11 沛雨と死神


雪がまだ溶けない三月。兵営の中でとんでもない話を耳にしてしまった。入院中の尾形が診療所から脱走したらしい。兵営は上から下への大騒ぎだった。どうしてそんな話を知っているのかと言えば、それは宇佐美がナマエの部屋を尋ねてきたからだった。

「いってて…ハァ、最悪」
「手拭い変えましょうか?」
「まだ平気です」

尋ねてきたというよりは監視をしに来たというほうが正しい。ナマエは未来を知る非常に危険で貴重な人材だ。万が一にも尾形が拐かしたり、ナマエと尾形が内通していたりしていないかと見張っていたのだ。もっとも、後者についてはナマエにとってあり得ないことだったが。

「僕の鼻曲がってません?」
「い、いえ…今日も綺麗なお顔ですけど…」
「あはっ、なんですか、それ。ウケる」

何がお気に召したのか、宇佐美はけらけらと笑い出した。曲がりはしてないが、綺麗な顔の鼻が青黒くなっている。話によれば尾形が逃走する前にオマルで顔面を殴られたらしい。想像しただけでかなり痛そうだ。

「お、尾形さんって…どうなるんですか…?」
「さぁ。二階堂もいなくなってるみたいだし…どっちか捕まえられたらどっちかは殺すんじゃないですか?」

殺す。という言葉を頭の中で反芻する。彼らは軍人で、しかも反乱分子だ。悪人と決めつけたくはないけれど、邪魔者や裏切り者に容赦のない対応をするということは間違いない。それはナマエ対しても同じことが言える。

「ミョウジさん、僕らの目的聞いたんですよね?そろそろ協力する気になりました?」
「え、えっと、それは……」
「どうせ他に頼る辺もないんですから、さっさと決めちゃってくださいよ」

威圧感は前ほどないが、宇佐美の値踏みするような視線は相変わらずだった。鋭い視線をじっと数秒間ナマエに向け、それからふっと逸らす。

「ま、これ以上は月島軍曹に怒られそうだからやめときます」

真意はよくわからないが、やめてくれるのならそれでいい。そういえば、このところ月島に姿を見かけることが減った。他の兵士に比べて様々なことを言いつかっているようだし、忙しなくしているのは見ていてわかる。しかしそれにしても、このところ不在の期間が長いような気がしなくもない。

「あ、あの、月島さんって最近お見かけしないんですけど…」
「ああ、旭川とこっちと往復してるんですよ。古株の軍曹が新任少尉の補佐をするっていう慣例があるんですけど、うちの小隊の新任少尉付きなんです、月島軍曹」

少尉、といえば確か中尉の下の階級じゃなかっただろうか。軍曹と少尉のあいだにどれくらいの差があるのかはピンとこないが、少なくとも立場的には月島が部下のはずである。先輩の部下が後輩の上司を補佐するようなイメージだろうか。いや、具体的には想像が難しいが。
補佐の仕事ってどんなことをするんだろうなぁ、と考えていると、宇佐美はきゅっと上がった口角を更に上に上げる。

「月島軍曹がいなくて寂しいって顔してますね」
「えっ…と」

にやにや笑いながらそう言う宇佐美に反論しようとしたけれど、これがまた事実なのだからなんて反論をしていいものかわからない。我が儘を言える立場ではないが、月島の顔を見ることが出来ないのは少し寂しい。近いうちに会えるといいのだが。
その次の日、尾形が逃げおおせ、二階堂が捕らえられたらしいという話を聞いた。二階堂は怪我を負って陸軍診療所へ入院になったそうだ。鶴見の邸宅に軟禁されていたときより、前の兵営にいたときより、日毎確実に騒動は大きくなっている気がする。


雪の溶ける翌月には、宇佐美が兵営を離れることが決まった。詳しくは聞いていないけれど、どこか遠くの場所で任務につくらしい。それが誇らしい内容であるようで、宇佐美は終始任された事実にうきうきと心を踊らせている様子だった。

「ミョウジさん、こっちの生活は変わりなかったか」
「は、はい…あの、私はこれといって…」

周囲ではいろんなことが起こるけれど、それは周囲の話しに過ぎず、ナマエ自身の毎日は平凡に過ぎていた。火事に見舞われたときのように兵営そのもので事件が起こらない限り代り映えもあるはずがなかった。

