13 慈悲と死神


春が徐々に終わり、北海道と言えど日中は陽射しの暑さを感じるようになってきた。月島は夕張から戻って以降、なにか少し様子がおかしいように思える。尤も、ナマエの気のせいかもしれないけれど。

「ミョウジくん、少しいいかな」
「は、はい…」

鶴見に不意に呼び止められた。最近は改まって何かを言われることは少なかったから、一体何だろうかと身構える。鶴見はその様子を察知して「そこまで緊張する話ではないよ」と付け加える。

「二階堂の見舞いに行ってやってほしいんだ」
「え、こ、浩平さん…入院、してるんですか……」
「ああ、夕張での任務で足を失くしてな…」

え。と言葉を出したつもりだったのに、あまりの衝撃でヒュッと息を吸い込むだけしかできなかった。足を失くした。平然と言われたが、夕張ではとんでもないことが起きていたのではないか。足が切断される痛みを想像してぐっと顔を歪める。

「炎症はおさまってきているんだが…病院に詰め込まれているせいか退屈そうにしていてね。君には話し相手になってやってほしい」
「わ…私でよければ…」

世話になっている鶴見からの頼みだし、断る理由もない。ナマエが快諾すると、鶴見はにっこりと口角を上げて「よかった」と言った。自分にその役目が果たせるかは甚だ疑問であるが、自分に出来るだけのことは全力で頑張ろう。


翌日、月島の引率で二階堂の入院している病院に向かうことになった。この時代に来てからまともな外出というのは初めてかもしれない。旭川にいた時はそれこそ屋敷から一歩も出ていなかったし、小樽のもとの兵営でも今の民家でも、敷地より外に出ることは一度もなかった。旭川から小樽に移った時に街並みは多少見たけれど、あれは冬の始まりのことだったし、景色も随分違って見える。

「ミョウジさん、どうかしたか」
「あ、いえ……が、外出することがないので新鮮で…」
「ああ、なるほどな…まぁ、気分転換にもなるだろうから君が定期的に外出できるよう鶴見中尉に進言しておこう」
「す、すみません…わがままを言って……」

そう言うつもりで言ったわけではないが、月島が気遣ってナマエの外出のこと進言してくれるらしい。そんな気を遣わせてしまったことが申し訳なくなった。ナマエがうろうろ視線を泳がす。

「こんな我が儘くらい可愛いもんだ」

ふっと月島が笑う。自分とそう変わらない身長だから、歩いていると他の兵士たちより距離が近く感じる。彼の笑い方はこんなふうだっただろうか。

「ここが二階堂の入院している病院だ」

少し小高く整備された石垣の上に平屋の建物が建っている。先導する月島について建物に入り、すれ違う医師と看護婦にぺこりと会釈をしながら廊下を歩いた。板張りの廊下はきいきいとささやかな音を立て、現代で見ていたよりも歪みのある窓ガラスから光が差し込んできていた。傷ついた人間の療養に相応しい、静かで清潔な空間だった。

「あー、ミョウジさん。二階堂と話したのは確か、元商店の兵営にいたときが最後だったよな」
「あ、は、はい…」

廊下の途中で月島がピタリと足を止める。改めて確認され、ナマエはわけもわからないまま肯定した。二階堂浩平とも二階堂洋平ともまともに話したのはあの火事の一件が最後だ。もっとも、洋平に関してはそのとき命を落としてしまっているのだから、話しようもないのだが。

「二階堂はいま、片割れを失って精神的な平衡感覚に支障をきたしている。君が見たら驚くかもしれないが……」

その先の言葉は続けられなかった。たとえ驚こうと、気味悪がろうと、ここまで来て引き返せるものではないし、何より鶴見の依頼なのだからそんな個人的な感情は二の次だった。二階堂がどれほどの絶望の淵に立っているのかは想像もつかない。

「だ、大丈夫、です…その、私は…」

扉を開くのが少し恐ろしくもある。しかし今は月島もそばにいてくれているのだし、それほど恐れることはないだろう。ナマエは自身の胸元で握った拳に力を籠める。月島が頷いて、三つ先の扉を開いた。

「おい二階堂、起きているか」

扉の開いた風圧で中の空気と外の空気が混ぜられる。消毒液の臭いが鼻の奥をツンと刺激した。部屋の中には数台のベッドが並んでいて、そのどれもに清潔さを主張するように白いシーツがかけられている。その中のひとつがこんもりと盛り上がっていた。

