10 秘密と死神


兵営が燃えた日、二階堂兄弟の片割れ、洋平が死んだらしい。その遺体をナマエは見たわけではないが、漏れ聞く話によれば取り調べをしていた「杉元」という男と戦闘になって命を落としたとのことだった。特別親しかったというわけではない。この兵営で数ヶ月一緒に過ごしただけで、大して話をしたわけでもない。けれど身の回りで死というものに殆ど触れてこなかったナマエにとって、これは衝撃的なことに他ならなかった。

「あ、あの…二階堂さ…浩平さんのお食事はどうしたら…」
「せっかく作ってもらって悪いですけど、あいつ食べないかもしれないですね。ま、僕が持って行ってみます」
「よろしく、お願いします…」

宇佐美が二階堂の膳を受け取って引っ込んでいく。新しい兵舎でも食事や洗濯の手伝いをすることになっていたけれど、まだ浩平の食事をする姿は見ていない。全く食べていないということはないだろうが、普通じゃないことは確かだろう。

「大丈夫、かな…大丈夫じゃ、ないよね……」

生前、自分の人生において自分より大事な人などいなかったナマエには想像するしかない感覚だった。薄情なようだが、死んで悲しい人間はいなかった。それくらい人間関係は希薄で、当然のように親戚付き合いもない。誰かが死んでしまったら、自分はあれほどショックを受けることがあるのだろうか。


新しい兵営での生活が多少落ち着いてきたころ、ナマエは鶴見に時間を作って貰うことはできないかと打診をした。鶴見は当日中に時間を作ってくれて、彼が応接間に使っている和室に呼ばれた。障子の向こう側からほの明るく日が差し込む。北海道の春はまだ遠く、雪深い時期をこえたとはいえまだ日中でも寒々しかった。

「話とは何だったかな?」

ナマエに座布団へ座るよう促す。ナマエはそれに従った。この部屋には鶴見とナマエの二人きりで、兵舎で厄介になるようになってからはこうして二人になることも少なかったから、普段にない緊張を感じる。ナマエは視線を左右に動かし、ごくりと唾を飲み込んでから渇いた唇を開いた。

「い、いれずみにんぴって……なんですか……」

彼から大事にしているらしいそれは、恐らく鶴見があの日着ていた皮革めいた素材に幾何学模様のような曲線と直線が描かれているあれのことだろう。あれは一体何なのか。

「君にもいずれは話さなければならないと思っていたが…頃合いかもしれないな」

鶴見はゆったりと口元に笑みを浮かべ、座卓に肘をつくと「さて…どこから話そうか…」と言葉を探すように視線を上に逃がした。しかしこれは本当に言葉を探しているのだろうか。出会ったばかりの人間をわかろうなんていうのは傲慢だが、それにしてもこの鶴見という男には何か、ナマエには決して見えないような側面があるように思えて仕方がない。鶴見がかたちのいい唇を開く。

「私たちは、いわば反乱分子だ」
「え……?」
「軍規に違反し、いま我々はとある埋蔵金を探している」

鶴見の始めた話はナマエの予想のすべてを超えていた。反乱分子。つまり彼らは犯罪者だということだ。自分はいままでそんな人間と一緒にいたのか。

「私たちの探している埋蔵金というのはアイヌの金塊でね。ミョウジくんはアイヌのことはわかるかな」
「は、はい…北海道の、先住民族の…」
「その通り。北海道の川では砂金が採れるんだがね。長年アイヌたちが蓄えていたそれを、ある一人の男が裏切り、この北海道のどこかに隠した」

彼の話し方はまるで教師のように、子に言い含める親のように、あるいは子犬を躾けるトレーナーのように、どこか有無を言わさない強制力のようなものを感じる。

「日露戦争という戦争はわかるかな」
「え、えっと…明治時代の終わりの…ロシアとの戦争ですよね…?に、日本が勝った…」
「その通り。我々は満州の地に出兵した。そこは激戦地でね……何人もの仲間が命を落とした」

