14 鯉と死神


夏が始まった。外の木々では蝉が鳴き、音が洪水のように渦巻いている。これは過去でも現代でも変わることのない夏の共通点だ。ナマエがこの時代に来てもうすぐ一年が経とうとしている。

「こ…浩平さん、あんずの淡雪ですよ。食べますか?」
「うん、ナマエちゃんありがと」

二階堂はとりあえず退院し、兵営で一緒に生活をするようになった。義足にもかなり慣れてきているものの、他の兵士たちと同じようにとはいかない。留守番をする時間が他の兵士たちに比べて多く、そのため空いた時間はナマエと雑談をしていた。

「淡雪美味しいね」
「よ、よかった。私が作ったんです」

淡雪とは、ジャムのように砂糖で煮た果物にゼラチンを加えて固める、いわゆるゼリーの親戚のような食べ物である。今日のそれは貰いもののあんずでナマエが作ったものだった。二階堂が匙を使ってぱくぱくと口の中へと運んでいく。

「ナマエちゃんお料理上手」
「そ、そうですか?」

入院中に引き起こしたモルヒネ中毒の後遺症なのか、二階堂は未だに実年齢とは到底見合わない子供のような言動を繰り返している。鶴見や月島の言うことを聞くようにはなったけれど、子供が多少成長して親の言うことを少しずつ聞くような、そういう些細な差だった。

「グンソーたち遅いね」
「お、お話長引いてる…んですかね?」

子ども扱いをするのは失礼だとはわかっているけれど、どうしても彼の頭の回転に合わせているとそうなってしまうことが多々ある。しかしそうしてくれていると、正直成人男性と話すよりは気が楽でいられる。

「はやくグンソー来てくれるといいね」

子供のような顔で笑う二階堂にナマエは曖昧に笑った。いま月島は鶴見が私室として使用している部屋で報告会のようなものをしているらしい。旭川の本隊にいたこの小隊の新任少尉、鯉登音之進が小樽の兵営に来ているのだ。


鯉登とはどんな人物だろう。月島によれば、鹿児島出身の海軍の家柄で、眉目秀麗で成績も優秀。陸軍にはなにか特別なきっかけがあって志願したらしい。考えたところでどんな人物かのイメージが具体性を帯びるわけではなかったが、手持無沙汰にあれこれと想像してみた。
任務にかり出された二階堂を見送ったあと、ナマエは自分に与えられた部屋の中でぼうっと表の木々を見つめていた。

「ミョウジさん」
「は、はい…!」

不意にそう声をかけられ、びくりと大袈裟に肩を揺らして戸の方に視線をやる。今の声は月島だ。ナマエは慌てて戸の方に向かってがらりとそれを開けた。月島の後ろに長身の若い男が立っている。

「今いいか。鯉登少尉殿が今日付けでこの兵営に住むことになったんだ。君のことを紹介しておくようにと鶴見中尉殿からのお達しでな」
「だ、だいじょうぶ、です…あの、どうぞ…」

月島の後ろの立つあの若い男が「鯉登少尉」なのか。特徴的な眉のように思えるが、確かになかなか見ないほどの美形だ。
ナマエは二人を部屋に通すと、茶を用意して座卓の上にそれぞれ配する。月島が小柄なせいか、鯉登は必要以上に大柄に見えた。

「ど、どうぞ……」
「いただきます」

鯉登は美しい所作で湯呑を手にして茶を飲む。これだけで随分と育ちがいいだろうことは簡単に推測できた。この時代のことに詳しくなったというわけではないけれど、自分の生きていた時代に比べて想像よりも「身分の差」というものが残っているのはひしひしと感じられ、陸軍の将校という立場もある程度の身分がなければなることの出来ない存在であるということくらいは理解している。

「お初にお目にかかります、ナマエ嬢。鯉登音之進と申します」
「は、初めまして…ミョウジナマエと申します…あの、えっと、鶴見のおじさまのご厚意でお世話になっています…」

ナマエは頭の中で自分の設定を思い出しながら鯉登に挨拶をした。鯉登は自分自身には自信満々、ナマエに対しては興味津々という様子を隠しもしていない。月島にこっそりと視線を向けると、小さく頷かれる。それは「諦めろ」ということなのか「大丈夫だ」ということなのか。わからないので自分に都合のよい後者として解釈する。

