18 死神の逆上


一緒なら悪人でいい、なんて、そんな言葉が飛び出てくるとは思わなくて驚いた。あれは嘘やお世辞のようなものではなくて、彼女の本心のように思われた。だからこそ、なんと言っていいかわからなかった。
本当に彼女のことを言ったつもりはなくて、言った後に彼女も該当してしまうと気付いたくらいだった。どうしようもない自分への投げやりな言葉のつもりが、彼女に掬い上げられてしまった。

「何をしてるんだ、俺は……」

彼女を見ていると、自分の心の中に何かまだ美しいものが残っているような気になる。自分の中にまだこんな感情があることを、彼女に出会って思い知った。この感情はなんなのか。いや、名前など付けないほうがいいのかもしれない。名前を付ければもう戻れない。違う。もう戻れないと、本当はわかっている。

「くそ……」

いつの間にか、閉ざしたはずの心の静かな場所に彼女が座っていた。この類いの感情は二回殺したはずだ。一度目はあの少女が死んだと聞かされたとき。二度目は少女の髪と共に。なのに未だに胸の中に燻ぶる。月島は腹の底から息をつき、一段、二段と瞼を下ろす。瞼の裏には赤子を抱くナマエの不器用な顔が浮かんだ。


翌日の昼過ぎ。野暮用を終えた月島は鶴見の執務室を尋ねた。もうそろそろ診療所にご機嫌伺いに行くような時期だろう。陸軍診療所にはなにかと便宜を図ってもらわなければならないから、こまめに挨拶に行くのが仕事のひとつだった。

「え、ミョウジさんひとりで診療所に行ったんですか?」
「ああ。もう通い慣れた道だろう。饅頭を持たせただけだ。彼女にもひとりで息抜きをする時間が必要だろう?」

鶴見いわく、ナマエをひとりで遣いに行かせたらしい。幸い診療所まではそこそこ通ったし、さほど遠いというわけでもない。まあ少しなら心配いらないか、と、月島も自分の仕事に戻ることにした。


普通ならとっくに戻っているだろう時間なのに、ナマエは一向に帰ってこなかった。彼女に限って話が弾んだなんてこともあるまい。それに、診療所の医者と看護婦以外は街中に知り合いもいないはずだ。良くない予感ばかりが募り、月島は書類も手につかなくなって立ち上がる。そのとき、殆ど同時に足音がトントントンと近づいてくる。

「月島、いるか!」
「鶴見中尉殿!?」

襖を勢いよく開いたのは鶴見だった。少し焦った様子で、一体何ごとかと身構える。思いがけない敵襲か。いや、その程度で焦るとは思えない。囚人の情報、刺青人皮、いくつかの可能性が頭の中を駆け巡る。

「彼女が何者かに連れ去られたらしい」
「え…ッ!?」
「運河の方に連れていかれる様子を見かけた看護婦がいるらしい。先ほど私のところへ慌てて駆け込んできてな。看護婦によれば東松屋の賭場に入り浸っていたゴロツキらしいが…」

思いもよらない事態に思考が停止する。こんなことなら無理を通してでも自分がついていけば良かった。いや、それをここで悔いたところで仕方がない。運河、運河、と頭の中の頁をめくる。そうだ、運河には東松屋が所有している倉庫があったのではなかったか。あそこは稲妻強盗の一件のあと一度調べて、それ以降は使われていないはずだ。

「ひょっとして…」
「ああ。あの倉庫が怪しいのではないかと睨んでいる」
「鶴見中尉殿!!」
「許可する。ことは一刻を争うぞ!」

先行して月島が走り、すぐに数人の兵卒を編成して鯉登に後を追わせる。そこまで鶴見の話を聞いて、月島は小銃を手に街の中を駆け抜けた。誘拐からどれだけの時間が経っているのかわからないが、時間がそう多く残されていないことは確かだろう。
単純な物取りの犯行だとしたら彼女はあまりに普通の町娘だし、考えられるのは彼女を使って関係者を強請ろうとしているというところか。いや、もっと単純に慰みものにするためという可能性もある。

