16 悪人と死神


夜中に随分な轟音が街に響き渡った。今日は兵営の人間の殆どが出払っていた。市中で大捕り物があるらしい。響いた音が運動会で聞いたのに少し似ている、というところに思考がいたり、あれが銃声であることを理解した。

「……大丈夫かな…月島さんたち…」

彼らが優秀な兵士らしいことを頭で理解はしているが、戦う相手も知らないし、そもそも他人とまともな喧嘩もしたことのないナマエにとっては想像もできないことだらけだった。
そわそわと眠れないまま離れで外を眺めていると、オイルランプの明りが遠くから近づいてきた。月島たちが帰ってきたのだ。出ていくのも迷惑になるかもしれない、と思いつつも、離れの玄関まで出てそっと様子を見守る。見る限り負傷者が出ている騒がしい様子はなく、大怪我をしているような人間はいないらしい。もっとも、ほどんど全員が油と煤まみれでひどく汚れていたけれども。

「よ、よかった……」

ホッと胸を撫で下ろし、邪魔にならないようにと中に引っ込もうとして、不意な泣き声に引き止められる。一瞬猫の喧嘩のような声に聞こえたが、違う。これは赤子の泣く声だ。どこからそんな声がするんだろうと見回して、それがオイルランプのもとであることに気が付いた。鶴見の腕に赤子が抱かれている。そばに立つ鯉登が何とも言えない顔でその赤子を見下ろしていた。

「おやナマエ、まだ起きていたのかい?」
「は、はい…ちょっとその…眠れなくて…」

離れの玄関口にナマエが立っていることに気が付き、鶴見がそう声をかけた。ぎょっとして腕の中の赤子を見ていたことがわかってしまったようで「明日まで預かることになったんだ」と言った。こんな夜にどこの誰から預かってきたというのか。いや、詮索しないほうが良いのだろう。

「いかんせん先ほどから泣き止まなくてな」
「え、と…そうなんですね…おなか、すいてるんでしょうか…」
「ふむ。腹が減ったか…」

未だ離乳食を食べる年齢であるようには見えないが、この時代に粉ミルクのような母乳代替食品があるとは思えない。と言っても兵営に暮らす唯一の女性であるナマエも母乳は出ないし、どうすればいいんだろう。珍しく鶴見も「うーん」と頭を抱えていた。何か代用を、と考えているうちに一つの妙案を思いつく。

「ご、ご飯が少しだけ残ってます…重湯にしてあげれば…」
「おお、それはいい。悪いが、作ってやってくれ」
「は、はい…」

明日の朝、粥にして食べようと取っておいたのだ。昔は乳児の人工栄養として重湯を与えることもあったと何かで見た気がする。固形物がわからなくなるほどにすれば、あの赤子も食べられるだろう。可哀想だけれどそれくらいしか出してやれない。明日までというのなら、そんなものでもないよりはマシだろう。ナマエは釜戸に火をつけて冷や飯と水を煮込んでいく。
出来上がった重湯を器に移し、急いで鶴見たちの引っ込んでいった母屋に向かった。食べてくれるといいが、ナマエには育児の経験もないし、どうやればいいのか知識がない。

「お、お待たせしました…」
「ああ、ミョウジくん。ありがとう」

鶴見の返事を待って襖を開ける。室内ではろうそくのほの明るい中で、鶴見が白い布に包まれた赤子を抱いていた。ろうそくの明るさが白をより強く主張する。その光景はなにか恐ろしく静謐で、例えば侵し難い宗教画のように見えた。日常と非日常の混濁に少し気後れして、しかし鶴見が「どうかしたかい?」と優しげな声で言ってくれてようやく足を進めることが出来た。

「え、と…あの、おじさま…」
「今は私と月島しかいない。楽にしなさい」
「は、はい…」

よくよく見れば、鶴見のその奥に月島が座っている。赤子を見つめる瞳はいつも以上に険しいもののように感じた。鶴見が重湯をそばに持ってくるように言って、それに従えば鶴見は器用に匙で重湯を与えていく。赤子もこぷこぷと順調に重湯を口に運んでいるようだ。考えたことはなかったが、ひょっとして鶴見はそれなりの年齢のようだし、育児の経験があるのかもしれない。

