20 戦場と死神


斜里では船が待ち構えていた。遊覧船や漁船の類いではない。無骨な金属で包まれたそれのことを、月島達は駆逐艦と呼んだ。戦艦の種類に詳しいわけではないが、その名前と装備されている大砲を見て、間違いなくこれが戦うための船であると容易に理解が出来る。

「……すごい…」
「ミョウジさんの時代のほうが立派なのがあっただろう?」
「そうだと思います、けど…自分の目で見るのは初めてです」

これは陸軍の持ち物ではない。日本海軍の大湊要港部に所属する船であり、艦長は鯉登の父である海軍少将であるらしい。これに乗って網走監獄に攻め込むというのが鶴見たちの作戦だった。

「…中尉殿はああいっていたが…無理に君まで網走に行くことはないと思うが……」
「いえ、その…ここで待つだけというのも、落ち着きませんし…」

ナマエは当日、網走川対岸で待機することになった。勿論戦えないナマエに役割はないが、鶴見が「一度戦場を見てみるかね?」と言ったのがきっかけだった。足手まといにならないように一番遠くで、松明を持つ兵士とともに作戦を見守る。

「あの、どうか、ご無事で…」
「問題ない。いくら武器を持っていても看守は看守だ」

月島の声はぞっとするほど平坦だった。大きな作戦であることは間違いないが、月島にとってみればいままでの数ある任務のひとつに過ぎないのだろう。今までなら彼らの戦場を見ようなんてことは発想さえなかったが、今は違う。自分が彼らに協力すると決めた以上、彼らについてもっとちゃんと知る必要があると思った。


決行は10月某日、新月の夜。
その日は朝から月島達とは離れ、対岸で待機する歩兵部隊とともに網走監獄を目指すことになった。昔であればもっとずっと緊張していただろうが、今は違う。一年近く寝食を共にすることで、小樽に合流した当時よりも緊張することなく接することが出来ている。

「本当に良かったんですか?」
「…え?」
「いやぁ、だって、鶴見中尉殿の親戚のお嬢さんがこんなところに……」

移動中、兵卒のひとりにそう言われた。彼のいうことは尤もで、兵士でもない自分が同行するなんておかしな話だ。しかしこれにはあらかじめ、鶴見から用意された回答があった。

「わ、私…兵器開発の分野に、挑戦しようと…思ってるんです…。あ、有坂閣下の新しい銃を拝見できると、聞いて…」
「ああ、三八式機関銃ですね?」
「は、はい…じ、実戦で見ることが出来るのは…貴重なこと、ですから…」

兵器どころか軍艦の種類さえ分からないくせにどの口が、と思わなくもないけれど、他に自分で言い訳が思いつかなかったのだから仕方がない。
作戦開始の合図は網走監獄内から響く銃声だ。鶴見はそれを合図に対岸に松明を持たせた兵たちを待機させ、精鋭が駆逐艦に乗って網走川を航行し、監獄内に攻め入る手筈であった。

「火をつけろ…!」

新月の中、銃声をきっかけに前方から声がかかり、波のように松明の光が灯っていく。監獄のほうから見れば、これはまるで橋に向かって行軍しているように見えるだろう。それが狙いだ。歩兵で攻め入ってきたと思わせて、門の警備の強化を固めたところを、意表をついて壁を破壊することで侵入する。

「橋が落ちたぞ!」

爆音と閃光が走り、網走川に渡っている橋が爆破させた。これで向こうは時間を稼いでいるつもりだろうが、むしろその逆だ。航行の妨げになる橋が破壊されたことで駆逐艦は難なく川を進んでいく。

「撃てーッ!!」

塀の前で停止した駆逐艦が、その合図を持って大砲を発射した。それは塀のレンガを崩し、続け様に弾が装填されてレンガを崩していく。聞いたことのないような轟音だった。橋の爆破とこの塀の破壊の音で耳が痛い。
炎のわずかな明るさのなかで小舟が監獄に近づく。あの中に月島達が乗っているはずだ。レンガの崩れた逆光の中、鶴見が立っている。顔など見えるはずがないのに、どうしてだか笑っている気がした。