「二階堂」

月島が柔らかく声をかけながら室内を進む。月島の普段の素行のすべてを知っているわけではないけれど、取り分け優しい声音を心がけているように聞こえた。こんもりとした掛け布団の山がもぞりと動く。その中からか細い声が聞こえた。

「グンソー?」
「ああ、今日はお前のためにミョウジさんも見舞いに来てくれたぞ」
「ナマエちゃん?」

か細い声が続く。ナマエはそれより少しだけ大きな声で「こ、こんにちは…」と布団の山に向かって言葉をかけた。もぞりと人影が姿を現す。久しぶりに見る二階堂の顔は随分と変わっているように見えた。頬が痩せこけ、目は落ち窪んでいる。どこかうつろなまなざしでこちらを見ていて、少し背中にゾッとしたものが走って行く。

「退屈してるお前の話し相手になってくれるが、困らせるようなことは言うなよ」
「はぁい…」

二階堂はもともと声の低い方ではなかったけれど、輪をかけて声が細く高くなっているように聞こえた。例えるならばそう、小さな子供のようだった。二階堂がベッドの上に腰かける。その右足の脛のあたりから先がなくなっている。

「ミョウジさん、すまんが医者のところに行ってくる」
「わ、わかりました」

恐らく二階堂の担当医に話をしに行くのだろう月島を見送ると、ナマエはベッドのそばに置かれていた四角い木製の椅子に腰かけた。

「お、お久しぶり、ですね…あの、お怪我なさったって聞いて…」
「痛いの。すっごく熱いし、ずっとずっとじんじんするんだ」
「そ、そうなんですね…」

普通の怪我ならまだしも、足をなくしたなんて怪我をしている人間になんと声をかければいいのか。同調することしか出来なくて、幼児退行をしているような二階堂をちらちらと盗み見る。話し相手を命じられているのに自分のコミュニケーション能力ではこれ以上どうしようもない。二階堂はパタパタと足を動かして、それから眉間にシワを寄せる。

「うう、うぅう……」

突然瞳が潤み、瞬く間に目尻に涙が溜まっていく。くしゃりと顔が歪み、声を上げて泣き始めてしまった。ナマエは驚いて立ち上がり、二階堂のそばまで慌てて近寄った。

「こ、浩平さん!?」

どこか痛いんですか、と言おうとしたが、こんな怪我痛いに決まっているんだからと口ごもる。痩せた二階堂の手がナマエに伸び、驚きながらもそれを避けることは出来ずに受け入れる。骨と皮の指先がナマエの肩をがちりと掴む。

「ナマエちゃん、こわい」
「え……?」

こわい。言葉を頭の中で反芻する。何に対して。いや、そんなの何もかもに決まっている。彼らとは生きて来た時代も見てきたものも違うけれど、それでもやはり同じ人間なのだ。自分の肩を掴んだ指の上から自分の手を重ねる。

「洋平はどこ?ずっとずっと俺たちは二人一緒だったんだ。洋平は、洋平はどこにいっちゃったの?」
「え、と…よ、洋平さんはその……」
「痛い、痛いよ。こわい、どうしようナマエちゃん」

わぁわぁと声を上げて泣く。子供のような泣き声で、しかし彼の手の力は成人男性のそれだ。自分の肩に二階堂の指がめり込んで痛くて、だけどそれをやめてとは言えない。自分の片割れと自分の右足を失った彼のために、自分に何ができるだろう。

「お、お話聞くしか出来ないですけど、その……」

自分は無力だ。何もできない。文字通り話を聞くだけで、アドバイスのひとつもしてやることはできないだろう。ナマエはすぅはぁとゆっくり呼吸をして、その先を続ける。

「辛いことは、なんでも吐き出して…ください…」

だけど自分が辛かったとき、話を聞いてくれる人がいたら、とここにきて思うことが何度もあった。自分が話を聞くくらいでは何も変わらないかもしれないけれど、それでもしも、もしも変わることがあるのなら。
ナマエは昔の自分に今の彼を重ねていた。置かれた状況も受けた痛みも違うけれど、ひどく傷ついている、そのことだけは同じだった。