満州は中国東北部の土地のことだ。清王朝の末期、ロシアの進出を止めることが出来ず、アイグン条約、北京条約というふたつの不平等条約でロシアに割譲されることとなった。日露戦争では南下政策を進めるロシアとそれを食い止めたい日本の戦場となり、のちに満州事変を経て日本の占領地となっている。
第二次世界大戦の終結寸前にソ連軍が満州に侵攻し、その時満州に建国されていた満州帝国の廃止が宣言されると、ソ連と中華民国の共同管理下に置かれる。その後中国共産党が国共内戦に勝利し、満州は中華人民共和国の領土になった。これが他国に翻弄される満州という地の近代のありさまである。

「日露戦争は確かに勝ち戦だった。しかし日本は既に戦争の継続が困難な状況に追い込まれていた、賠償金は取れず、南樺太の割譲で妥結した。その上我々陸軍第七師団は軍内部で汚名を着せられてね。国のために命を懸けて戦った元屯田兵の我々に残ったのは…この痩せた土地だけだ」

鶴見の朗々とした話ぶりはどこか引き込まれるものがあった。しかし最後の部分は少し不思議だった。痩せた土地、といっても北海道と言えば人気の旅行地で、食料自給率も高いはずである。厳しい土地であるのは同意だが、痩せた、と言われるとイメージとは違う。

「…なにか、気になることでもあったかね?」
「えっ、あっ、いえその…ほ、北海道って食料自給率も高くてその…せた土地っていう、イメージ…印象がなくて…」

戸惑ったのを鶴見に見抜かれ、ナマエはおずおずとそう言った。すると鶴見はふむ、となにか考えるような素振りで、そのあと視線を真っ直ぐナマエに向ける。

「君の未来では、ここはそういう土地なのか」

ズッと心臓が冷やされる音がした。そうか、浅はかだった。北海道は「これから」発展するのだ。ナマエの知っている豊かな大地というイメージは未来のものでしかない。迂闊だった。まだ彼らに協力すると決めたわけではないのに。

「……単刀直入に我々の目的を君に教えよう。我々はこの北海道に軍事政権を築くことを目的としている。父親を亡くした子供たち、息子を亡くした親たち、夫を亡くした妻たちに長期的に安定した仕事を与える。凍てつく大地を開墾し、日々の食料の確保さえままならない生活から救い出す」

鶴見の演説が再開される。声にはどんどんと熱が入り、何か渦のようなものに巻き込まれていくような気さえした。鶴見に向かって大きな重力が発生しているようだ。引き込まれていく。

「そうすることで、私は死んでいった戦友たちを弔いたいと考えている」

圧倒されて言葉が出なかった。この世界に来た時からずっと自分の生きていた時代との違いに打ちひしがれていたが、鶴見の演説とそれで語られる事実はそれを実感させるにあまりある。

「アイヌの金塊はその軍資金というわけだ」

彼の話を聞いていると、反乱分子であることなど忘れさせられたし、そうだとしても彼らが正しい存在であると感じさせられた。ごくりとナマエは唾を飲み込む。喉が張り付き、呼吸が上手く出来ない。

「えと、それで…い、いれずみにんぴ…っていうのは…」
「ああ、そうだったね。刺青人皮というのは、アイヌの金塊の隠し場所を示す暗号だよ。網走監獄から脱獄した24人の囚人の身体に刺青で彫られていて、すべて集めて謎を解くという寸法さ。刺青の入った人の皮と書いて刺青人皮と読むんだ」

刺青人皮。頭の中で漢字に変換し、同時に彼が着ていた様を思い出してぞっと背筋に冷たいものが走っていく。あれが本物だったという証拠はないが、本物だったとしたら、鶴見はその囚人の身体から皮を剥ぎ取り、組み立て、服のように仕立てたということだろうか。

「君には少し、刺激の強い話だったかな」
「え、と…あの、その……」
「少し休むと良い。お茶を用意させよう」

鶴見はそう言って立ち上がると、すれ違いざまにナマエの肩をぽんと叩いて部屋を出て行く。彼が出て行ったことでやっと呼吸が出来たような気になった。まるで鉄で造られた密室のように、重く冷たく、空気の出入りさえ許さない空間だったかのように思われた。

