っては不謹慎だけど、なんだか時間が巻き戻ったようで、少しだけ緊張が解れるような気がした。







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