「チッ……!!」

思考を振り払うように舌打ちをした。自分でも驚くべき速度で運河にある目的の倉庫まで辿り着くと、迷いなく鍵の留め金を小銃で撃つ。弱くなったそこを蹴破れば、がちゃんと重い音を立てながら南京錠が外れた。乱暴に扉を開く。
薄暗い中には三人の男の影があり、その真ん中でナマエが小さくなって震えているのが確認できた。頭の中の血が沸騰するようだった。彼女は大事な情報源で、他人の手に渡すわけにはいかない人材で。そんなことはもう吹き飛んでいて、ただただ彼女を守らなければと、そういう感情が身体中を支配していた。

「ミョウジさんッ!!」

口を布で閉ざされ、悲鳴を上げることも出来ない様子だ。月島は地面を踏み切ると、一番近くにいた男の顎を銃床で殴る。脳みそを揺らされた男はその場に伏し残りの二人が「ヒィッ!」と情けない悲鳴を上げた。

「お、おい何で北鎮部隊が…!」
「知らねぇよッ!でも賭場にいたのこの男だぜ…!」

鋭い視線を向ければ、そこには潜入中の賭場で見たことのある顔があった。月島より更に少し前から入り浸っているらしかった男だ。この男は月島が賭場に入ってきてから自分の負けが増えたのだと因縁をつけてきて、喧嘩寸前のところまで言いがかってきたのだ。

「くそ、兵隊は良いご身分だよなッ!」
「お、おいお前…ッ!」

仲間の一人が止めるも、自棄になったように男が手にしていた包丁を月島に向かって振りかざす。月島はそれを右によけると、喉元を目掛けて銃口を突き上げた。銃剣が着けられていれば確実に死んでいるだろう。喉を突かれた男はヒュウと変な呼吸音を発しながら後ろ向きに倒れ、口からぶくぶくと泡を吐いた。

「ヒッ…!こ、この女がどうなってもいいのか…!!」

残された一人がついに縛られたナマエの首にナイフを当てた。頭の中は冷静になるどころか、滾り続ける熱で焼き切れそうになってた。ナマエの目尻に涙が浮かぶ。月島は銃床で男の顎を砕かんばかりの勢いで殴り、そのまま倒れた男に馬乗りになる。血管の浮き出している拳で顔面を殴れば、男の鼻がくしゃりと折れた。一発、二発、三発、と殴ったところだった。

「月島ァ!」

倉庫の入口から鯉登の声がかけられる。そこでやっと月島の拳が止まった。鯉登の方を振り返るよりも先にナマエへと視線を向ける。涙が口をふさぐ布をべっとりと濡らしていた。最悪だ、彼女の前でこんな。ただでさえ怖がっているところに追い打ちをかけるようなことを。鯉登がナマエの前に跪き、彼女の口の布と手を縛る縄を取り去った。

「つき…つき、しま…さっ……」
「ミョウジ…さん…」

月島の軍衣の裾をきゅっと引っ張る。指先は震えていた。月島は小銃を放すと、彼女の小さな身体を引き寄せる。自分の腕の中に納めてしまったところで初めて自分が彼女を抱きしめていることに気が付いた。

「…怖い思いをさせて、すまなかった」

ナマエは胸の中でぶんぶんと頭を振る。周囲では鯉登が引き連れてきた兵士たちが気絶した男たちを縄で縛り上げていく。抱き込んだナマエの指先が月島の胸元を掴んだ。

「月島さん助けてって思ってたら、本当に来てくれた…」

ナマエの声は少し震えていて、しかしいつもよりも淀みなく言葉を紡いでいる。月島は自分の心の奥が砕けていくような気がした。柔らかい部分を覆っていた強固な鋼が取り去られるような、そういう感覚に陥る。
あのころ自分には、あの子しかいないと思っていた。それと同じに、いまの彼女には自分しかいないのだ。守りたい。そこにどんな、理由があっても。


男たちは派手に怪我をしていたが、全員取り調べを受けられる程度ではあった。事件の翌日、月島は鶴見に呼び出しを受け、彼の目の前に直立不動で姿勢を正して言葉を待った。

「幸いミョウジくんに怪我はないようだ。到着の早さが幸いしたのだろう」
「はい」
「お前のお手柄だよ、月島」

鶴見が穏やかに口角を上げる。ナマエに怪我がないのは不幸中の幸いだった。もし彼女に何かがあったらと思うとゾッとする。やはりナマエのことは人質にするつもりだったようで、詳細は取り調べで明らかにすることであるが、どうにも月島への逆恨みという線が濃厚だった。