「異国帰りのところを男ばかりの兵営で暮らすとなれば苦労も多いでしょう。お困りごとがあれば是非私にご相談ください」
「あ、りがとう…ございます…その、いまのところは、特に…」

紳士的な態度はこの兵営では少し見ないくらい板についていた。鶴見の次と言ってもいいかもしれない。宇佐美も慇懃な態度ではあるが、初期のつんけんした様子がどうしても頭の中で足を引っ張る。
見れば見るほどに顔の造詣が美しい。浅黒い肌に艶やかな髪が眩しいし、顔のすべてのパーツが計算され、最も美しい場所に配置されているのではないかとも思わされる。思わずじっと見つめてしまって、不躾なことをしたと気付いて慌てて目をそらした。

「ナマエ嬢?なにか──」
「鯉登少尉。他の兵卒に合流の報告をしましょう」
「ん?ああ、そうだな」

月島が鯉登の言葉を切るようにして、そのタイミングで二人が立ち上がる。質問攻めにされて答えきる自信もないし、そもそも彼はこんなところで油を売っていて良い存在ではないだろう。退出の間際に月島と目が合って、ナマエは助け船を出してくれたことにぺこりと会釈をする。月島もそれに視線だけで返し、二人は部屋を出て行った。


鯉登は随分と鶴見に心酔しているらしい。そう言う手合いはこの小隊では珍しくはないが、宇佐美と違ってナマエの正体を知らないから、鶴見の親戚であると信じ切っている鯉登は何かにつけてナマエに親切を働こうと躍起になってくる。悪いことではないのだが、放っておかれることの比較的多かった生活とのギャップは少しやりづらいものがある。

「こ、鯉登少尉は…今日いるの、かな…」

きょろきょろと周囲を見まわして、鯉登がいないことを確認しては一息をつく。彼は決して悪い人間ではないと思うけれど、ナマエにとってはかなり圧が強いというか、気おくれしてしまうものがある。
しばらく庭の中を手持無沙汰に散歩をしていると、門の方からこちらに向かって歩いてくる着流し姿の男が目に入る。軍服ではないが、あれは月島だ。

「つ、月島さんこんにちは…あれ、今日は…軍服じゃない、んですね…?」
「ああ。少し任務の都合で賭場に潜入してな。ゴロツキに扮していたところだった」
「な、なるほど…」

ゴロツキ、という言葉が確かに良く似合う。兵士の中には強面の者は基本的に多いけれど、月島はその中でもかなり凄味があるほうだと思う。

「すまん。怖がらせてしまったか。着替えてくる」

その恰好にナマエが怯えたのだと解釈した月島はそう言って、慌てて着替えに母屋の方へ向かってしまった。着替えてくる、というあの口ぶりは、だから待っていてくれということなのだろうか。それともそういうことでもないのだろうか。
どちらかはわからないが今できることもないし、ナマエはぽつねんとそこで待つことにした。夏の盛りの北海道は、陽射しの暑さは感じるものの日陰に入ると吹く風が心地いい。緑の瑞々しい香りを乗せた風があたりの熱を攫って行く。

「ナマエ嬢!」
「えっ…!こ、鯉登少尉……?」
「外は暑いでしょう。部屋の中に入られては?」
「あ、いえ、大丈夫…です…」

今日は鯉登がいないと思っていたのに、どこからともなく現れた。今日もやはり気圧されてしまって上手く話すことが出来ない。鯉登がそんなナマエのことをどう解釈しているのかわからないが、特に悪意はないとはいえ今まで関わったことのないタイプの人間の出現にどう対応したらいいのかと困っているのは事実だった。

「そうだ、ナマエ嬢は甘味はお好きですか?」
「え、あ、そ、それなりに……」
「そうですか。では今度私の郷からかるかんを取り寄せましょう。甘くて絶品ですよ」

かるかん、という言葉を頭の中に浮かべる。聞いたことはあるがどんな菓子だっただろうか。覚えていないのだから少なくとも食べたことはないだろう。鶴見がそもそも甘党らしく、この時代に来てからあれこれと甘味を食べされてもらう機会がある。飽食の時代と言われた現代よりも自分としては甘い贅沢品をくちにしていて、なんだか変なことになっていると思う。

