17 挺身と死神


赤子騒動から二週間ほど。ナマエはひとり小樽の街中を歩いていた。二階堂の看病のために陸軍診療所へ出向いてからというもの、気分転換になるだろうと診療所へのちょっとしたお遣いを仰せつかるようになった。といっても、普段はひとりで出かけるわけではなく、誰か手の空いている兵士と一緒だ。ひとりだと心細いし、誰かが一緒にいてくれる方が有り難い。

「えっと…今日はひとりで、ですか?」
「手の空いている連中がいなくてな…どうだろう?」

診療所までは大した距離ではないし、迷うこともないだろう。何よりナマエを一人で外出させるということはこの一年で一度もなかったことだ。信頼されているとまでは言わないが、なんだか一定の関係を築けている証拠のようで少し嬉しい。
陸軍診療所にはまんじゅうを届けてこいとのことだった。普段の礼のひとつらしい。迷わず辿ることのできる道のりも、自分一人だと緊張する。

「ご、ごめんください。第七師団の遣いの者ですが…」
「ああ、鶴見中尉のところの。今日はどうされました?」
「きょ、今日はお届け物に…これ、鶴見中尉からです」

出入り口の近くに見知った看護婦がいて、声をかけて風呂敷包みを差し出す。看護婦は風呂敷包みを受け取ると、担当の医者を呼んでくると言って一度奥へと引っ込んだ。窓ガラスから陽の光が差し込む。現代のものよりも歪みの大きいガラスは独特の反射を見せていた。
しばらく待っていると一番よく顔を見る医者が姿を現し、ナマエは差し障りのないことをひとことふたこと言って診療所をあとにすることにした。

「鶴見中尉殿によろしくお伝えください」
「は、はい…失礼、します…」

ぺこりと頭を下げて石段を下り、役目を無事果たしたナマエはもう兵営に戻るだけだ。あと少し。心配とは裏腹に問題なくお遣いを終えられそうだった。
元来た道を辿りながら、街の風景を眺める。車は走っておらず、徒歩の人間が殆どだった。後は人力車や馬が走っていて、当然のように高い建物はどこにも見当たらなかった。人々の服装も和装がメインで、洋服を着ている人間もちらほらいるが、勿論現代で見ていたものとは風合いもデザインも違う。

「……私、この時代に馴染めてるかな」

気が付くと、そんな言葉がこぼれ落ちていた。生き延びるための選択肢に過ぎなかったはずなのに、今ではそんなふうに思うようになってしまっていた。それがどうしてかということはいくつかの複合的な理由があり、そしてその中心に肥大化する自分の感情があった。
初めてのことにむずがゆい感覚が胸をくすぐって、頭の中には月島のことばかりが浮かんでいた。

「一緒だったら悪人でも嬉しいって……迷惑、だったかな…」

言葉を選びあぐねてああ言ったが、あのあと赤子をあやしているうちに鶴見が戻ってきてしまって、月島の反応を知ることは出来なかった。善人か悪人かなんてすごく曖昧で、ナマエにとってはどちらでも大差ないことだと思っていたからあんな言葉を選んだけれど、深刻そうに見える月島にとっては大変な問題だったかもしれない。だとしたらあの言葉選びは間違いだっただろう。

「……月島さんが悪いひとでも、いいのにな」

それは嘘偽りのない本音だった。現代で生きていたころ、善人だってナマエを助けてはくれなかった。頭の中でじんわりと靄を作るのは、月島が駆け落ちしようとしていた相手の事だった。生きていてくれてよかったと思うと同時に、月島にそこまで心を決めた相手がいた事実に少なからずショックを受けている面もあった。

「どんなひと、だったんだろ」

きっと素敵なひとに違いない。あの月島が駆け落ちまでしようと決意するほどの女性なのだ。ショックを受けたといっても、自分の月島に対する気持ちとは本質的に関係のないものだった。自分の気持ちを受け止めてほしいなんて思っているわけではない。自分の気持ちは自分の中にあればそれでいい。
そんなことを懇々と考えているそのとき。突然路地裏から腕を引っ張られ、叫び声を上げる間もなく暗がりに引き込まれる。口を塞がれたところで自分に危機が迫っていることを理解した。

「動くな」

聞いたことのない男の声だ。見切れている服も着物のようで、少なくとも小隊の人間でないことだけは確かだった。身動きが取れないように腕を拘束され、幼少期の記憶がフラッシュバックする。がたがたと足が震えた。