「つ、月島さんはその、旭川で新任少尉さんの補佐をするお仕事があって、大変だって聞きました…た、体調とかへいきですか?」
「俺は頑丈なのが取り柄だからな…まぁ、補佐の仕事は面倒も多いが」

自分の投げかけた質問にしっかりと彼が答えてくれることに安心する。安心の理由はなんとなくわかるようで、自分でも説明は難しかった。

「し、新任少尉さんって、どんな方、ですか?」
「鯉登少尉は薩摩の生まれで、いわゆる薩摩隼人というやつだな。眉目秀麗で成績も優秀。海軍のお家柄だが、いろいろあって陸軍に志願なさった方だ」

後半の部分はあまりよくわからなかったけれど、前半の「薩摩隼人」には聞き覚えがあった。中学のころの担任が鹿児島の出身で、自分の地元の話をするときに使っていた言葉だった。

「さ、薩摩隼人って、知ってます。あの、鹿児島の男のひとのことをいう……」
「そうか、未来にも薩摩隼人って言い方は残ってるんだなぁ」

月島が少しだけ口元を緩める。彼が笑ってくれることがなにより嬉しい。自分の頬が緩んでいくのを感じる。初めの頃は強面だと思っていた彼の顔も、いつの間にかむしろそれが頼り甲斐があるというふうに感じるようになっていた。

「近々、俺も鶴見中尉もここを離れて夕張に向かうんだ。今は宇佐美も別の任務についているから、君の事情を知る人間を残しておけなくてな…」
「へ、へいきです!こ、この時代にも…ちょっとだけ、慣れて…新しいお仕事とかは…できないかも、ですけど…」

自分のせいで月島の足を引っ張るわけにはいかない、とナマエはそう勢いよく言って、しかし勢いは尻すぼみになって最後には墜落してしまった。しかし月島はそれを笑うようなことはなく「それは頼もしいな」と言った。
不安がないわけではないけれど、足を引っ張るわけにはいかないし、頼もしいなと言ってもらえるのは嬉しいことだ。

「場合によっては俺の滞在期間はそれなりに長くなるだろうが、鶴見中尉は他の任務もあるし、さほど長い期間は離れないはずだ」
「は、はい。わかり、ました…!」

ただでさえ旭川に出向きがちだった月島が、夕張の滞在期間が長くなってしまうならそれは寂しいことだが、我が儘を言うわけにもいかない。自分に出来ることを精一杯やろう、と、ナマエはこの時代に来てからのことを頭からおさらいをした。


月島と鶴見、それから二階堂が夕張へ向かうことになったらしい。他にも兵士はそれぞれ任務に出ていて、兵営はどこかいつもより静かに感じた。
ナマエは与えられた離れの一室で夕張という土地のことを考えてみる。一番最初に浮かんだのは夕張メロンだろうか。北海道という土地の漠然としたイメージはあるけれど、この地方はこれだ、というのは曖昧で、自信を持って言うことは出来ないかもしれない。

「夕張って…いつ頃からメロン作ってたんだろう…」

窓から外を眺めながらそんなことを考える。メロンが日本に来たのはいつ頃だろうか。メロンの歴史は知らないけれども、開拓の進んでいない北海道で作られているとは思えない。詳しい任務の内容は聞いていないけれど、夕張で一体何をするんだろう。危険がないといいとは思うが、それは難しい相談かもしれない。

「月島さん……大丈夫、だよね」

気が付くと、月島のことばかり考えてしまっている。この感情に言い訳などできなくて、もうする必要もないのではないかと感じていた。伝えるつもりはない。実るなんて思っていない。ただ親切にしてくれる彼に、なるべく多くの恩返しをしたい。

「よし……迷惑、かけないように、頑張らないと……」

この時代に飛ばされてもう8ヶ月が経過している。着物や釜戸式の厨にも、日々の食事にも、水道のない生活にもだいぶと馴染んできた。詮索するような暇を持て余す兵士もいなかったし、任された生活はつつがなくやり過ごすことが出来た。