「ナマエ嬢?」
「は、はい…」

鯉登が不思議そうな声で呼んで、顔を上げれば声の通りに不思議そうにする鯉登と目が合った。なにか受け答えに妙なところがあっただろうか。省みてみたものの、何処という点は思い当たらない。

「あ、あの…何か私が、粗相を……?」
「いえ、普段元気のあまりなさそうな様子でしたので、そうやって笑っていらっしゃると雰囲気が随分変わるものだと思いまして」

かるかんに引っ張られて過去と未来を比較しているうち、いつの間にか自分の口元が緩んで締まっていたらしい。彼が怒っているのかどうかは読み取れなくて、ひょっとして彼の気分を害していたら、と考えがよぎり、そう思ったときには謝罪の言葉が口をついていた。

「ご、ごめんなさい……」
「どうして謝るのですか。笑っていらっしゃる方がお似合いになります」

鯉登が恥ずかしげもなくそう言う。ナマエはそんな類いの言葉をかけられた経験がなく、だからどんな返事をすればいいかもわからない。言葉を探してはくはくと唇を動かしていると、母屋の方から声がかかった。

「鯉登少尉殿、こちらにお見えでしたか」
「む。月島か」
「東松屋の件で鶴見中尉殿からお話があるそうです」

声をかけてきたのは月島だった。先ほどの着流し姿からは着替えて軍服に戻っていて、少し残念なようなホッとしたような気分になる。鯉登は鶴見という言葉を聞くなりぶんぶんと犬が尻尾を振るように喜び、凄まじい勢いで母屋の方へ走って行ってしまった。月島もついていくのかと思えばそうでもないようで、彼はそのままナマエの元に留まった。

「…その、問題なかったか」
「え?」
「鯉登少尉だ。君を鶴見中尉の親戚ということにしているから興味津々だろう」

なるほど、問題とは鯉登のことか。取り立てて月島に対応してもらうようなことはない。彼の圧に気後れしているところはあるけれど、そのくらいは自分で解決をしなければ。なんでもかんでも月島に頼り切りというのはいけない。

「え、と…大丈夫、です。変なこと…言っちゃってないか不安、ですけど…困るような、ことは……」

ナマエはなんとかそう言ってぎゅっと自らの手を握りしめると、隣の月島をこっそりと盗み見た。感情はあまり読めない。普段から感情表現が豊かという方でもないようだし、まだそれをわかるには月島との付き合いが短すぎる。月島はその感情の読めない表情のまままた口をひらいた。

「君も俺みたいな人相の悪い男より鯉登少尉のような美男子のほうが良かっただろう」

一体何の話だろう。月島が強面なのも鯉登が美男子なのも事実だが、何がどこに繋がっているのか話の繋がりが見えてこない。不意に蝉の鳴き声がやみ、言葉のない静寂がその場を支配した。しかしそれも束の間で、また蝉たちは洪水のように鳴き始めた。

「流石に鯉登少尉は立場上、俺や宇佐美のように君の世話を任命何てことは難しいだろうが…君が望むならなるべく話す機会が多くなるよう鶴見中尉に進言しておく」
「え…え!?」

思わぬ方向に話が流れていくように感じて、思わず大きな声が出てしまった。これじゃまるで自分がもっと鯉登と話したがっているような、有り体に言えば美男子だからと彼と話したがっていると思われているようじゃないか。あらぬ誤解が生まれそうになり、ナマエはばたばたと手を左右に振った。

「あ、あの…!わ、私は月島さんのままがいい、です…!」

声を絞り出す。驚いたときと同じくらいの声量で、しかしそれよりもはっきりとした言葉で。ナマエの声の大きさに驚いたのか、月島が少し目を見開いた。その先を口に出そうとして口ごもり、間が悪く母屋の方から月島を呼ぶ声が聞こえた。あれは鶴見の声だ。

「はいッ!……ミョウジさんすまん。行ってくる」
「ぁ…は、はい……」

月島が母屋に向かって踵を返した。まわりよりも低い身長、だけど誰よりも頼もしいその背中に、ナマエは口ごもった言葉を投げかけた。

「つ、月島さんが、一番…その、安心…できます…」

悩んだ末に選んだ言葉は「安心」だった。安心、安心という言葉で足りるだろうか。もっと違う、もっと相応しい言葉があると思う。その自覚はあったけれど、それはまだ心の中に押し留めることにしておいた方がいいだろう。







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