「ミョウジさん」

少しの時間のあと、襖の向こうから月島の声がかかる。反射的にびくりと肩が揺れ、一拍遅れて襖の向こうに「ど、どうぞ…」と返事をする。月島が湯呑と急須の乗った盆を持って部屋に入り、ナマエの前にそれを振舞う。

「顔色が良くないな」
「えっ…あ、その……」

月島が覗き込み、ナマエはどう答えたら良いものかと口ごもった。彼らが「悪人」だなんて信じたくない。いや、しかし彼らは「悪人」なのだろうか。戦争は悲しいことだけれど個人の意志ではなく国のためで、鶴見の話を信じるのなら彼らのやろうとしていることは単純に「悪事」と言えることとも思えない。そもそも善悪なんて主観だ。「悪人」かどうかを判断することそのものが愚かしいことなのかもしれない。

「あ、あの…鶴見中尉から、聞いたんです…その、皆さんが、は、反乱分子、だって……」

ナマエはおずおずとそう口を開いた。彼らが、まして月島が悪人だなんて思いたくない。訳の分からないまま身一つで放り込まれた自分にここで生きるために必要なことを沢山教えてくれた。怒声に驚いて気を失ったときも優しくしてくれて、火事から逃げ遅れたときには助けに戻ってきてくれた。
月島は少し悩むように唇とはくはくと動かし、それからゆっくりと言葉に変える。

「ああそうだ。俺たちはミョウジさんが思っているような善良な人間じゃない。国のために戦争へ行って、敵兵を殺し、今も必要であれば邪魔者は排除する」

生きている世界が違う。そんなことは元からわかっていたことのはずだった。しかし彼らと生活を共にするうち、まるで自分も同じ世界に生きているような気になっていた。
彼らは100年以上前の人間で、軍人で、戦場を経験している。自分とはまるで違う。

「つ、月島さんも、戦争で、け、怪我とか……」
「したな。細々としたのはいくらでもあるが…一番大きな怪我は奉天会戦で負ったものだ。敵の手投げ弾にやられて、俺は腹を、鶴見中尉は額をやられた」

月島が自分の腹に手を当てる。鶴見が額を、というのは、あの奇天烈な額あてを遣うようになる原因の傷だろうか。あれと同じ時に負った傷だというのなら、月島の軍衣の下にはあれほどの大きな傷が残っているのかもしれない。

「いまは…その…」
「ああ、運よくすぐに野戦病院に運んで貰えたからな。皮膚が多少引きつってるが、痛くはない」

ナマエはきゅっと唇を噛む。どんな傷かは見えないけれど、その傷を想像して、恐らく想像さえ超える痛みに顔を歪める。月島はあまり感情の見えない顔のままナマエを見つめる。

「君の生まれた時代に戦争はあったか」

現代社会にも戦争はある。むしろ、昔よりも兵器が進化して、この時代にはない惨状が生まれている。しかしそれはナマエにとって非日常の話で、彼女の生きる世界に暴力はあっても戦争はなかった。

「あ、ありましたけど…日本は戦争をしないって憲法で決まっていて、軍隊もなくって…あの、自衛隊っていう国の安全を守る組織はあるんですけど…」

未来のことを話してしまっている。今度はその自覚はあった。だけど月島になら話してもいいんじゃないだろうか。彼はずっと自分に真摯に接してくれていたし、彼がいなければ仮に鶴見に保護されていたって今のように前向きな気持ちでいられたかどうかはわからない。

「そうか、君の時代に戦争はないのか」

少なくとも自分の身の回りには、という意味でナマエは小さく頷く。月島はおもむろに湯呑に手を伸ばし、その中のなみなみとした水面を見下ろす。

「それは、いいな」

月島がふっと口元を緩めた。単純に「優しい」だとか「柔らかな」だとか、そういう言葉では形容できない、いろんな感情がぐるぐると混ざっているような顔に見えた。
ああ。私はこのひとのために何ができるだろう。確かな動機は言葉にできなかったけれど、ナマエの心の中で明確に、また強烈に、そんな感情が芽生えていた。







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