翌日、一睡もしていないのに少しも眠くなかった。初めて生で聞く爆発音や発砲音に脳みそが興奮しているのだろうと思う。昨晩の戦闘は激しかった。隣の人間の声さえ聞こえないような音の嵐の中、暴力的な光が網膜を焼いた。月島の生きる世界というのはこんな場所なのか。覚悟していたつもりだったけれど、想像は想像に過ぎなかった。
鶴見がついてくるよう言って、ナマエは恐る恐る焼け落ちた網走監獄に向かった。塀などのレンガ造りの部分は残っていたが、木造の舎房は完全に焼失していた。ゴムが焦げたような臭いと金属の焼ける少し酸っぱいような臭いが混ざっている。
ぐっと胃液が込み上げてきて、それを察した鶴見が「向こうで吐いてくると良い」とこともなげに言った。我慢ができなくて指さされた方向の茂みに向かって胃液を吐き出す。

「戦場を見るのは、初めてかな」
「…は、はい……」
「そうか…まぁ、これが我々の生き抜いてきた世界の一部だよ。尤も、これより凄惨な戦場はいくらでもあるがね」

ナマエは鶴見が自分をここへ連れてきた意味を考えた。正確なことは分からないが、月島の生きる世界がいかに厳しいかを見せることによって、ナマエの気持ちをより強固にすることが狙いだろうか。

「しばらくここで様々な処理をすることになるが…肝心ののっぺらぼうは死に、手掛かりにも逃げられてしまった。近く先遣隊を派遣することになるだろう」

逃げられたということは、その手掛かりは人間なのか。ここで何人の人間が死んだんだろう。囚人だといっても人間だ。目的のために人を殺す。彼らがそういう集団であることはもうずっと前から知っているし、恐らく近い将来自分もそれに加担することになる。しかも自分は、自身の手を汚さない卑怯なやり方で。ぐっと込み上げるものを今度は飲み込む。

「……人の死を見て、未来を変えるのが怖くなったかね」

鶴見が静かな声で問うた。怖いか怖くないかで言えば、ずっと怖いに決まっている。それでも決心が揺らぐことはない。

「…怖い、ですけど……気持ちは変わらない、です…」
「そうか」

この男は死神なのかもしれない。けれどそれがどうだというのだ。自分はこれから月島を守るために、他のすべての人間の死神になるのだ。


網走監獄近くの病院で、負傷者の手当を手伝って過ごした。現代で得ていた応急処置の知識があればそれほど困ることはなかったし、幸か不幸か包帯は巻き慣れていた。

「月島さん……あの、お疲れ様、です」
「ああ、ミョウジさんか。毎日手伝いばかりさせてすまんな」
「いえ、好きで手伝わせて、貰っているので…」

監獄の方面から月島が戻ってきた。まだ焼け跡で様々な手掛かりを探しているらしい。幸いにも、今回の戦闘で月島は怪我らしい怪我を負うことはなかった。しかし全員が無事というわけではない。二階堂は右手を失った。

「杉元もそうだが…特に家永とは二人きりになるなよ」
「家永、さん?」
「ああ。あいつは人間を食う凶悪犯だからな」

ひゅっと息をのむ。家永とは今回の一件で取り押さえた敵陣営のひとりであり、刺青の囚人だ。女性のような見た目をしているがその実高齢の男性であり、随分腕のいい医者でもあるらしい。網走監獄に収監されている囚人はどれも凶悪だと聞いていたが、予想の斜め上を行く。
月島はその後、鶴見に呼ばれて病院の中に引っ込んでいった。ナマエは何か手伝えることはないかと申し出て、洗濯の手伝いをさせてもらった。
洗濯物をすべて干し終えた頃、看護婦に頼まれて各病室に新しいシーツを持って回った。交換は人手を集めてやるのだそうで、とりあえず交換用のシーツを持って行って置いてほしいとのことだった。

「し、失礼、します…」

扉をノックしてそれぞれの病室をまわり、ついに最後の一室になった。扉を開ければ、そこには包帯で頭をぐるぐる巻きにされた男がベッドに眠っている。知らない顔だ。関りの薄い兵卒はいても、まったく顔を知らない兵卒はいないはずである。彼が噂に聞く「杉元」なのか。

「ん……リパ…さ…」
「あっ…す、すみません…起こしてしまいましたか…?えっと…シーツを持ってきた、だけなので…」

杉元の瞼が動き、寝ぼけたような声でそう言った。元々彼の立場は敵だったらしいが、ここで怪我人として扱われているなら自分もそうすべきだろう。シーツを置いてさっさと退散しよう、と踵を返せば、杉元の手がぐっと伸びてきて手首を掴まれる。