「お前、あの男のツレなんだってな」

背後で男がそう言った。一体誰の話だ。小隊の人間の誰かなんだろうけれど、この場合それが誰かだなんてことはもはや関係ないだろう。男はひとりではないようで、ナマエを拘束する腕は緩められないまま、更に別の手がナマエの口に布を噛ませて縛った。

「この女で合ってんのか?」
「間違いねぇよ。この時間に陸軍の診療所から出てくる女だって話だ」

どうしてそんな細かい情報がこんなゴロツキに伝わっているんだろう。頭の隅の冷静な部分ではそんなことを考えることが出来たが、ナマエの思考の殆どは恐怖で正常に動かすことが出来なくなっている。助けて、と声にならない声で叫ぶ。ぎゅっと閉じた瞼の裏には、月島の顔が浮かんでいた。


目隠しをされ、そのまま男たちに運ばれた。倉庫のようなところでやっと目隠しを外される。陸軍診療所と兵営の往復しかしたことがないから土地勘らしい土地勘もなく、今自分がどんなところに連れていかれようとしているのかもわからなかった。外からは水の流れるような音が聞こえる。川でもあるのだろうか。
ナマエの頭の中は恐怖と月島への希望で洪水を起こし、それが身体の中心に信号を発して涙になって溢れてきている始末だった。

「ここでいいのか?」
「ああ。もとは東松屋商店の倉庫らしいが、あの騒動のあと使われなくなったらしいぜ」
「それもあの男に聞いたのかよ」

男たちが小さな声でそう言い合う。ナマエの情報をどこかから聞いていたようだが、それを教えた人物がこの倉庫のことも伝えているようだ。一体何者だろう。

「口布を外してやる。叫んだら殺すぞ」

ナマエにそう脅しをかけながら男は後頭部で縛った布を緩める。酸素が一気に流れ込んできてゲホゲホと咽てしまった。正確なことはわからないけれど「あの男のツレ」という言葉から連想するに、ナマエは何らかの人質のようなつもりで連れ去られたようだ。ナマエが誰かの弱みになっているのか。

「抵抗しなけりゃすぐにどうこうということはしねぇ。大事な人質様だからな」
「ひ、とじち…って、わ、私にそんな価値は…」
「無いとは言わせねぇ」

着流しの男に言葉を先回りして止められる。強いてナマエの価値は何かと問われれば、それは彼女の頭の中にある「未来の情報」だ。それを期待されて兵営に匿ってもらっているし、ナマエが丁重に扱われるのはその一点のみでしかない。
どこから情報が漏れたのだろう。ナマエが未来から来ているということを知っているのはこの時代に三人だけ。鶴見、月島、宇佐美。しかし鶴見はナマエの情報を欲しがる人間そのひとだし、月島も宇佐美も裏切るとは到底思えない。それならまた違う第三者に漏れたのか。一体どういう経路で。

「お前を攫えばすぐにあの男が飛んでくるって聞いてる。お前をどうこうすんのはそのあとだ」

へらへらと男が笑った。父の機嫌がいい日に似ている。機嫌がいい日は少しだけ暴力が止むが、それも長く続くわけではなく、機嫌が悪くなった時には反動のようにいつもより激しく暴力を振るわれた。最近は父のことを思い出すことは減っていた。久しぶりに思い出す父親の姿はひどく歪で、凶悪な怪物のような気さえした。

「はは、月島とか言ったか?お前を負け越させた男は」
「ああ。もう少しで勝てるところだったのに…ヤツのせいで全部おじゃんだ。くそ、賭場は初めてと言っちゃいたが、ありゃどうせ嘘だろう。博打うちの顔をしてやがった」
「月島とか言う男もお前にだけは言われたくないだろうさ」

男たちが下品にそう笑う。それによって見えてきたことがあった。あの男のツレ、の「あの男」とは月島のことで、しかしそれは「月島軍曹」ではない。自分の父を厭う月島がギャンブルに興じるとは思えなかったし、任務が詰まっているから恨まれるほど賭場に入り浸れるわけもない。ひょっとして任務の都合でゴロツキに扮して賭場に潜入した、その時の話だろうか。
ナマエがぐるぐると頭を回転させていると、扉が開いてもうひとり仲間が合流した。手にはナイフやら包丁やらの武器を持っている。