「ううぅ、ナマエちゃん、ナマエちゃん…」
「あ、はい…ここにいますよ」
「痛いよぉ、痛いッ!!モルヒネちょうだいッ!!」

ナマエの肩から手を離し、膝を抱えた二階堂が泣きわめく。彼から飛び出た言葉にギョッとした。モルヒネ、といえばあの麻薬の一種のことだろうか。現代のニュースで見たような白い粉や注射器が頭の中に浮かび、いや、そもそも麻薬は麻酔として使われるものだ、と思い直す。

「え、えっと…お、お医者さん呼んできましょうか…」
「ヤダッ!だってモルヒネだめって言うからッ!!」
「え、え…ど、どうすれば…」

二階堂がじたばたと暴れる。自分は結局話を聞くことさえもマトモにできないんだと自己嫌悪に陥りながら、どうすればいいんだとオロオロ狼狽えた。そうこうしているうちに医者を引き連れた月島が少し騒々しく病室に入ってくる。

「二階堂ッ!おいどうした!」
「痛いッ!痛いのッ!!」
「暴れるな!怪我するぞ!」

自分が怪我をしそうな勢いで暴れる二階堂をどうにか月島が取り押さえる。医者もこの手の患者には慣れているのか、あまり驚いた様子はなかった。騒ぐ二階堂をどうにか諫め、ひといきついて月島がナマエに向き直った。

「ミョウジさん、怪我はないか」
「あ、はい…私はなんとも……その、浩平さんが、モルヒネが欲しいって……」

もごもごとそう言えば、月島は渋い顔をする。いわく、二階堂は痛み止めに使われるモルヒネをこっそりと乱用しているらしい。今日もずいぶん乱用しているようで、午前中に医者が取り上げたばかりだという。

「ナマエちゃんッ!」
「こら二階堂ッ!ミョウジさんを困らせるな!」

二階堂は引き続き「ヤダヤダー!」とへそを曲げている。医者がため息をつき、ナマエは何が出来るかとわたわた慌てふためき、そっとベッドのそばに跪いてぐるぐると巻かれた包帯にそっと触れた。

「い、痛いの痛いの、飛んでけー……なんて…」

昔公園で転んだ子供に母親がやっていたそれを真似してみせたが、騒がしかった病室内がしんと静まり返ってしまった。空気の読めない余計なことをしてしまったのかと恐る恐る見上げると、ぎょろっとした二階堂の目がぽかんとナマエを見ている。

「えっと、あの、その……」

自分の子供じみた行動が恥ずかしくなって、かぁっと顔に熱が集まる。撫でていた手がぴたりと止まってしまって、はく、はく、と唇が小さく動く。失敗した。慣れないことなんてしなければよかった。後悔が頭の中を駆け巡り、大きな石で側頭部を打ち付けられたような気持ちになる。

「ププ、ナマエちゃんなにそれ!へんなの!」
「ご、ごめんなさっ……」
「へんなのへんなの!ちょっと痛いのなくなった!どっかに飛んでったのかな?」

ナマエの緊張とは相反して、二階堂はキャッキャと嬉しそうにしている。成功ではないかもしれないが、失敗でもないだろうと理解して、ホッと胸を撫で下ろした。


それから支離滅裂な発言を繰り返す二階堂に付き合い、頃合いを見計らって病室を後にする。行きと同じ道を月島と並んで歩いた。馬車や道行く人々を避けながら進み、周囲に人のいなくなったタイミングでナマエは口を開く。

「あの、浩平さん…本当に様子が、違いましたね…」
「ああ。モルヒネの影響のようでな…」

月島の言葉に口元だけで「モルヒネ…」と復唱する。この時代の麻酔や麻薬の類いの運用方法の知識は全くない。昔はもっと副作用の強いような運用方法だったりするのだろうか。

「こ、浩平さんはあの…これからも、任務に出られるんですか…?」
「ああ。もちろん今すぐじゃないが、先日義足を作ってもらってな。それが馴染むようになれば、それなりの任務には出ることになるだろう」
「そう、なんですね…」

あの傷を受けて、正気を失って、それでもまだ戦うのか。いや、そんな事情は自分が口を出せることじゃない。わかってはいるが、心臓がぎゅっと握りつぶされるような気持ちになった。

「わ、私に…出来ることは、ありますか……」

気がつけば、そんな言葉が口をついていた。交換条件でもない、彼らのために自分にできることはあるのか。間近で見ているうちに、自分の見えるものが変わっていた。初めはナマエも気付かないうちに、けれど今は、自分でも気が付くほどに。







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