「アシ、リパ……さん…いま、迎え、に……」

何の話だ、と思って振り返ったが、杉元の瞼はほとんど閉じられたままだった。寝言のようなものだろう。彼の顔にはカタカナのサの字のような傷痕がついていて、頭に巻かれた包帯もあいまって酷く恐ろしく、しかし寝顔は子供のようで、そのアンバランスさが何とも言えない気持ちにさせる。

「アシリパ、さん…」

先ほどから呼ぶ「アシリパさん」というのは誰だろう。彼の大切な人だろうか。あまり日本人の名前のように聞こえないが、外国人か、それとも北海道のアイヌなのかもしれない。手首を掴む力は緩められなかった。どうしようか。ここがシーツの配達場所の最後であるし、別に他に用があるわけでもない。怪我人を起こしてまで放させるというのは少し気が引ける。そのとき、不意に扉をノックする音が聞こえた。はっと顔を上げると、中へ入ってくる谷垣と目が合った。

「え…ミョウジ、さん…どうしてここに…」
「あ、あの、寝ぼけて、手を掴まれてしまって……」

谷垣と顔を合わせるのは小樽の山で彼が失踪して以来のことだった。まさか生きていたなんて知らなかった。しかも彼は鶴見たちの敵対勢力として監獄で対峙したのだ。今は自身の銃創と刺された恋人の治療のためにここに留まっている。
谷垣はナマエに歩み寄ると、杉元の指をひとつずつ開いて取り外していく。

「……こんなところにまで来るとは、思ってませんでした」
「え、と…その……」
「俺がいうことじゃないが、あなたにこの争奪戦は似合わない…と思います」

左手を吊ったまま、谷垣がぽつりとそう言った。確かに自分でもこんな闘争に身を投じることはどこからどう考えても合わないと思うし、春以降ナマエの存在を更新していない谷垣からすればよりそう見えるだろう。

「うっ……アシ、リパさん……」
「杉元、大丈夫か杉元……すみません。杉元が目を覚ましそうなので、鶴見中尉を呼んできてもらえますか」
「は、はい……」

丁度静寂の合間に杉元が身じろぎをして、ナマエは谷垣に言われるがまま鶴見を探しに走った。病院のすぐ表で鶴見の姿を見つける。そこからは主治医の家永や月島を含め、目を覚ました杉元の聴取が始まった。


樺太という土地のことは、正直良く知らない。隣国であるロシアとの領土問題を抱えているというくらいの知識しかなく、ナマエにとっては遠い世界のことだった。

「せ、先遣隊…ですか?」
「ああ。樺太に我々の探す手掛かりが逃げているようだ」

話し合いの後、鶴見に呼び出されて説明を受けた。網走監獄で聞いた通り、先遣隊が動くことになった。ナマエがわざわざ呼び出されているのは、その先遣隊のメンバーに月島が含まれているからだった。

「先遣隊となると負担は大きい…が、しかし、ロシア語を満足に話せるのが月島しかいなくてな…君との約束のためにもなるべく危険な任務は避けたかったが…こればかりは避けることが出来ない」
「あ、あの…私は、全然……その、危ない目には遭ってほしくない、ですけど……制限する権利は、ない、と思う…ので」

ナマエはもごもごと口を動かした。月島に無事でいてほしいと思う気持ちはあるが、それは決して彼の仕事を取り上げるということではないと思うし、彼のために他の兵卒を積極的に踏みつぶそうというふうにも思っていなかった。こんなことを苛烈な世界に生きる彼らに言えば、呆れられてしまうかもしれないが。

「理解をしてくれてありがとう。先遣隊はあくまで先遣隊だ。私も準備が整い次第樺太に行くつもりだから、その時はミョウジくんのことも連れていくことが出来る」

鶴見がゆっくりと口角を上げてそう言った。とんでもない手練手管を発揮する彼からすれば、ナマエがそう答えることなんてお見通しだったのではないか。ここに来て、どうしてだか昔尾形に言われた言葉を思い出した。「お前のオジサマは随分狡猾老獪な男だ……ははぁ、せいぜい巻き込まれないように気をつけろよ」と、あの言葉の意味を今はなんとなく理解できるような気がする。

「出発は明後日だ。見送りには君も来れるよう、取り計らっておくよ」

鶴見がナマエの肩をポンと叩く。樺太に行く月島になんて言葉をかけたらいいんだろう。ナマエにできることは、おそらく祈ることくらいだろうと思われた。







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