「…私が到着したとき、軍人であるということに驚いていたようでした。賭場での逆恨みにせよ、どうして私とミョウジさんが結びついたのか……」

ナマエが陸軍の関係者であると予測していたのなら、それは診療所への出入りだとかそこまでの道程で兵卒と歩いているところを見ていたりしたからだと説明がつく。しかし、あの連中は月島を「東松屋のゴロツキ」と認識していた。どこでナマエと「東松屋のゴロツキ」とナマエが結びついたというのだろう。

「そのあたりも取り調べをして探るしかないな…先ほど一人を部屋に移動させた。進捗はお前にも報告をしよう」
「私にやらせてください」
「いや、今のお前ではあの犯人たちを殺してしまいそうだ」

鶴見が「鏡を見てみろ」と続け、窓に視線を向けるとガラスには今にも人を殺しそうな自分の顔が映っている。これは確かに酷い顔だ。月島は握った拳に力を込め、鶴見に一礼して踵を返す。どこから結びついたのか。可能性のひとつが浮かび上がり、それが真実だとして自分には何も太刀打ち出来ないと月島は頭を振った。

「……本当に、どうかしているな…」

月島はため息をつき、気持ちを落ち着かせるためにも一度中庭に出ようと足を向けると、離れの玄関先にナマエの姿があった。彼女が小さくぺこりと会釈をする。

「つ、月島、さん。お疲れ様です」
「ミョウジさん…その、大丈夫か?」
「は、はい…。手を縛られてたくらいで、他はなにも……」

袖口から覗く手首に掠ったような傷痕が残っている。自分についていたなら何とも思わないそれが、彼女の青白い肌についているというだけでひどく仰々しい傷痕に見える。しかしこれ以外の傷が何もなくて本当に良かった。男が三人で若い女を誘拐するなんて、もっと最低な事態が起きていたかもしれない可能性は考えなくても頭に浮かぶ。

「……本当にすまなかった」
「…え?」
「怖かっただろう。君の救出を優先して、君の目に入らないところであの連中を処分するべきだった」

もう頭に血が昇っていて周りのことが見えていなかった。冷静に考えれば、もっと穏便に制圧して彼女の安全を確保をするべきだった。鯉登が突入しなければあの男たちを殺していたかもしれない。そんな自分が簡単に想像できる。

「怖かった、けど…へいき、です」

ナマエがトトトと小さな歩幅で月島に歩み寄る。白い指先が所在を失くすように腹の前で組まれ、ちくちくと指遊びをする。見下ろす頬がじんわりと赤くなっていくのが見える。

「月島さんが、来てくれたから……」

ナマエがはにかんだように笑った。こんなふうに笑うのだと、彼女に出会った当初は想像もしていなかった。彼女の解像度がどんどんと上がっていく。鮮明に、少しの表情の違いさえ読み取ってしまう。

「月島さんは、その、怪我とかしてない…ですか?」
「ああ。見ての通りどこも問題ない」
「よかった、です…」

気が付くと、月島はナマエの身体を引き寄せていた。火事の時に抱きかかえたのとも、昨日運河の倉庫で抱きしめたのとも違う。これには理由がない。いつの間にか、しかしはっきりと月島自身の意思で彼女の身体を腕の中に閉じ込めていた。

「月島…さん…?」
「すまん、少し、このまま…」

弁明の言葉など見つからず、月島は口先だけでそう言った。自分以外の誰かが彼女のそばにいるのは気に入らない。自分だけにその柔らかな顔を見せていてほしい。こんなのとんだ我が儘だ。

「…はい……」

彼女を守るにはあとどれだけの理由をつければいいだろう。敵対他者に掠め取られないようにするためで、引き出そうとしているのは未来の情報で、それは命令の一環で。いくつもいくつも理由をつけなければ、自分の感情を思わず言語化してしまいそうだ。
腕に力がこもる。同じ石鹸を使っているはずのナマエからは、まるで花のような香りが漂った。







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