「なんだよ、パッとしねぇ女だな。もっと美人かと思って期待したが」
「ハハ、お前は面食いだからな。まァ、顔なんか隠しちまえば同じだ」

ゾッと背中に冷たいものが走って行く。迎えが来なければ、自分がどんな目に遭うかなんてことは簡単に想像がついた。助けて、と思うけれど、月島が仮にひとりで乗り込んで来たら圧倒的に数が不利になる。誰かと一緒に来てくれればあるいは。しかし自分のために誰かが動いてくれることなんてあるのだろうか。
考えれば考えるほど恐ろしくなって、いつの間にか歯がカチカチと音を立てるほど身体が震えていた。

「さて、そろそろこの女を攫ったことに気が付くんじゃないか?いつまでも診療所から戻らないのを不審に思っているに違いない」

どれくらいの時間が経過したか、主犯格らしき男がそう言った。ナマエは再び口に布を噛まされ、今度は両手を後ろ手に縄で縛り付けられた。倉庫の中は明り取りの窓から光が差し込むだけで薄暗く、だから周囲の音がより強調されて耳に届く。
足音が、ひとつ鮮明に聞こえた。凄まじい勢いで近づいてくる。その足音が倉庫の前で止まると、今度はダァンと銃声と衝撃が響いた。

「は!?じゅ、銃!?」

男たちが予想外の事態に焦り始める。もちろんそれを待つ間もなく、扉が勢いよく開かれた。逆光の中に少し背丈の低い人影が見える。ああ、間違いない。見間違うはずがない。月島だ。

「ミョウジさんッ!!」

月島は地面を踏み切ると、一番手前にいた男の顎を銃床で殴った。不意に脳みそを揺らされた男はあっけなく地面に伏し、残りの二人は震えあがる。

「ヒィッ!」
「お、おい何で北鎮部隊が…!」
「知らねぇよッ!でも賭場にいたのこの男だぜ…!」

男たちはやはり月島の正体について知らなかったようだ。自分の情報が漏れてしまっていたわけではないとわかって少しだけ安心する。おかしな話だ。自分はまだこうして拘束されて危機に瀕しているというのに、もう助かる気でいる。他でもない。月島がいるからだ。

「くそ、兵隊は良いご身分だよなッ!」
「お、おいお前…ッ!」

仲間の一人が止めるも、自棄になったように男が手にしていた包丁を月島に向かって振りかざした。月島はそれを軽々と右によけると、すかさず喉元を目掛けて銃口を突き上げる。喉を勢いよく突かれた男はヒュウと変な呼吸音を発しながら後ろ向きにナマエのそばへ倒れ、口からぶくぶくと泡を吐いた。

「ヒッ…!こ、この女がどうなってもいいのか…!!」

残された一人がついに縛られたナマエの首にナイフを当てた。首筋が凍るように冷たい。いまこの男が迷いなくナイフを動かせば、致命傷は免れないだろう。しかし不思議と頭の中は冷静だった。その冷静な頭とは裏腹に、ナマエの目尻に生理的な涙が浮かぶ。
月島は銃床で男の顎を砕かんばかりの勢いで殴り、そのまま倒れた男に馬乗りになった。血管の浮き出した拳で男の顔面を何度も何度も殴る。ぐちゃりと鈍い音が響く。

「月島ァ!」

そのときだった。開け放たれた倉庫の入口から鯉登の声がかかった。彼は数人の兵卒を後ろに連れているようだ。鯉登の声がかかると同時に月島の拳がピタリと止まり、その視線がナマエに向けられる。
鯉登がナマエの前に跪き、口を塞ぐ布と手を縛る縄を解いた。ありがとうございますの礼もそこそこに、ナマエは2メートル先で硬直したままの月島に縋り付くように飛び込んだ。

「つき…つき、しま…さっ……」
「ミョウジ…さん…」

頭より身体が怖がっていたようで、指先は小さく震えている。月島の軍衣の裾を引っ張ると、彼の太い腕がナマエの身体を引き寄せた。

「…怖い思いをさせて、すまなかった」

月島はきっと、一心不乱に男を殴った自分の振る舞いのことを一番に言っているのだろうと思った。二階堂たちを叱責したときにナマエが倒れてしまったことがあったから、そのときのことを考えているに違いない。
ナマエはぶんぶんと頭を振る。謝ることなんてひとつもない。気がつくと、月島の胸元に指先が伸びていた。

「月島さん助けてって思ってたら、本当に来てくれた…」

声は震えてしまったけれど、いつもみたいに吃ってしまうことはなかった。肥大化していた感情は器の中から溢れてどんどんと流れ出した。触れた部分が熱を持つ。この感情の、名前は。







- ナノ -