「うん。順調に食べてくれているな」

たっぷり作った重湯をすべてとはいかなかったが、赤子は満足するまでそれを口にして、今度はうとうとと瞼が重くなってきたように見える。

「お、おなかいっぱいになって…眠く…なってきた、んですかね…?」
「フフそのようだな」

鶴見はやはり赤子の扱いに慣れている。あまりプライベートなことに踏み込むのも憚られるから聞きはしないが、きっと彼には経験があるように思われた。月島はどうなのだろう。鶴見よりは年下だけれども、彼だって子供がいてもおかしくない年齢だ。

「身体を拭きに行きたいんだが、ミョウジさん、少し抱いていてくれるか」
「え、わ、私ですか…?」
「はは、そう怯えることはない。女性に抱かれていたほうが赤子も落ち着くというものだ」

女性の方が子供が落ち着くという理論の真偽は定かではないが、仕事終わりに身体も拭くことが出来ていないだろう鶴見を引き止めることは出来ない。ナマエは鶴見の腕から赤子を預かると、想像よりも柔らかい肌に気おくれしながらなるべく大事に抱きかかえる。部屋をあとにする鶴見を見送り、柔肌の小さい命を見下ろす。月島は赤子を苦々しい顔で見つめていた。

「あ、赤ちゃん…苦手、ですか…?」
「そういうわけじゃ…いや、そうかもな…」

月島は一度吐き出した言葉をすぐに撤回する。ナマエだって小さな子供が特別得意というほうではないけれど、月島ほど苦々しい顔をするほど苦手でもない。返す言葉を探すうち、先に口を開いたのは月島だった。

「……子供は親を選ぶことはできないだろう。この子供の両親は凶悪犯だった。そのまま育てられていたら…生粋の悪人になったに違いない」

随分な内容で、しかし声音は攻撃的なものではなかった。この赤子は何か事情があるらしい。そもそもこんな夜中の任務帰りに子供を預かってきたなんて事情がないはずがないとは思っていたが、まさか凶悪犯の子供だとは。
それよりも気になったのは、月島の言葉の内容だ。何か自分の周囲に心当たりがあるように聞こえる。

「そ、育てた親が悪人なら…子供も絶対に悪人になる…ものですか…?」
「…少なくとも、俺はな」

月島は自分のことをもっともな例としてあげた。ナマエは小さく唇をはくはくと動かし、酸素とともに言葉を探す。月島の過去のことを聞いたことはなかったが、今の口ぶりからして自分の親が悪人で、その子供である自分も悪人だと、そう言っているのだと思われる。

「つ、月島さん、が…?」
「……ああ。俺の親父は手の付けられない悪人でな。酒を飲んで暴れて殴られるのは日常茶飯事だったし、人を殺したことがあるらしいなんて噂もあった」

月島がゆっくりと自分の昔を口にし始めた。驚いた。彼も自分と同じようなどうしようもない父親に育てられたのか。いわく、月島の生まれは佐渡、そこで月島はろくでなしの父に育てられ、島では一番の悪ガキだったらしい。今の月島からは少しも想像できない。

「佐渡にいたころの俺は悪童、クソガキ…まぁ、ずっとそう言う呼ばれ方をしていた。手の付けられないガキだった」

想像も出来ない。月島は少しぶっきらぼうで不器用なところがあるけれど、何も知らないナマエに根気よく丁寧にここでの常識を教えてくれた。そのなかに彼の「悪人」たるところを感じたことは一度もなかった。
一度言葉が途切れ、そこから何度も逡巡するような間を経て、月島がいままでよりもより小さな声で話を再開する。

「……13年前、俺には結婚を約束していた子がいた。同じ佐渡の女の子だった。日清戦争に出征するときに、日本へ帰ったら一度だけ戻ってくると、そのときに駆け落ちをしようと…」
「え………」
「だが戻ってきたとき島では俺が戦死したと根も葉もない噂が立っていた。そのせいで彼女は身投げをしたらしい、と。俺は毎日毎日海を探し回った。そうしているうちに、俺が戦死したなんて噂はどこから流れたんだろうかと、そんな疑問が過ぎるようになった」