それから数日ののち、鶴見が兵営に帰ってきた。月島の言った通り、彼の滞在期間は短く済んだらしい。鶴見は母屋で少しの仕事を終えると、ナマエの離れに顔を出した。

「お、お疲れ、様です」
「やぁミョウジくん。事情を知る人間が不在にしてしまったが、不便はなかったかね?」
「は、はい…特に困ったことはなかった、です」

見たところ、鶴見に大きな怪我はないらしい。もっとも、指揮官である彼が怪我をするなんて事態は相当にひどい状況と言えるのだろうが。

「いや、君がここの生活に慣れてくれて私も嬉しいよ」

鶴見は大それた計画を語ったのと同じ口でナマエの孤独に寄り添う。優し気なその瞳が恐ろしいように思えて、何か言わなければならないと追い立てられるような気持ちになった。それを読み取ったのか、鶴見が「どうかしたかい?」と添える。

「え、と…夕張では、どんなお仕事を…されたのかな、なんて…」

以前なら尋ねることを思いつきもしないような質問だったし、今だって答えてもらえるかどうかはわからない。しかし聞いてもしも教えてもらえるのなら、月島がどんなことをしているのか知りたい。ナマエが視線を何度か逸らしながらそう言うと、鶴見は「ふむ」と一拍置いてから口を開く。

「夕張には囚人の情報があってね。それからあそこには腕のいい職人がいるようだから、刺青人皮のことで相談に行ってるんだ」
「そ、そう、なんですね」

わかったような、わからないような。いや、そもそも彼らの当たり前を知らないのだから端々の言葉だけでは想像が出来るはずもない。

「安心しなさい。月島は屈強な兵士だ。ちゃんと無事に戻ってくる」
「えっ……」

思考を読まれてしまったようで一気に焦る。鶴見はまるで子供や小動物を見るかのようにくすりと笑い、ナマエの肩をぽんと叩く。それからゆっくりとした足取りで出入り口に向かった。

「帰ったら一番に君の部屋に行くように言っておこう」
「あ、りがとう…ございます……」

鶴見の背中にぺこりと頭を下げて見送る。あとどれくらいで月島は戻るだろうか。


鶴見が戻ってきてから一か月弱の経過した雨の夜、土砂降りの中を人が歩くような気配がした。兵舎は常に多くの人間が行き来しているが、その足音には聞き覚えがあった。はっと玄関のほうに顔を向けると、同時に戸をトントンと叩く音が聞こえる。
きっと月島だ。そう予感して、ナマエは慌てて玄関へ向かい、がらりと戸を開ける。そこには煤まみれの月島が随分と怖い顔で立っていた。

「つ、月島さん、おかえりなさい…!」
「……ああ」
「あ、あの、任務お疲れさまでした。その、お怪我とか…」
「俺は無事だ」

煤まみれではあるが、怪我はないらしい。ホッと胸を撫でおろし、そうだ、こんなに汚れて帰ってきているのなら手拭いを用意しないと、と思い立って、ナマエは三和土のそばにある甕から水を汲むと、手拭いを浸して絞り、月島のもとへと持って戻る。

「つ、月島さん、よかったらこれ…」
「…おう、ありがとう」

手拭いを受け取ると、月島は煤で汚れた顔を拭っていく。煤を拭い去ったあとの顔色も随分と悪く、何か過酷な任務をこなしてきたのだろうことだけは理解することが出来た。

「お、お茶…淹れましょうか…?」
「いや、汚れたまま上がらせてもらうのは申し訳ない。またの機会にする」
「そ、そうですか……」

全然気にしないのに。と言いたかったけれど、そこまで強く引き止めることも出来ずに口ごもる。いや、贅沢を言ってはいけない。月島が無事に戻ってきてくれただけで充分じゃないか。自分でそう言い聞かせながら無意識に視線が下へと落ちて、すると月島の声と同時にくしゃりと髪を撫でられる感覚があった。

「ミョウジさん」

はっと顔を上げる。月島のいつもよりも昏く見える瞳がじっとナマエを見つめていた。ひゅっと息が喉の奥で詰まり、心臓の奥に炎が燃える。

「君は、死んでくれるなよ」

どうして急にそんなことを。夕張で何があったの。君はって、じゃあ誰かが死んだの。聞きたいことはひとつも聞けるはずがなかった。月島はそれ以上は何も語らず、ナマエに与えられている離れを後にする。外では土砂降りの雨が地面を叩き続けていた。







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