頭の中に一気に情報が詰め込まれ、言葉の一つ一つを処理することに精一杯だった。考えたことはなかったけれど、月島には将来を誓ったような相手がいたのか。年齢も年齢だし、月島のような人間ならそんな相手がいないほうがおかしいのだ。月島の言葉はそこからも続いた。

「噂の出所は俺の父親だった。どうしようもないクソ親父のせいで俺はあの子を失った。俺は馬乗りになって親父の顔面を一心不乱に殴り続けた。気が付いたときには親父は顔をくしゃくしゃにして死んでいた」

月島が自分の拳をじっと見つめる。彼のような屈強な兵士に一方的に殴られ続ければ、人間というものは想像よりも簡単に死んでしまうことだろうと思う。ナマエは恐る恐る尋ねた。

「そ、その…婚約者さんは、見つかった…んですか…?」
「……結局、あの子は死んでなかった。東京に嫁に行く話が降って湧いて、俺が死んだと聞かされた彼女は、親の強い勧めで嫁いだらしい」

月島の大事な人が亡くなっていなかった事実にホッと胸を撫で下ろす。いや、婚約していたような相手が突然別の男に嫁ぐなんて耐えがたいことだっただろうが、死んでしまうよりは何倍もいいと自分なら思うだろう。
月島はいつになく饒舌で、話はまだ終わらない。彼の目の奥はひんやりと冷え、放っておけばそのまま凍てついてしまいそうだった。

「俺は尊属殺人の罪で死刑を待つ身だったが、鶴見中尉の様々な根回しで釈放された。鶴見中尉は、ろくでもない父親のために俺が死ぬことはないと言ってくれたが…実際どうだろうな。俺にはやっぱり、あのクソ親父の血が流れていると、今でも思うよ」

月島はそれきりじっと黙った。普段にない饒舌さの反動で黙ってしまうと、いつも以上の沈黙がせり上がってくるような気になる。ナマエの中には名状しがたい感情がぐるぐると渦巻いていた。

「つ、月島さんは、その…お、お父さんがそうだったから…自分も同じような人間だ、って…言いたいんですよね…?」
「……ああ」

月島が肯定する。彼は悪人ではないと思うけれども、善悪というものに絶対はなく、立場や価値観で簡単に逆転してしまうことだと心得ている。だとしたら「月島さんは悪人なんかじゃないですよ」という選択肢は無意味なものだろう。ナマエは悩んだ末に一度口を噤み、そっと声を絞り出す。

「じゃ、じゃあ…私も、です」

シンと、もともと静かだった部屋の中がよりいっそう静寂に打たれた。悪人に育てられた子供が悪人になるというのなら、自分だってそのひとりだといえる。ナマエの父親は人殺しでもあるまいし、この時代の悪人とは次元が違うのかもしれないが、それでも自分の子供に意味もなく暴力を振るう男で、ろくに自分の子供と向き合いもしなかった。充分な悪人だ。

「いや、ミョウジさんのことを言ったつもりは──」

月島がハッとしてそう弁明する。弁明などいらない。何故なら自分が悪人であったとしても、さしたる問題ではないからだ。それよりも、この静寂に溶けてなくなってしまいそうな月島の輪郭を確かめられる言葉が欲しい。ナマエはぎゅっと赤子を抱える手に柔らかな力をこめる。

「つ、月島さんと一緒なら…わ、私も、悪人で…いいかなって…」

月島の反応が返ってこなくて、言葉を間違ったかと思ってすぐに「す、すみません…」と謝った。それと同じタイミングで腕の中の赤子がぐずるような気配を感じ、慌てて軽く揺らし、慣れないながらも必死にあやす。くしゃりと顔で泣く準備をしていた赤子は泣き出す寸でのところでどうにか機嫌を持ち直し、ナマエはホッと息をついた。

「よ…よしよし。こわくない、からね…」

そう出た言葉は無意識だった。反乱軍の根城であるこの場所が安全なわけがないと、言った後で頭の冷静な部分がそう主張する。反射的にそう出てしまったのはきっと、ナマエにとってここがなによりの、そして唯一の安全な場所であるからだろう。
赤子は翌日、鶴見によって「信頼できる人物」のところへと連れていかれた。結局あの子供の両親がどんな悪人だったのかはわからないが、これからのあの子の人生が幸せなものであればいいと、ナマエは無責任にそんなことを祈った。







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